今号から大阪中之島美術館の学芸員、大下裕司氏に「キュレーターズノート」を書いていただくことになりました。大下氏はこれまで、札幌、横浜で国際芸術祭や美術館の学芸員として活動されたあと、9年前から同館の準備室に所属。そして館がオープンしてから4年、木下佳通代の個展、森村泰昌、ヤノベケンジ、やなぎみわによる展覧会などを手掛けていらっしゃいます。大下氏の日頃の関心と行動が、ご自身の美術のテーマとどう結びついていくのか、その一端をのぞいてみたいと思います。(artscape編集部)
これまで数多くのキュレーターたちが寄稿してきたこの「キュレーターズノート」に、私も名を連ねることになった。さまざまな企画・調査の内容、その展開、図録や会場には現われない重要な要素が記された記事は、展覧会の企画がどのように形成されるか、その解像度を上げるとともに、キュレーターという仕事の幅広さを紹介してきたと感じている。私もその一読者であった。
寄稿するにあたり、私はここ数年にわたって個人的な関心から調査を進めている「馬」について書くことにした。乗馬をきっかけに調べ始めた大阪の馬事文化は、やがて自身の関心領域である「近現代」というものに接続していくこととなる。廃競馬場と戦後復興、台座だけが残された軍馬像、日本占領期の台湾の馬事と現在。そこから時間を遡り、馬が日本へ伝来した5世紀の大阪と、その伝来に深く関わった朝鮮半島の馬事へと広がった。一方で北海道への関心とも繋がって、神田日勝をはじめとする北海道の馬の表象、北海道・十勝や青森・三本木(現在の十和田)に置かれた軍馬補充部、そして開拓期の農耕馬たちの在りし日の姿を追い求めることへと繋がっていった。
こうした関心の展開は、「何かを企画するための調査」でもなく、「決まっている企画を補完するための調査」でもなかった。行く当てのない放浪のように、目の前に現われるものすべてに導かれ、馬なりに進んできたに過ぎない。ただ、これらに共通していたのは、いずれも「イメージ」を求める旅路であったことである。それと同時に、名前、あるいは名付けというものが、漠然とした存在を個別具体的で、輪郭あるものへと押し上げるという、文字にすれば当たり前で、しかしながら代えがたい事実でもあった。本稿では数回に分けて、そうした展覧会外の調査について記したい。さまざまな方の「キュレーターズノート」を毎号楽しみにされている方にとっては、何の参考になるものでもないかもしれないが、これもまた、キュレーターという生き物の「ノート」だと許していただければ幸いである。
大阪競馬場
今年の7月17日から8月30日まで、大阪市立自然史博物館にて「午年展第2弾 長居を駆けた馬たち~大阪競馬場だったころ」というケース1基だけの小さな展示が行なわれた 。同館のある長居公園は1948年から1959年にかけて、大阪競馬場があった。同地は近代には旧帝国陸軍の高射砲陣地が置かれていたと言われ、現在の自然豊かな景色からは想像できない歴史がある。同展には大阪競馬場に関する開催ポスターや、マッチラベル広告、馬券のほか、当時の写真やそれらを掲載した冊子や記録誌などが展示された。
「午年展第2弾 長居を駆けた馬たち~大阪競馬場だったころ」の展示風景[筆者撮影]
流用されたわけではないが、不思議なことにいまの長居公園の航空写真に、かつての大阪競馬場のコースレイアウトを重ねると、第4コーナーあたりが遊歩道の曲がりと緩やかに重なる。そこを歩いていると、現在の競馬場で耳にする馬たちの地鳴りが聞こえてくるようだ。しかしふと思うのである。現在の競馬では、古くはハイセイコー、オグリキャップ、近年ではディープインパクトといったアイドルホースの名前が記憶され、競馬を知らない人でも、その名を知る人は少なくない。馬の名前と姿は記憶され、それと同時に記録もある。はて、この競馬場で走った馬とは一体何者であったのか。

現在の長居公園[筆者撮影]
かつて大阪は、大阪港から軍馬を戦地へ送り出してきた。また大阪競馬場の興業は大阪の戦後復興の支援にもなったとされる 。そう考えると、大阪で暮らす私もまた、彼らの疾走・激走の果てに生きているように思えた。何か記録が残っているだろうと思い、同地を駆けた馬について調べることにした。そのことが、近現代という時代の移り変わりのはざまで忘れられてきた存在への、何らかの弔いになる気がしてならなかった。

港住吉神社に残る、かつて軍馬像が置かれていた台座[筆者撮影]
馬たちを送り出した港の近くには、軍馬像がなくなり台座だけが残る
まずは出馬表にあたればすぐに名前が見つかるものと思っていた。しかし、大阪競馬場が閉場した1959年の段階では、地方競馬全国協会(NAR)はまだ存在していない 。NARにも、戦後の転換期にあたる大阪競馬場の記録は残っていなかった。そこで、競馬新聞などの予想紙に名前があるのではないかと思い調べると、『競馬キンキ』という専門紙があり、同紙が大阪競馬場のことも扱っていたのではないかということだった。しかし、国会図書館のマイクロフィルムにもほとんど資料を見つけることができなかった。そんななか、1983年の『週刊競馬ブック』のあるコラムの記事について問い合わせるなかで、オーエンス、アダチヒメ、テンラク、コガネマルなどの馬の名前を確認することができた。これらが最初に知った大阪競馬場を駆けた馬たちの名前だった。
だが、同記事以外に、2021年よりその発行を引きついだ『競馬ブック』にも当時の記録は残っていないという。一方で、同誌に寄稿し、廃競馬場などを研究されている矢野吉彦氏をご紹介いただいた。彼もまた、時代の移り変わりのなかで消えていった競馬場を調査するなかで、そこを駆けた馬の名を追いかける人だった。
矢野氏はすでに大阪競馬場を走った馬の名前をいくつか把握していた。彼もまた、国会図書館のマイクロフィルムを調査していたが、同時期のさまざまな新聞に掲載された馬名を追っていたのだという。大きなレースであれば専門紙以外にも掲載されたようである。矢野氏の悉皆的な調査には、敬服するばかりである。これまでに見つけた馬の名前と資料を、矢野氏は快く見せてくださった。サンライズ、グットタイム、ニュータイム、フェアキング、アキノボル、グルーレイク、クニノボル、マンショウ……文字として並んだ名前に過ぎない。しかし、こうして名前を知ることで、それまで「大阪競馬場を走った馬たち」でしかなかった存在が、一頭一頭、わずかに輪郭を持ったように思えた。墓碑も記念碑もない。だが、彼らが駆けたかつての景色は、いまの長居公園にもうっすらと繋がっているように思う。

大阪競馬場で撮影された写真[写真提供:おだまき氏]
名前を知りたいと思って始めた調査だった。しかし、名前を知ると、今度はその姿が見たくなった。どのような馬だったのか。どのような体つきで、どのような顔をしていたのか。名前が残っていることで、その馬が確かに存在したことはわかる。だが、その姿を写した写真や絵がなければ、私たちは彼らをどのように思い浮かべることができるのだろうか。名前を追うことは、いつしか彼らの「イメージ」を探すことへと変わっていった。
バロン西と軍馬補充部
パリオリンピックが開催された2024年、日本は92年ぶりに馬術競技でメダルを獲得するという快挙を達成した。そのなかで、92年前のメダリストにも再び注目が集まった。それが「バロン西」こと、西竹一であった。西はウラヌスという馬と共に、1932年のロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技で金メダルを獲得した。西は帝国陸軍の軍人で、男爵でもあったが、1945年に硫黄島で戦死した。ジョッパーブーツを履き、短鞭をもって指揮をしたといわれ、自身の愛したウラヌスのたてがみを身に着けていた。戦後、米軍によってそのたてがみは回収され、日本に返還されることになる。だが、西の遺品は当時遺族には受け取られず、縁のあった本別町へと寄贈されることになった。
本別町にはかつて帝国陸軍の軍馬補充部十勝支部が置かれていた。戦地で使役される軍馬を生産し、戦場へ送り出すことを目的とした施設である。西も戦時中、ここに勤務していた。ウラヌスのたてがみは、本別町歴史民俗資料館でいまでも見ることができるという。問い合わせると、いつでも見に来てくださいとのことだった。 モノクロの写真しか残らないウラヌスは、栗毛だったという。そこには、綺麗な金色のたてがみが残されていた。出征前に西自身がウラヌスから切り取ったそのたてがみは、かつて実際にウラヌスの体の一部だったものである。それが、その馬の名前と共に、そこに展示されていた。

ウラヌスのたてがみ、本別町歴史民俗資料館蔵[筆者撮影]
バロン西に関する展示のほかに、本別町歴史民俗資料館では、かつての軍馬補充部の様子を伝える常設展示がある。そこにあったのは、戦地へ送り出された数々の馬の「蹄跡」だった。第二次世界大戦においても、日本軍は輸送などのために多数の軍馬を運用した。本別町の軍馬補充部で生産された馬は、仙美里駅から列車に乗せられ、戦地へと運ばれていった。多くの馬はその果てで戦死し、帰っては来なかった。

仙美里駅跡の様子[筆者撮影]
軍馬たちは、出征のための汽車に乗ることを非常に嫌がったという。その当時、駅職員だった森弘は、何頭もの馬を汽車に乗せ、送り出した。恐怖で暴れる馬たちを無理に列車へ乗せ、送り出さざるを得なかった。その悔恨の念から、1988年、森は私財を投じて戦没軍馬鎮魂之碑を本別町に建てた。そのことを知った全国の人々から、「自分の家の馬も供養してほしい」との声が寄せられることになる。

戦没軍馬鎮魂之碑[筆者撮影]
軍馬が不足するようになると、農耕馬として各家庭で飼われていた馬も「徴用」の対象となっていった。それは、家々にとって、家族を奪われる思いに等しかったことだろう。慰霊碑には、馬たちのたてがみと、命名書などその名前のわかる資料が全国から送られてきた。馬を送り出した人々にとって、彼らは単なる「馬」ではなかった。それぞれに名前を持った、この世にただ一頭の家族の一員なのだ。慰霊碑に入りきらないほど全国から集まったたてがみと命名書は、本別町歴史民俗資料館で所狭しと展示されている。それはどこか、彼らを弔い祀る、祭壇のようでさえあった。

本別町歴史民俗資料館の展示風景[筆者撮影]
北海道の農耕馬
北海道への入植が進められた時代、欧米式の牧畜が導入された。1876年、開拓使によって札幌・真駒内に牧牛場が設置される。その後、真駒内種畜場と名称を変え、1946年に米軍に接収されるまでの70年間、北海道の畜産発展に大きな役割を果たした。
その開拓の時代に、北海道の馬産改良に大きく貢献した一頭の馬が名を残している。その名を
馬霊神蕾驊
蕾驊の碑が札幌市北区の、まさに屯田にあるという。本別町での調査のあと、そのまま同地へ向かうことにした。そこにあったのは、「馬霊神蕾驊号」と彫られた、札幌軟石造りの人間の墓のような碑だった。この碑は、この馬を飼養していた服部政雄がその功績を称えて、1909年に建てたものだという。しかし、オンライン上で調べられる蕾驊の情報はこの石碑までで、どんな馬だったのかについては、まったく情報がない。これほど語り継がれる名馬なのだから、写真の一枚でも残っているのではないかと思うが、刊行物にも見当たらない。

碑の写真[筆者撮影]
現地には何か残っているのではないかと考え、資料が残っていそうな施設に片っ端から相談することにした。石碑の横には札幌市北区が設置した案内看板があったこともあり、まずは屯田のある札幌市北区役所に問い合わせたが、設置した時期の資料は何も残っていないという。そこから、屯田郷土資料館、新琴似屯田兵中隊本部、札幌村郷土記念館などの周辺施設をはじめ、北海道博物館、北海道大学内のさまざまな施設にも問い合わせた。さらに、蕾驊が屯田に貸し下げられる前にいた真駒内種畜場のあった場所に建つエドウィン・ダン記念館や、真駒内駐屯地史料館などにも相談した。問い合わせたすべての施設が親身に対応してくださり、いつでも来てくださいと言ってくれた。整理されてはいないが、もしかしたらあるかもしれない。資料と蕾驊との関係がまだ見出されていないのだとすれば、それも当然だろう。
そこで、さっぽろ天神山アートスタジオに滞在しながら、アーティストの佐藤壮馬氏と札幌のギャラリーCAI03の佐野由美子氏にご協力いただき、蕾驊探しの調査を始めることとなった。 あらゆる場所で写真や資料を閲覧させていただいた。蕾驊が生きた時代の、真駒内や屯田の様子がわかる写真までは見つけることができたが、肝心の蕾驊本人を示すものが見つからない。ここまでくると、一目でいいからその顔が見たい。蕾驊は、どんな顔をしていたのか。どんな馬体で、どんな毛色をしていたのだろう。この馬は本当に名を残すだけなのだろうか。
完全に暗礁に乗り上げたころ、佐藤氏と佐野氏が蕾驊の碑をまだ見ていなかったことに気付く。では行ってみようということになり、再び現地へ赴いて石碑を見ていると、近くの畑から一人の男性がやってきて、石碑について話してくださった。その方はなんと、「服部です」と名乗った。蕾驊を飼っていたとされる服部政雄の子孫にあたる方だったのである。これまでの調査のことと、どうにか写真で蕾驊を見たいと思っていることを伝えると、「写真はないが、絵ならある」と仰った。そして「家にあるけど、見ていきますか」と、突然訪れた私たちをご自宅に招いてくださった。
玄関に飾られた数枚の馬の絵。どれもみな服部家で飼われていた馬たちだという。そのなかの一点に、蕾驊の絵があった。画家の名は露山という。水墨と木炭で、少しデフォルメされて描かれているようにも見える。これは蕾驊の没後に、画家がその姿をイメージして描いたものなのかと聞くと、服部氏は「いや、露山はうちに泊まりながら蕾驊を見て描いていたと聞いています」と仰った。つまり本作は、蕾驊を直接見た画家が残したものなのだ。探し求めていたその姿は、写真ではなく、絵画として残されていたのである。
畠中露山による蕾驊[筆者撮影]
畠中露山
名を畠中露山という。1887年、愛媛県に生まれ、大正期に十勝地方に移住。昭和初期に札幌の白石区に居を構えたとされる。聞けば露山は、馬を飼う家に滞在しながら、そこで飼われた馬を描き、描いた絵を宿と食事に代えながら北海道を旅した画家だという。露山は馬の絵を好んで描いた。
私が探していたのは、名前だけが残され、想像するほかなかった存在の姿だった。そこには蕾驊を目の前にした露山の眼差しがあり、その眼差しを通して描かれた馬の姿を、今、私は見ている。名とともに、探し求めた馬の「イメージ」がそこにある。写真を探すことから始まった調査の先で、私は一枚の絵に辿り着いた。これこそが「作品」というものの力なのだと実感する。
大阪競馬場を駆けた馬たちの名前を探すことから始まった調査は、本別で馬たちの身体の一部とその名に出会い、北海道の開拓を支えた蕾驊という一頭の馬へと辿り着いた。名前を知れば、その姿が見たくなる。姿を探せば、その馬を見つめた人の眼差しに出会う。そうして馬を追うことは、そこに生きた人々や、その時代の景色を追うことへと繋がっていった。
歴史のなかに名を残した人々だけでなく、その傍らで働き、走り、戦地へと送られた馬たちにも、それぞれに名前があり、顔があった。その名と「イメージ」を追うことで、これまで見えていなかったものが、少しずつ輪郭を持って現われてくる。そして蕾驊を探すなかで出会った一枚の絵は、今度は露山というひとりの画家へと私を導いた。北海道を旅しながら馬を描いたという露山は、いったい何を見ていたのだろうか。