アート雑誌で特集が組まれたり、美術館でダンサー
演出によるダンス空間的美術の展示が開かれたりと、日本のコンテンポラリー
ダンスが、このところ上昇機運に乗っているらしい。どうみても自己流としか
みえないビミョーなものから、クリッシェを大きく無視した発想に少しは驚き
たくなるものまで、言ってみれば多種多様という状況だ。しかし厳密に言え
ば、その多種性には多様性が無いようにも思える。(公演数は総体的にあまり
にも多く、とても全部は見きれないほどだが、それぞれ集客は悪くなさそう。
かつての小劇場芝居ブームを思い出す感じに、一般的関心もかなり高まってい
る気配だが、その基盤となる練習やプロダクションのための制作環境は、はた
して以前より好転しているのだろうか)。
その影響かどうかはわからないが、外来の
ダンスカンパニーも、このところひっきりなしの公演が続く。巨匠レベルで
は、3月は久しぶりのウィリアム・フォーサイスの、再出発して初のカンパニ
ー公演。4月はピナ・バウシュ/ヴッパタール舞踊団、6月はキリアンをはじめ
とするNDT、さらにヤン・ファーブルといった具合
である。しかしその中で、取り分け異彩を放ったのがこの3月末に来日したト
リシャ・ブラウン・ダンス・カンパニーだろう。前回の来日公演
を見ている人が果たして何人いるだろうかと言うほど、あ
まりにも長い間日本に紹介がなされてこなかったマース・カニングハ
ムに匹敵する長い息の活動歴を持つダンスカンパニーであ
り、NYやヨーロッパでの持続的な活動を知らない人にとっては、マー
スの日本での知名度に比較すると、もしかしたら耳慣れな
い名前であったかもしれない。しかも、トリシャ・ブラウンは、ダンスやパフ
ォーマンスだけでなく、アートの領域でも大きな影響を残している点で、他の
ダンスアーティストと一線を画している重要な存在である。ブラウンという
と、壁を歩くパフォーマンスや、フィルム映写機(プロジェクターではない)
を背負ったパフォーマンスなどで夙に有名だが、その身体イメージの先見性か
らして、すでにただ事ではない。
ブラウンが牽引した、60年代初頭のジャド
ソン・グループのムーヴメントは、ケージやマース・カニングハムの導入した
偶然性・不確定性、フルクサスのハプニングやイベントなどとのオルタナティ
ヴな相互作用の中で、真っ先に革新的な身体の方法論、インストラクションに
目を開き、従来のパフォーマンスのスペクタクル性の解体構築を大胆
に行なったものだった。ダンスカンパニーを設立した70年
代以降は、ステージの空間性としてラウシェンバ
ーグ、ジャッド、ローリー・アンダーソン、スペンサー・ブラウンらとの積極
的なコラボレーションを導入しながら、これまた内部空間の組成をターゲット
として解体してきた。日本のアートシーンとの交差という点でも、80年代に
は、EATでの足跡を大胆にリサイクルする形で、中谷芙二子の「霧の彫刻」を
ステージに招き寄せた試みは画期的な慧眼である。ブラウンにとっては、ステ
ージの表象や制度を破壊的に解体するのではなく、ステージの空間と時間のあ
り方をアートの導入によって変質させ、同時に身体への位相を大きく揺らがせ
るのである。あくまで1人称的身体性の観察から出発し、それを非人称
的極点まで解体するといった、現在のはやりの言葉でいえば内部観測的アプロ
ーチがブラウンにはあるのだ。今回のダンスカンパニー公
演の解説を執筆している石井達朗氏の言では、60〜70年代にアクチュアルであ
った、このようなブラウンの画期的な身体性の導入とポスト・モダンダンスの
思潮は、80年代以降次第に影が薄くなってしまったが、その現在性を今どのよ
うに再評価・再導入すべきかという問いが語られているが、ブラウンが徹底し
て追求してきた身体の脱力性の追求こそ、表現主義やドラマトゥルクの芽をス
テージから削ぎ落とし、真空の身体と空間のインストラクションを、そこにデ
フォルトとして生み出した、あるいは生み出し続けているということに圧倒的
に創意がある。近年のクラシックオペラやパフォーマンスのような(といって
もサルヴァットーレ・シャリーノのような異様な作曲家とのコラボもある)き
わめてシアトリカルなプロダクションへの(復帰的)参加のケースであってもそれは変わ
らない。
日本のコンテンポラリーダンスの現在が、
感情(表現主義)や記憶(ドラマトゥルク)のパラメータの振れ幅と、舞台美
術や映像の表象としての装飾度数の多種性にただ
分類されているならば(オタクという抜け穴はあるにせよだが)、そこに多様
性はいったいあるのだろうか。身体に対して方法的であることがきわめてしな
やかであることの強度を、今回のトリシャ・ブラウンのカンパニーは刻印して
いった。フォーサイスの身体の部分化されたテンションは、ブラウンのこの
脱力的しなやかさがなければ、上書きできないも
のであったことを、日本の観客はこの3月に、偶然同時に理解できたのであ
る。
また今回の来日にあわせて、日本側の関係
者の尽力により、ブラウンのドローイング展が同時期に開催されている。これ
はギャラリーでの小空間での展示(「ときの忘れもの」)であるが、岡崎乾二
郎が特別に空間構成を監修した非常に見応えあるリアリゼーションとなってい
る。奇しくも、というか不思議なことに、今回の来日公演で、フォーサイス
は、インスタレーションを用いた作品公演「You
made me a monster」をおこなっているのだが、動物の骨格ペーパークラフト
をランダムに増殖させた立体模型の影を、机上でドローイングとしてトレース
し、コレオグラフとするそのプロセス(3次元/2次元の空間的相対/相還)
は、まさにこれはトリシャ・ブラウンそのものではないか。モンスターとは、
実はトリシャ・ブラウンのことを指しているのだ。特に日本の未知の観客にと
っては。この展覧会は、その身体とダンスの原初的モーションの生成
現場を、ギャラリーで確認できるすばらしい機会である。
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