加治屋健司: 2009年3月アーカイブ

韓国から戻ってきた後、週末の東京出張が続きました。会議や研究会に出席する合間に、先々週は、「VOCA展2009」(上野の森美術館)を見て、Port Bの「サンシャイン63」に参加しました。先週は、「アーティスト・ファイル2009」(国立新美術館)や「ジム・ランビー」(原美術館)を見る一方、ギャラリー等を回って、「田中功起」(青山|目黒)や「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」(メゾンエルメス)、Chim↑Pomの「広島!」(VACANT)等を見ました。

それぞれに興味深い発見があったのですが、今回はChim↑Pomの「広島!」を見て考えたことを書きます。

ご存知の方も多いと思いますが、Chim↑Pomは、昨年秋に広島市現代美術館で個展を開催する予定でしたが、作品制作のため広島の上空に飛行機で「ピカッ」の文字を書いて問題となり、展覧会が中止になりました。今回の「広島!」は、そこで展示される予定だった《リアル千羽鶴》や、中止の原因となった映像作品《ヒロシマの空をピカッとさせる》を展示する企画でした。

《ヒロシマの空をピカッとさせる》は、広島の上空に「ピカッ」という文字を書いた5分ほどの映像作品で、原爆ドームが入った映像と文字にクローズアップした映像がセットになっています。ともに、街を行く人々のオフの声が入っています。

この作品については、今回出版された書籍を始めとしてさまざまな議論が展開されましたが、その中でも興味を引いたのは椹木野衣さんの文章でした。椹木さんは、この作品は、その「薄っぺらさ」において、アウシュヴィッツ以後の芸術がもつ「暴力」(アドルノの意味における)の問題を回避し得ること、「ピカッ」という文字は、原爆を表象するよりも、こうした行為が可能な戦後日本の平和を表象すること、上空に文字を書いて一方的に地上の人に見せるという、非対称な関係に基づく行為は、想像力が欠如している点で、加害者としてのアメリカ人的な感性に基づいていること、そして、その感性は、Chim↑Pomだけのものでなく、アメリカ化しフラット化した戦後日本の感性であること、などを指摘しています。

実際の作品を見た印象も、こうした指摘に違うところはほとんどありませんでしたが、それに一点付け加えるとすれば、文字が、スチル写真でみるほど鮮明ではなく、書いたうちから文字どおり雲散霧消していくということの意味です。

描いたものが消えていくという点で想起したのが、表現方法も主題も全く異なりますが、オスカル・ムニョスの《あるメモリアルのためのプロジェクト》です。この作品は、路上のコンクリートの上に水で肖像画を描いていくけれど、日に照らされてたちまち消えていくのを収めた映像作品で、行方不明になる人々が後を絶たないコロンビアの政治的・社会的な状況を浮かび上がらせたものとされています。絵が完成しないうちに、最初に描いた部分が薄れていく様子は、Chim↑Pomの作品にも見られる特徴で、ともに、記憶というよりもその忘却を強く感じさせる表現だと思います。

「忘却」を意識したのは、それが日本語で書かれていたこととも関係しています。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』が指摘しているように、近代の日本においては、西洋語を読みながら日本語で書くことに一定の意味があったとしても、英語のグローバル化が進む今日、日本語で論文を書くことの虚しさを感じたことがない研究者は、おそらくほとんどいないでしょう。「ピカッ」という文字はやはり日本語で書かれなくてはならなかったと思いながらも、この3文字のもつ意味合いが、日本語を超えた世界でどのように伝わるのか、考えさせられました。そしてそれは、単に日本語を使っているというだけの問題ではなく、日本語環境の経験によって作られた表現そのものが直面する問題であるように思います。

雲間に薄れてゆく「ピカッ」の文字に、戦争の記憶が失われ、戦後日本の平和が基づいてきたものが見えなくなる様子を重ね合わせながらも、それと同時に、私たちが用いている日本語が、そしてそれが可能にした経験や表現が、英語のグローバル化が進むなかで、どのような意味を担っていくのか、他の日本の作品も参照しながら、考えていく必要があると思いました。
前回のソウル出張の続きです。

ソウルを訪れたのは今回が初めてでした。韓国の現代美術は、何年も前から、当時住んでいたアメリカでも話題になっていて作品を見る機会も時々あったので、もう少し早く訪れたかったのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。

今回の滞在では、セミナーをしたSOMA美術館の他に、国立現代美術館、徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)、アートソンジェ・センター、オールタナティブ・スペース・ループ、サムジー・スペース、リウム美術館、数々のギャラリー、京畿道のナムジュン・パイク・アートセンターなどを訪問しました。

こうした施設・組織の方々の何人かと話していると、日本のアーティストだけでなく、日本のキュレーターや批評家の名前がよく挙がります。すでにご存知の方も多いと思いますが、日本や韓国、他のアジア諸国のキュレーターが共同で企画する展覧会やシンポジウムは2000年代に入って増えていて、そうした状況の中で当事者同士のネットワークが進展しているようです。

そこで気になったのは、日本で現代美術を研究している研究者の名前がほとんど挙がらないことです。たしかに現代美術研究は、歴史のある美術史研究から見ると、端緒についたばかりと言っていいですし、現在のアートシーンで研究者が果たしている役割は、研究者が批評家として活動する場合を除いて、決して大きくありません。

もちろん、国際美術史学会や国際美学会等の国際的な組織があり、そこで交流が行われているのも事実ですし、私自身、アメリカにいた頃はそうしたシンポジウムやワークショップに参加したこともありますが、キュレーターのように、アジアの同世代と、メールとスカイプで連絡を取り合いながら、共同でプロジェクトを立ち上げていくには至っていません。

とは言え、現代美術の分野で研究者が共同でできることは数多くあります。グローバルな学問動向を反映して関心事の共通性は高まっていますし、比較研究の余地は限りなくあります。また、同じ本を翻訳している場合も多いです(ある美術館の図書室でArt Since 1900 [2005] の韓国語訳を見つけました)。共同研究で検討するテーマについては事欠かないように思います。

日本の現代美術の研究者も、少しずつですが、国際シンポジウムや今回のようなセミナーで、アジアの同世代の研究者と知り合う機会が増えてきていると思います。近い将来に、同世代の研究者と共同で、現代美術のシンポジウムや公開セミナーを企画していければと思いました。

しばらく更新ができず失礼しました。昨日韓国から戻ってきました。今回は、前回触れたセミナーについて書きます。今回の滞在では、セミナーを行っただけでなく、主要な現代美術の美術館やギャラリーにも行きましたし、美術関係者ともお会いしましたが、それは稿を改めたいと思います。

3月7日、ソウルのオリンピック公園内にあるSOMA美術館で「エモーショナル・ドローイング」展に関連したセミナーを行いました。ヤン・ジョンム先生(韓国芸術綜合学校美術学部准教授)と私がそれぞれ韓国と日本のドローイングについてレクチャーをした後、キム・ヨンチョル先生の司会でディスカッションを行いました。聴衆は、美術に関心をもっている学生を中心に、おそらく100名以上が集まり、立ち見も出るほど盛況でした。

ヤン先生は韓国でドローイングに関する展覧会が近年増えていることを指摘しつつ、韓国の近現代美術史におけるドローイングの重要性についてお話しになりました。私は、絵画や彫刻の下絵や習作とされてきたドローイングが1960年代以降、どのようにして自立的な価値を持つようになったのかをアメリカやヨーロッパの事例を中心にお話しした後、第二次世界大戦後の日本におけるドローイングの展開について説明しました。

日本の「デッサン」という言葉は、東京美術学校に西洋画科が新設された頃から使われ始めたと推定されています(ただしデッサン教育自体は工部美術学校の頃から行われています)。その「デッサン」という言葉が指し示してきた領域の中に「ドローイング」という言葉が登場して普及し始めたのは1970年代です。そのような言語的な変化を促したのは、フランスからアメリカへと美術の中心が移ったという地政学的な問題に加えて、1960年代のアメリカにおけるドローイングの位置づけの変化によるところが大きいように思います。

今回のレクチャーは、聴衆のことも考えて一般的な話を中心にしましたが、今後はもう少しテーマを絞って、研究を進めていければと思いました。日本におけるデッサン教育については先行研究もあるかと思いますが、フーコー的な視点を入れて言説の編制について詳しく追っていきたいですし、アメリカの60年代の動向と、90年代以降のドローイングに対する関心の高まりはどのように関係しているかについても考えていければと思いました。

日本とアメリカ以外でレクチャーをするのは初めてでしたので、当初は少し不安も感じましたが、ヤン先生やキム先生と事前に話しているうちに、美術史的な理解を共有していることが分かってきて、不安も解消されていきました。さらに、ヤン・ミソンさんのすばらしい通訳のおかげで何の不自由を感じることもなく、無事に終えることができました。最後になりますが、この企画をして下さった国際交流基金とSOMA美術館の方々にこの場をお借りしてお礼を申し上げたく思います。

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ソウルオリンピック公園内にあるSOMA美術館の正面入口。2009年3月7日12時頃(晴れ)

今週末に韓国でセミナーをすることになったので、その発表原稿を準備しています。昨年、東京と京都で開催された「エモーショナル・ドローイング」展(主催=東京国立近代美術館・京都国立近代美術館・国際交流基金)が現在巡回しているソウルのSOMA美術館で、1960年代以降のドローイングについて話す予定です(ハングルですが詳細はこちら)。

ドローイングとは、実に多義的なメディアです。ドローイングは、線を引くという美術の最も基本的な行為でありながら、絵画や彫刻の下絵や習作として補助的な役割を担わされてきました。また、フランスのアカデミーで、感覚を連想させる色彩を重視したルーベンス派に対して、プッサン派が知性と結びつく線描を重視したように、ドローイングは知性と結びつけられてきました。その一方で、今回の「エモーショナル・ドローイング」展にあるように、情動を誘発する媒体ともみなされています。現在のドローイングは、こうした多義的な特徴を受け継ぎつつ、おそらく1960年代に大きく変貌を遂げたのではないか――そうした考えのもとに、今回の講演では1960年代以降のドローイングについて話してこようと思っています。

講演で時間があれば少し触れたいと思っているのが「ドローイングとアジア」というテーマです。他ならぬ「エモーショナル・ドローイング」展は、アジアや中東の作家の作品を集めた展覧会でしたし、関連シンポジウムで、信州大学の金井直さんが西洋とアジアでの石膏デッサンの展開について発表なさったとも聞きました。

日本の絵画史では、色彩を重視した琳派を除いて、概ね線描が重視されてきました。障屏画でも絵巻物でも、ものの輪郭線は丹念に描かれています。それは、絵を描くことがものの輪郭を描くことを意味したからだと言えます。しかし、明治以降に本格的に入ってきた西洋の画法は、ものの形(プロポーション)に加えて、陰影の調子による立体感の表現を重視しており、それまでの日本の絵画と大きく異なるものでした。そうした西洋の画法が普及する中で、菱田春草や横山大観らが試みたのが、輪郭線によらずに面で描く「朦朧体」でした。それは日本画の近代化運動であり、アジア的な線描表現からの脱却を目指していたと言えるでしょう。

今日の日本におけるデッサン教育は、こうした西洋化・近代化の帰結です。現在では見直しも進んでいますが、入試の科目に石膏デッサンが入っている大学は依然として多くあります。ある美術大学の先生から聞いた話では、日本の大学院でデッサンをさせると、日本の学生が職人のように上手に立体感のあるデッサンを描くのに対して、ヨーロッパの留学生はジャン・コクトーのような輪郭線だけの線描画を描くことがあるそうです。ドローイングをめぐるこうした逆転現象はとても興味深いものです。受容史という意味では、ドローイングとデッサンという言葉の差異も考える必要があるように思います。

今回はどこまで話せるか分かりませんが、ドローイングのもつ歴史的・地政学的な多様性について、これを機会に考えていきたいと思っています。

ブロガー

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