この時代の美術作品のほうは、日本だけでなく世界的にも再評価が進んでいます。国内では、本格的な展覧会や出版物が増えていますし、ヨーロッパやアメリカでは、戦後の日本美術を回顧する展覧会が開かれるだけでなく、近年では、具体美術協会やもの派に関する学術研究もずいぶんと目にするようになりました。また、個々の作家に対する関心も高まっており、今や田中敦子の作品は世界各地で見かけますし、ウォーカーアートセンターで「工藤哲巳」展が開催されたことも記憶に新しいことと思います。
他方、美術批評のほうはどうかというと、美術作品に匹敵するほど再評価を得ているわけではありません。針生一郎については、『日本心中』(2002年)や『9.11−8.15 日本心中』(2005年)といった大浦信行の映画などで再び関心が高まりましたが、それを除けば、過去の美術批評を読み直そうとする機運は、まだ依然として弱いような印象があります(数少ない例外として、光田由里の『『美術批評』〈1952−1957〉誌とその時代 「現代美術」と「現代美術批評」の成立』があります)。
しかし、たとえ50年以上前に書かれた美術批評でも、今なお面白く読めるものがあります。針生の「サドの眼」や中原佑介の「密室の絵画」(ともに1956年)は、説得力ある作品分析を行うのにとどまらず、状況を捉えるための確かな視点を提唱するもので、時代を超えて読まれるに値する批評です。その批評が書かれた文脈を知っていれば、もっと興味を持って読むこともできます(例えば「サドの眼」が「スカラベ・サクレ」論争や新日本文学会内の路線対立を踏まえて書かれたことを知っていれば、花田清輝と比較して読むこともできます)。
問題は、日本においては、こうした過去の代表的な美術批評が入手困難であることです。美術雑誌のバックナンバーは、大きな図書館に行かないと閲覧できませんし、過去の批評は、批評家の著作に再録されることもありますが、絶版になることも多い上に、論争の場合、両方の文章が再録されることはまずありません。たしかに基本的に雑誌に書かれる批評は、一時的な性格が強いのかもしれませんが、歴史的に重要な批評も数多くあり、こうした批評にアクセスできないのは文化的な損失と言ってもいいでしょう。
英語圏では、代表的な批評や論文を集めたアンソロジーが数多く出版されています。ポロック論を集めた本、ミニマル・アートの批評や作家の文章をまとめた本、作家の文章を大量に集めた本、20世紀の芸術に関する文章を集めた本......。もちろん、こうした本では元の文章を抄録している場合も多く、解釈の固定化に繋がったり、歴史的な文脈が見えにくくなったりすることもあります。それでも、歴史から忘却されて、似たような議論を一から始め直すよりもずっといいように思います。美術批評に限らず、展覧会カタログの文章(これこそ入手困難な場合が多い)も含むようなアンソロジーが出ればいいのになあと改めて思った次第です。
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