生命の危険を感じるほどの酷暑だったこの夏。村田真さんは全国の美術館を訪ね歩いていらっしゃいました。美術館のなかは涼しい。でもそこまでがめちゃくちゃに暑かったはず。全国行脚のテーマは「周年記念」。今年、こんなにたくさんの美術館が開館◯周年を記念しているんですね。その設立背景から日本社会の経済と文化の変遷が透けて見えるようです。(artscape編集部)
今年、東京都美術館が開館100周年を迎えた。日本最初の公立美術館である同館は、よくも悪しくも以後各地に続々と誕生する美術館に大きな影響を与えていく。これを機に、今年10周年、20周年……と周年記念(アニヴァーサリー)を迎える美術館をいくつか訪れてみた。
美術館の100年を振り返る
以下に掲げたのは、2026年に周年記念を迎えた主な美術館である(名称は現在名でカッコ内は開館時)。
- ・100周年=東京都美術館(東京府美術館)
- ・90周年=日本民藝館 、大阪市立美術館
- ・60周年=山種美術館、出光美術館=休館中、長野県立美術館(長野県信濃美術館)、佐野美術館、京都府立堂本印象美術館(堂本美術館)
- ・50周年=SOMPO美術館(東郷青児美術館)、熊本県立美術館
- ・40周年=札幌芸術の森野外美術館、北海道立函館美術館、八戸市美術館、世田谷美術館、静岡県立美術館
- ・30周年=アサヒグループ大山崎山荘美術館(アサヒビール大山崎山荘美術館)、浜田市世界こども美術館、ウッドワン美術館
- ・20周年=青森県立美術館
- ・10周年=すみだ北斎美術館、久留米市美術館
これを見ていくつか気づくことがある。
ひとつは、開館80周年および70周年の美術館がないこと。80年前の1946年は敗戦直後の混乱期だから美術館どころの騒ぎでないことは理解できる。70年前の1956年もまだ再建途上で美術館新設の余裕がなかったのだろうか。しかしその間の1951年には神奈川県立近代美術館、1952年には 東京国立近代美術館(国立近代美術館)やアーティゾン美術館 (ブリヂストン美術館)など重要な美術館が相次いでオープンしているので、芸術文化への渇望は膨れ上がっていたはずだ。
実は1956年にも美術館が開館しなかったわけではない。ブリヂストン創業者の石橋正二郎が故郷の福岡県久留米市に石橋美術館を開設していたが、10年前の2016年に久留米市が運営を引き継いだため閉館となったのだ。したがって今年は久留米市美術館の開館10周年となる。
もうひとつ気づくのは、ほかの年は1、2館程度なのに、60周年と40周年の美術館がそれぞれ5館ずつあり突出していること。これは偶然ではないだろう。1960年代は高度経済成長真っ盛りの時代で、好景気に湧く企業のオーナーの美術コレクションを公開するため、多くの私立美術館が設立されたからだ。1970年代はオイルショックによる低成長時代に入ったため新設は少なく、1986年はまさにバブルの始まる時期であり、各自治体が競うように美術館を建設した「美術館林立」時代。開館40周年の美術館がすべて公立であることに留意したい。
バブルがはじけた1990年代には新規の美術館計画は目に見えて減ったものの、バブル期に計画された美術館が実現していた時期であり、21世紀に入ると新設の美術館は明らかに激減していく。これだけでも美術館建設がいかに景気の浮沈をはじめとする時代動向に左右されてきたかがわかろうというものだ。
それでは上記の美術館を可能な限り見ていこう。東京都美術館は最後にとっておきたいので、歳の若い順に、まずはすみだ北斎美術館から。
10/すみだ北斎美術館
両国駅から歩いて数分の緑町公園に、鈍いシルバーに輝く威容の建物が現われたのは2016年のこと。地元ゆかりの浮世絵師、葛飾北斎を顕彰するために設けられた墨田区立のすみだ北斎美術館である。

すみだ北斎美術館[筆者撮影]
区立で個人を対象にした美術館には、大田区の龍子記念館や台東区の朝倉彫塑館、豊島区の熊谷守一美術館などがあるが★1、明治以前の芸術家を扱う区立の個人美術館はここだけだろう。
美術館の建設計画が持ち上がったのは1989年というから、昭和から平成に代替わりしたバブル絶頂期のころ。だが、敷地を確保したものの着工前にバブルが崩壊、財政難のためいったん凍結されてしまう。再び動き出したのは2006年、同区内に東京スカイツリーの建設が決定し街が活気づき始めてから。2009年には設計に妹島和世が決まり、2016年4月に竣工、11月に開館した。
建築面積は約700平方メートルとそれほど大きくないが、アルミパネルで覆われた外壁には窓がないため金属の巨大な塊のようにも見える。にもかかわらず威圧感が少ないのは、アルミパネルが周囲の風景をぼんやり映し出しているからだろう。窓がないのは主に紙の作品を紫外線から守るためで、その代わり外壁の何カ所かに鋭角のスリットを入れ、また地上階は路地のように四方からの通り抜けを可能にし、外観の無愛想な印象を和らげている。建物からは江戸の情緒や下町らしさは感じられないが、北斎の造形の大胆さや革新性には通じるものがある。
今年度ここで開かれる企画展は、ほかの周年記念の美術館もそうであるように、すべて「開館10周年記念」と銘打たれている。春の「ひらけ、絵手本!『北斎漫画』エトセトラ」(2026/03/17-05/24)に続く企画展「北斎 広重 ふたりの富士、それぞれの富士」(2026/06/23-08/30)は、江戸後期を代表する2人の浮世絵師が描いた富士の絵を並べて比較するもので、意外な発見があった。
富士といえば北斎の「冨嶽三十六景」がよく知られているが、広重もそれを意識してか「不二三十六景」「冨士三十六景」など北斎以上に富士山を描いている。といっても浮世絵だから似たり寄ったりだろうとタカをくくっていたが、じっくり見比べてみると、北斎の富士が急峻で頂上が鋭角なのに対し、広重は山容がなだらかであり、違いは歴然。尖った北斎に温和な広重という両者の性格の違いが表われているのかもしれない、と思ったりもした。
現在は「ベスト オブ すみだ北斎美術館―隅田川両岸景色図巻と名品―」(2026/09/15-11/23)を開催中。肉筆《隅田川両岸景色図巻》をはじめ、未公開作品や新規収蔵作品を含む展示となる。
20/青森県立美術館
都道府県立美術館が先を競うように続々とオープンしたのは1980年代のことだから、2006年開館の青森県立美術館は最後に近い県立美術館である。
そもそも青森県には20世紀まで、税務署だった建物を改築した1986年開館の八戸市美術館しかなかったが、2001年に青森市内に展示ギャラリーを備えたアーティスト・イン・レジデンス、国際芸術センター青森(ACAC)が開設されたのをはじめ、2006年に青森県立美術館、2008年に十和田市現代美術館、2020年に弘前れんが倉庫美術館 が相次いで開館し、2021年には八戸市美術館もリニューアルオープン。青森県はいってみれば「美術不毛の地」から一気に「美術館巡礼の地」へと変貌を遂げたのだ。地理的にも規模的にもその核となるのが県立美術館である。
場所は青森市郊外、縄文時代の集落跡が発掘された三内丸山遺跡に隣接する地。設計コンペで選ばれた青木淳のプランは、その遺跡発掘のためのトレンチ(溝)にヒントを得て、地面に掘った溝の上に白い凹凸の構造体を被せたような建築。展示室の床と壁の一部は固めた土が剥き出しで、それを白い壁と天井が覆うかたちだ。
開館20周年として、この夏「装飾する魂」(2026/07/11-09/27)を開催。なぜ青森で「装飾」かといえば、サブタイトルに「ユーロ=アジア世界をつなぐ文様の宇宙―縄文、ケルトから、ねぶたまで」とあるように、県内の縄文遺跡から発掘された土器・土偶をはじめ、地元出身の棟方志功の板画、そして青森名物ねぶた祭りの大灯籠まで、いずれもうねり渦巻くような装飾文様が通底しているからだ。
そこで今回、芸術人類学者の鶴岡真弓氏を監修に迎え、青森から津軽海峡を越えた北海道、シベリアにかけて広がる北方文化、その先のユーラシア最西端のケルトまで視野を広げて、汎ユーロ=アジアの「装飾」について探ることになった。いわば「装飾の博物誌」ともいうべき展覧会なのだ。
出品は『ケルズの書』『リンデスファーン福音書』などケルトの装飾写本から、棟方志功の板画、北方民族の衣装や民芸品、縄文土器・土偶、今和次郎の図案やドローイング、ねぶたの大灯籠まで約200点。美術品だけでなく生活用品やレプリカもあり、美術館というより博物館に近い展示で見応えがあった。

「装飾する魂」より、縄文の土器・土偶とアイルランドの巨石の拓本(奥)、青森県立美術館[筆者撮影]
また建物の隅の何カ所かに、なぜこの壁に隙間があるのかとか、なぜこの扉は開いているのかといった説明書きがある。これは「青森県立美術館の装飾、もしくは皮膜」と題された関連展示で、「装飾する魂」に「便乗」して青木淳の建築コンセプトを明かすもの。装飾を排したように見える美術館建築にも、随所に工夫が凝らされていることがわかる。
30/アサヒグループ大山崎山荘美術館
大阪府との府境に近い京都・大山崎町の山麓にアサヒビール大山崎山荘美術館(旧称)が開館したのは1996年。名称どおりアサヒビール(現アサヒグループホールディングス)株式会社が開設した美術館だが、本館の山荘自体は関西の実業家・加賀正太郎が大正から昭和にかけて建てた別荘だった。
加賀の死後、建物は何度か転売された後1989年に大規模マンションに建て替える計画が持ち上がったが、地元有志が中心となって保存運動を展開し、加賀が初代社長と親交のあったアサヒビール株式会社に相談。当時スーパードライの大成功を受けて芸術支援活動を始めていた同社は、山荘を美術館として復元することにしたのだ。

アサヒグループ大山崎山荘美術館 本館[筆者撮影]
1996年といえばバブルは弾けたものの、好景気の時代に計画された美術館が相次いで完成していたころ。有名建築家に設計を任せたり、歴史的建造物を美術館に転用したり、建築そのものを呼び物にする美術館が増えていたが、ここもそのひとつ。重厚な英国風山荘の本館に、安藤忠雄設計のコンクリートによる円柱形の新館「地中の宝石箱」を接続させた建築は一見の価値あり。2012年には同じく安藤による四角柱の新館「夢の箱」を増設している。
同館の目玉コレクションは、朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)株式会社初代社長・山本爲三郎が集めた「民藝」コレクションと、同社が購入した《睡蓮》の連作をはじめとするモネ作品である。開館30周年記念展もこの2本を軸にしたものだ。
本館の「山本爲三郎・河井寬次郎没後60年記念 共鳴 河井寬次郎×濱田庄司─山本爲三郎コレクションより」(2026/03/20-09/06)では、山本が柳宗悦らの民藝運動を支援していたころから蓄積された民藝コレクションを公開。本館ではその後も「開館30周年記念」として「ジョルジュ・ルオー─いつくしむまなざし、祈りの筆あと」(2026/09/19-12/06)、「萩尾望都展―欧州への憧憬」(2026/12/19-2027/04/11)が予定されている。
また新館では「開館30周年記念 没後100年 クロード・モネ展」(2026/03/20-2027/4/11まで)を開催中。今年はモネの没後100年でもあり、各地の美術館で「モネ展」が開かれたが、同館では《睡蓮》の連作5点のほか《アイリス》《日本風太鼓橋》など全8点が1年間通して公開されている。
40/静岡県立美術館
40年前の1986年は、冒頭でも述べたように公立美術館建設ラッシュの時代。県立美術館は個人の趣味や信念で築く私立美術館と違い、行政が文化力を内外にアピールするためのツールでもあるので、どこも似たり寄ったりになりがちだ。だいたい国内外の近代美術と地元ゆかりの作品をコレクションし、展覧会はおおむね企画展、常設展、団体展の3本が基本である。
館の独自性を打ち出そうとすれば、ポストモダニズムの流行に乗って奇抜なデザインの建築で差をつけるくらいしかないが、静岡県立美術館の場合、郊外の緑豊かな日本平の斜面に位置するため、周囲からあまり目立たない低層建築に落ち着いた。
では静岡県立美術館ならではの特徴はなにかといえば、「風景画」と「ロダンの彫刻」のコレクションだろう。風景画のほうは静岡県が日本の東西を結ぶ要衝の地のため、それを拡大して洋の東西における風景表現に着目したのだという。ロダンに関しては、1988年に《カレーの市民》を取得したことからこの彫刻家の作品を目玉コレクションとして集め始め、1994年に計32体の彫刻を大空間で鑑賞できるロダン館が完成している。立派なコレクションだが、風景画も彫刻も地味なので大量の集客は見込めない。
このようにコレクションも建築も際立つものがなく、展覧会も「これは見たい」と思わせる独自の企画展を数年にいちど開く程度の、成績でいえば「優」でもなく「可」でも「不可」でもない「良」くらいの公立美術館だと思っていた。
だから開館40周年枠は、ぶっちゃけ最初は静岡県立美術館ではなく、世田谷美術館とその「開館40周年記念 世田美のあしあと─暮らしと美術のあいだで」(2026/02/21-04/12)を取り上げるつもりだったが、その後「開館40周年記念展 静岡県立美術館をひらく 7つの扉」(2026/04/25-06/21)を見て、即こっちに決めた。それほど好奇心をくすぐるというか、痒いところに手の届く企画展だったのだ。
同展では展示室を7室に分け、館長を含む学芸員がそれぞれの部屋を担当した。第1室「美術館とは何だろう」は木下直之館長がみずから企画したもので、絵馬堂と美術館の構造や役割の違いから美術館の本質を明らかにしていく。それを受けて第2室「絵画のかたち、油絵の居場所」ではふだん見落とされがちな額縁に焦点を当て、第3室「風景をあつめる」では「風景画」コレクションの収集の経緯をたどり、最後の第7室「人形と彫刻、ロダンへの道」では土偶から人形、生人形、ロダンの彫刻まで違いを明らかにしていく。
コレクションをベースにしながら、改めて「美術とはなにか」「美術館はどうあるべきか」を考えさせるという意味で、とても意義のある「周年記念展」になっていたように思う。

「開館40周年記念展 静岡県立美術館をひらく 7つの扉」より、第3室「風景をあつめる」展示風景[筆者撮影]
50/SOMPO美術館
SOMPO美術館が「東郷青児美術館」の名称で開館したのは1976年のこと。場所は母体の安田火災海上保険(現・損保ジャパン株式会社)が新宿西口に建てた超高層ビルの42階である。館名が当初「東郷青児美術館」だったのは、同社の前身企業が戦前から東郷の絵をパンフレットやカレンダーに使用するなど交流があり、そのコレクションを公開するために開設したからだ。

SOMPO美術館 2020年に左奥のビルの42階から移転した[筆者撮影]
だが、美術館の存在を一躍知らしめたのは1987年、安田火災海上保険がファン・ゴッホの《ひまわり》を当時の史上最高値である53億円で落札し、同館で公開してから。それまで約2万人だった来館者が同年一気に24万人に急増したという。この出来事はバブル経済のシンボルとなり、以後日本人の「バブル紳士」が次々と名画を高値で買い漁り、世界のアートマーケットを騒がせることになる。
この《ひまわり》の公開を機に館名を「安田火災東郷青児美術館」に改称。ぼくは密かに美術館名に「火災」が入るのはまずいんじゃないか(しかも超高層ビルの最上階に近いし)と思っていたが、幸か不幸か以後法人名が変わるたびに「損保ジャパン東郷青児美術館」(2002)、「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」(2014)と変化。2020年には本社ビル敷地内に新築した建物に移転するのを機に、すっきり「SOMPO美術館」に落ち着いた。
《ひまわり》はまた贋作疑惑が飛び交ったり(現在は否定されている)、元所有者の遺族から返還要求の訴えを起こされたりしたが、これは一種の有名税のようなもの。現在は東郷青児コレクションにもファン・ゴッホの名前にも頼ることなく、安定した企画展で運営されている。
今年度に開かれる「ウジェーヌ・ブーダン展」(2026/04/11-06/21)、「山口華楊展」(2026/07/11-08/30)、「アルベール・マルケ展」(2026/09/22-12/13)はすべて「開館50周年記念」と謳っている。モネの師とされるブーダン、竹内栖鳳に師事した山口、マティスとともにフォーヴィスムを牽引したマルケと、いずれも第一人者の影に隠れがちながら存在感を発揮した「通好み」の画家たちの回顧展である。
そして掉尾を飾るのが「生誕130年 東郷青児展」(2027/01/09-02/21)だ。同館の原点ともいうべき画家を回顧することで、半世紀にわたる美術館の歩みを振り返ることにもつながるだろう。
60/山種美術館
1960年代は高度経済成長に伴い、私立美術館の建設ラッシュを迎えた時期。東京だけでも五島美術館(1960)、サントリー美術館(1961)、高輪美術館(現・セゾン現代美術館、1962)、畠山記念館(現・荏原 畠山美術館、1964)、出光美術館 (1966)など、大企業オーナーのコレクションを公開する美術館が相次いで開館していた。しかしブリヂストンの石橋正二郎のように西洋美術や日本の近代絵画に目を向けるコレクターはまだ少なく、よき趣味として茶や書画骨董をたしなみ、日本の古美術を競って集める実業家が多かった。
山種証券(現・SMBC日興証券)の創業者・山﨑種二も初めは酒井抱一らの日本絵画を集めていたが、あるとき高額で偽物をつかまされたことから収集を同時代の日本画に絞ることにしたという。
こうして1966年、日本橋兜町に新築した山種証券本社ビル内に、初の日本画に特化した美術館として開館。新築の自社ビル内に美術館を開くのはブリヂストン美術館の前例があり、1975年に赤坂に移転したサントリーや、前述の安田火災海上なども新社屋に美術館を構えるようになった。同館はその後1998年に千代田区三番町に仮移転し、2009年に渋谷区広尾の現在地に落ち着く。
ここも2026年度に開かれる企画展はすべて「開館60周年記念特別展」と位置づけており、「川合玉堂」展(2026/05/16-07/26)に続き、現在「奥村土牛」展(2026/08/8-10/04)を開催中。驚くのは同館が土牛作品を135点も所蔵していること、しかも今回《鳴門》《門》《醍醐》といった代表作がそろって出展されていることだ。日本画には珍しくフォーマリスティックな傾向を見せる作品群が一堂に会する貴重な機会である。

開館60周年記念特別展2 奥村土牛」より、《鳴門》(1959)[筆者撮影]
秋以降は「開館60周年記念特別展3 山種コレクション名品選Ⅰ近代編 ザ・ベスト・オブ・山種コレクションⅠ─横山大観、竹内栖鳳から上村松園、速水御舟へ─」(2026/10/10-12/6)、「開館60周年記念特別展4 山種コレクション名品選Ⅱ現代編 ザ・ベスト・オブ・山種コレクションⅡ─東山魁夷、平山郁夫から千住博、山口晃へ─(仮称)」(2026/12/12-2027/03/7)と続く。
90/大阪市立美術館
東京府美術館(東京都美術館)、大礼記念京都美術館(京都市京セラ美術館)に次ぐ3番目の公立美術館として1936年に開館。すでに東京、京都、奈良には国立の博物館★2もあるのに、第2の都市大阪には美術館も博物館もなかったため、1920年に大阪市は4年後の開館を目指して博物館を兼ねた美術館設立を決議。計画通りに進んでいれば東京より早く美術館が誕生したはずだが、敷地問題や関東大震災の影響などで着工が遅れ、その後も世界恐慌により工事が3年半も中断し、東京に遅れること10年の1936年にようやく完成を見た。
建物は先行する2館と同じく左右対称の古典的プランだが、外観は帝冠様式を思わせる三角屋根の和洋折衷スタイル。これは美術品を保存・展示する機能から和風の「倉」を意識したことに加え、日本の伝統文化を重んじる国粋主義の時代風潮もあっただろう。1933年に開館した大礼記念京都美術館(京都市京セラ美術館)も、1937年に竣工した東京帝室博物館(東京国立博物館)本館も、左右対称の洋風建築に瓦屋根を被せた帝冠様式だった。

大阪市立美術館[筆者撮影]
また大阪市立美術館と同じ年に開館した日本民藝館は、生活の場で使われる民藝品を展示するという目的があったとはいえ、外見は美術館というより日本の屋敷のような和風建築だ。さすがに90年も遡ると時代を感じさせるなあ。
大阪市立美術館は博物館も兼ねた美術館として出発したため、古美術から団体展まで古今東西あらゆる美術品を扱うことになった。開館記念展は「文展」から改組された第1回帝国美術院展(帝展)で、そのとき購入した橋本関雪《唐犬》など6点が同館最初のコレクションになったという。
2025年には約2年半に及ぶ大規模改修工事を経てリニューアルオープン。大阪関西万博開催にあわせ「日本国宝展」(2025/04/26-06/15)「ゴッホ展」(2025/07/05-08/31)と大型展を連発し、万博終了後もイタリア館に出展された《ファルネーゼのアトラス》を特別公開する「天空のアトラス イタリア館の至宝」を開くなど話題を集めた。
開館90周年記念特別展として開かれたのは、「全力! 名宝物語―大阪市美とたどる美のエピソード」(2026/04/25-06/21)と、「水滸伝」(2026/07/11-09/06)。特に前者はコレクションを中心に名品を紹介するもので、上述の最初の収蔵作品をはじめ、鎌倉時代の国宝《六道絵のうち餓鬼道幅、優婆塞戒経所説念仏功徳幅》、書、石仏、陶磁器など古代から近代まで約220件が展示された。
100/東京都美術館
東京府美術館が開館した1926年5月は、元号が昭和に変わる直前の大正末期に当たる。美術館建設を強く促したのは、文展や二科会など定期的に展覧会を催す美術団体だった。それまで彼らが展覧会場として使っていたのは、上野の東京勧業博覧会(1907)の仮設小屋として建てられた粗末な「竹の台陳列館」だったので、常設の美術館を熱望していたのだ。
美術団体は国に美術館設立を求めたが、東京府がそれに応え1921年に建設構想を発表する。だが、予算が足りずに十分な施設ができないことから、石炭で一財産を築いた九州の実業家・佐藤慶太郎が100万円(現在40億円相当)を寄付することになった。東京の美術館建設を、大富豪ともいえない九州の民間人の寄付で賄ったのだ。

東京都美術館[筆者撮影]
しかし1923年、敷地問題が解決しないうちに首都圏を大地震が襲う。もし工事が進んでいたら100万円はパーになっていたかもしれない。それだけでなく、大震災によって美術館の性格も修整を余儀なくされる。佐藤も東京府も当初コレクションを常設展示できる美術館を思い描いていたが、震災復興のために作品の購入予算がなくなり、美術団体に会場を賃貸する「貸しギャラリー」を中心に運営せざるをえなくなったのだ。
こうした団体展への賃貸が京都市、大阪市など後続美術館の前例となり、公立美術館の多くは団体展の受け皿になっていく。確かに当時「帝展」をはじめ「院展」「二科展」といった団体展が美術界を動かす主要舞台であり、近代美術の大きな推進力になったことは事実だが、戦後になって団体展の役割が縮小してからもこの「丸投げ」の慣習は続いたのだ。
話を戻すと、美術館(旧館)の設計は岡田信一郎。四角いプランの正面の階段を上り、円柱が並ぶ入口に入る。この古典様式の美術館で、戦時中は数多くの戦争画展を開催。戦後は団体展のほか「読売アンデパンダン展」(1949-63)、「第10回東京ビエンナーレ」(1970)など伝説的な前衛美術展の舞台となった。
約半世紀後の1975年、建物の老朽化と団体展の増加に対応するため隣地に前川國男設計による新館を建設し、旧館は取り壊された。階段を上る入口は階段を下りるかたちに変わったが、これを美術の敷居が低くなった象徴と捉えることもできるだろう。
100年後の美術館は?
今年度、東京都美術館で開かれる「アンドリュー・ワイエス展」(2026/04/28-07/05)、「大英博物館 日本美術コレクション 百花繚乱」(2026/07/25-10/18)、「オルセー美術館所蔵 いまを生きる歓び」(2026/11/14-2027/03/28)などの大型展★3はすべて「開館100周年記念」と謳われている。だが、ここで取り上げたいのは「大英博物館展」の脇のギャラリーで開催中の「この場所の風景─上野・大牟田・ブエノスアイレス」展(2026/07/23-10/7)である。これがなかなか味わい深い。
同展は3部構成で、第1部は「上野―東京都美術館の100年」。東京府美術館の誕生から戦前・戦後の上野の風景、戦時中の戦争画展、最初の収蔵作品、新館建設、伝説の展覧会まで作品や写真、資料などで振り返るもので、これはわかる。首をかしげるのは第2部と第3部だ。
第2部「大牟田―江上茂雄の100年」では、福岡に住み独学で絵を描き団体にも属さず、100歳を超える生涯に1万点以上の作品を残した「路傍の画家」江上の400点もの水彩やクレヨン画が展示されている。邪気のない自然体の写生画には目を洗われるが、本人は東京都美術館にはまったく縁がないという。強いていえば、美術館の建設資金を出した佐藤と同じ福岡出身というくらいか。

「この場所の風景─上野・大牟田・ブエノスアイレス」より、江上茂雄作品、東京都美術館[筆者撮影]
第3部「ブエノスアイレス―《百日草の庭》をめぐる100年」は、同館の所蔵品第1号とされる《百日草の庭》(1926)の作者で、詳細不明の画家・藤岡鉄太郎を追跡したドキュメント。1927年に同姓同名(ただし読みが違う)の人物がアルゼンチンに渡り、ブエノスアイレスで造園業などに従事したというが、それが作者本人かどうか最後までわからずじまい。
開館100周年記念というめでたい機会に、かたや同館とはなんの縁もないアマチュア画家、かたやまったく無関係かもしれない人物を取り上げるとは、なんと大胆な肩透かしだろう。もちろん2人とも戦前・戦後を生き抜いたという点では東京都美術館と並走した人生といえるし、それゆえ今回取り上げられることになったのだが、それがよく知られた「偉大な芸術家」などではなく、地方と外国に住む無名の人物だったところがなんともズッコケざるをえない。見終えて久しぶりに晴れ晴れした気分になった。アッパレ!
さて、アニヴァーサリーにかこつけて美術館の100年を振り返ってみたが、ではこれから100年後、美術館はどうなっているだろう。上記の美術館のうちどれだけ残っているだろう。どんな変化の波に見舞われているだろう。
ありうる未来としては、美術館に行っても展示されているのは絵画も彫刻も高精密の複製品ばかりで、オリジナルはテロからの攻撃や汚染された大気から守るため、厳重な倉庫に保管されているとか。あるいはヴァーチャル技術やAIの発達により、個々人が家にいながら美術作品を自分好みにリクリエイトして、脳内で鑑賞できるようになっているかもしれない。そうなれば物としての作品も、それを集める美術館もなくなっている可能性だってある。
だが、それはまだ楽観的な予想だろう。果たして100年後も人間は「芸術」を愛でる心を保ち続けているだろうか、それよりなにより人類は生き残っているだろうか。
★1──龍子記念館、朝倉彫塑館、熊谷守一美術館はいずれも私立美術館として出発したが、その後それぞれの区に運営が移管された。60周年の堂本印象美術館も同じく私立から京都府に移管。
★2──当時は「国立」ではなく、「帝国博物館」(1889-1900)、「東京帝室博物館」(1900-1947)と呼んでいた。
★3──今年、オルセー美術館はちょうど開館40周年。大英博物館はなんと開館267周年!