
会期:2026/07/11~2026/07/12
会場:三重県文化会館 小ホール[三重県]
公式サイト:https://hatetocheek.com/kimitomo2026/
「しんどいのはみんな同じ」という言葉が「共感」「慰め」の形を借りて発せられるとき、なぜ、何が問題なのか。社会構造や規範、他者からの一方的なジャッジがもたらす抑圧の経験が「それぞれ異なる」という差異自体が覆い隠され、「ないこと」にされてしまうからだ。とりわけこの言葉がマジョリティからマイノリティに向けて発せられるとき、互いに「ともだち」と思っている関係には、わかりあえなさの深い断絶が口を開ける。だが、マジョリティ/マイノリティの構造自体も絶対的で固定的なものではなく、状況によって流動的に揺らぎ、勾配が変動し、あるいは多層的に重なり合っている。「喫煙なんて、将来の赤ちゃんのために良くない」という「善意の心配」がはらむ、「女性は当然、出産するべき」というジェンダー規範。社会に空気のように浸透し、洗い流そうとしてもこびりついたシスヘテロ規範や無意識の偏見に基づくマイクロアグレッション、「言い方が大げさだ」と非難の矛先を巧妙にすり替えるトーンポリシング、そしてセクシュアル・マイノリティが日常の端々で直面する困難を、本作はテンポのよい会話劇で解像度を上げてあぶり出していく。2025年の初演後、東京と三重で再演された。

[撮影:水澤桃花]
舞台は、地下にある寂れたカラオケ店。上手に受付カウンター、中央にカラオケルーム、下手に公衆電話ボックスのような一人用の喫煙ブースが設置されている。階段を降りながら、ナンパ目的でしつこく声をかけてくる男に罵声を浴びせるノンバイナリーの野澤。高校の同級生・由海の結婚式の途中、野澤のパートナーのノリちゃんが気分が悪くなり、付き添いとして途中退出したため、カラオケ店で飲み直すことにしたという。そこに、幼馴染の園と、園の恋人で同じ会社の先輩でもある甲斐田が合流する。カラオケ店は、野澤と園の大学時代の友人・衛の親が経営し、衛はアルバイトをしながら音楽活動を続けている。

[撮影:水澤桃花]
久しぶりに会った野澤、園、衛の3人と、野澤と衛とは初対面の甲斐田。アルコールの力も借りた空元気と気まずさが同居する二次会は、近況報告の会話のなかに、トランスジェンダー女性であるノリちゃんが直面するさまざまな困難を浮かび上がらせていく。ノリちゃんが結婚式で吐いてしまったのは、新婦の由海が「すべての恋人に幸せを」と言って野澤たちにブーケを手渡したからだ。「色んな愛の形がある」とスピーチしてブーケトスした由海は、園の目には感動的に映るが、「多様な性を認めて祝福しよう」という由海の言動は、自らが異性愛というマジョリティ側にいるという自覚に欠けており、善意で発せられたものであるからこそ野澤とノリちゃんを傷つけてしまう。
だが、もともと体調が良くなかったノリちゃんが吐いてしまった理由は、ブーケトスだけではなかった。前の職場では、「ありのままの姿を応援します!」というコピーとともに自社広告に載せられ、ダイバーシティ推進の広告塔にされかけていた。そして、LGBTQフレンドリーを掲げる(ただしHPに掲載されているのはほぼゲイの経験談である)転職先の会社に希望を見出すも、採用担当者から「女子トイレは使わないで」と真っ先に言われ、そのことをSNSに投稿したら炎上してしまい、リストカットを繰り返す精神的に不安定な状態に追い込まれていた。
ノリちゃんが不在の場で、さらに野澤を追い詰めるのが、甲斐田からの「相談」だ。なんと、ノリちゃんの転職先は園と甲斐田の会社であり、甲斐田はノリちゃんの上司候補だと明かされる。「どう対応したらよいか」とアドバイスを求める甲斐田は一見誠実だが、彼自身、トランス女性とトランス男性の違いもわからず、基礎的な知識すらない。野澤は混乱してうろたえながらも、「でもめちゃくちゃ特別な人間てわけじゃないんですよ」「一人一人違うので、どこまで許容できるかみたいなことが」「ノリちゃんは、やっぱり男性としては扱ってほしくない、というか、だからあの、それだけだとは思うんですよ、基本的には」と説明する。だが、「俺らは良いんだけど、社員の、まあ女性が」と言う甲斐田の周囲には、トランスフォビアがまとわりついている。

[撮影:水澤桃花]
園もまた、ノリちゃんのことを快く思っておらず、「佐川さん」とよそよそしく苗字で呼び、それを察している野澤も園にはノリちゃんを会わせていない。トランス女性に対して園が抱く嫌悪感は、もう一人の高校時代の友人、まーちゃんについてのエピソードで示される。美大に進んだまーちゃんは、アート界の不均衡なジェンダーバランスや(おそらくそれに基づく)性被害に遭い、SNSでトランス女性排除に回ってしまった。だが、園は「あんだけ男からクソみたいな目にあったら、男の体で? みたいな、受け入れられないのもわかるけどね」と発言する。園も元彼から暴力を振るわれた経験がある。だが園には、トランス女性が日常的に直面する偏見や困難に加えて、(トランスフォビアと女性蔑視という二重の負荷によって)トランス女性も性的嫌がらせの対象になりうる事態がまったく見えていない。
価値観の齟齬や深い断絶は、園と甲斐田という異性愛のカップルの間にも存在する。「結婚しても子どもは欲しくない」と言う園に対し、「結婚したら当然子どもをもつべき」「子どものいる家庭=幸せ」という価値観に何の疑問ももたない甲斐田との仲は、ギクシャクときしみ始める。また、本作は、男性どうしの格差やマイクロアグレッション、男性社会の抑圧もすくい上げて描写する。甲斐田と衛の間には正社員/アルバイトという格差があり、「音楽で成功できず、パラサイトシングルで、甲斐田のように結婚して子どもをもつ未来図など描けない」というコンプレックスを衛は抱えている。だが、男性性の規範を体現したような甲斐田自身、親兄弟や会社に染みついたホモソーシャルな空気に否応なく飲み込まれていることに、恐怖と息苦しさを感じていることが吐露される。
それぞれの人間関係の軋轢や抑圧が増幅され、蓄積されて臨界点を迎え、衛が甲斐田に水をぶっかけるという突発的な暴力の形で噴き出す。園は「野澤も佐川さんも大変だと思うけど、でも大変なのは皆同じじゃん」と諌めるが、野澤は「あたしとあんたのしんどさは、違うんじゃない?」と指摘する。採用担当者との相談の日、ノリちゃんはトイレのことを言われても、泣いたり怒ったりせず、「普通」に見えたと甲斐田は言う。だが、「その“普通”でいるために、あの日ノリちゃんがどれだけ努力したかっていうのは、分かりますか?」と野澤は尋ねる。「人間なんです、あたしも、だから一生懸命、どうしたらここで受け入れてもらえるかってずっと考えてるんですよ」と。「その、頑張ってきた全部、を、皆同じとか、しんどいとか、そんな、そんな言葉で、あんたがナシにしないで、お願い」──野澤の言葉は、園が「ともだち」と思っているからこそ深く突き刺さる。そして、「……よかったよ、あんたがそっち側で」「そっちは眺める側だから、見なくて済んでよかったよ」と園に向けられる痛烈な皮肉は、「演劇の舞台」という構造とも重ねられ、「マイノリティの物語を安全な距離から一方的に眺め、消費する観客」に対しても向けられるものだろう。
「もうやめよう。おしまいにしよう」という野澤の台詞は、「噛み合わず、徒労に終わるだけの会話はもうやめよう」という文字通りの意味の裏に、「園との友人関係の破綻」を示唆する。それぞれ野澤と園を演じる升味加耀と川村瑞樹が共同主宰するユニット「果てとチーク」の名前は、「hate to hope」に由来し、この2つの単語を英語で読むと「ヘイト」と「希望」という正反対の意味が浮かび上がる。「果てとほっぺ(頬)」というローマ字読みと、「ヘイトと希望」という英単語の二重の意味を、異なる角度から同時に読むことは可能か。「ヘイト」の只中に「希望」はどう見出せるのか。言葉遊びの駆使のなかに、切実な希求が込められている。

[撮影:水澤桃花]
後編では、こうしたダブルミーニングを念頭に置きつつ、野澤と園をめぐる終盤の展開を見ていく。ここには、「傷を再び反復しない形でどうやって語ることができるのか」というマイノリティが抱えるジレンマと根本的な問題が横たわっている。また、「劇中、なぜノリちゃんは不在化されているのか」という問いに焦点を当てるとともに、「カラオケボックス」という設定の秀逸さと、「個室の喫煙ブース」という装置の両義性についても掘り下げる。
鑑賞日:2026/07/11(土)
(後編へ)※9/11公開予定