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身体芸術の展開2014

木村覚(美学、パフォーマンス批評)2014年08月01日号

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フラッシュモブ|土方巽アーカイヴ|コレオグラフィ|ドキュメンタリーシアター

 身体芸術の分野で昨今目立ってきている諸傾向のうち、筆者が興味を抱いているのは、第一に劇場中心的な劇空間の概念を捉え直す動きであり、第二に新作という概念に囚われず過去の遺産を見つめ直す動きである。これらはたんに身体芸術の分野に限った事象ではなかろう。むしろ、インターネットの普及にともない私たちの暮らし全般が変化していることと深く関わる事柄に違いない。先に挙げた二点をここではとくに、「1:フラッシュモブないしフラッシュモブのシミュレーション」「2:アーカイヴへの関心」として特徴化し、それぞれ見ていくことにしたい。

1. フラッシュモブないしフラッシュモブのシミュレーション

 フェスティバル/トーキョー(以下F/T)は、2012年に「F/Tモブ」を、2013年に「F/Tモブ・スペシャル」を行なった。2012年には小野寺修二、白神ももこ、KENTARO!!!、井手茂太、ジェローム・ベルが、翌2013年には近藤良平、古家優里、三浦康嗣、矢内原美邦が、振り付け動画をYouTubeにアップして、振り付けを覚えた不特定の人々が指定の日時・場所に集まり踊るという企画であった。
 劇場空間を離れた上演という意味ならば、過去に数多試みられてきた。60年代の紅テントや70年代の寺山修司による市街劇は、日本におけるその発端であろう。21世紀以降の試みとしては、水上アートバス「ダンスパフォーマンス」がある。日の出桟橋と浅草を結ぶ水上バスのデッキを舞台に手塚夏子やほうほう堂らが上演を行なったこのイベントは、2002年に始まり、その後数回行なわれた。『完全避難マニュアル』(2010)などの高山明の一連の作品は、山手線の駅周辺など現実にある場所を舞台空間へと変貌させた。二年続いた「F/Tモブ」はこうした傾向の今日的展開とも言えなくはない。ただし、無視できないのは、これがフラッシュモブを模したものであるということ、それでいてフラッシュモブ(の少なくとも発端の姿)とは異なる様式で行なわれたということである。
 フラッシュモブの始まりには諸説あるが、ひとつに日本の「吉野家祭り」をルーツとする説がある。2001年12月24日、全国の吉野家に、2ちゃんねるを媒介にして多数の人々が集まり、一斉に「大盛りねきだくギョク」を注文した。この吉野家オフは5年以上続いた。この出来事は、ネットを媒介に不特定多数の人々が同時に同じ行動をするという点で、フラッシュモブの先駆とされる。伊藤昌亮『フラッシュモブズ』(NTT出版、2011)によれば、フラッシュモブの特徴に挙げられるのは「バカバカしさ」「わけのわからないもの」「集合」などである。とくに重要なのは、市民が自らの手で新しいリアリティのゾーンを生み出し、自らの手でルールを作り出すところである。とはいえ、今日では政治運動や企業活動に利用される一種の「ハイジャック」がフラッシュモブの周辺で起こっている(ALSOKのCMやNHKの番組『突撃!アッとホーム』のコーナー「幸せサプライズ」などは日本における「ハイジャック」の例と言えよう)。
 さて「F/Tモブ」は「ハイジャック」だったのか。この問いは、フェスティバル(祭り)というものがコミュニティのなかから自然発生的に生まれたものかどうかに関わってくるだろう。そうでないのならば否応なしに権力的な「トップダウン」の外装をまとってしまうとして、そのうえで、自然発生的な運動であることが信条のフラッシュモブをフェスティバル(祭り)が用いることにどんな意義があるのか、そうした点が問われてしかるべきだろう。
 あるいは、この問いはF/Tと一般の人々とのあいだに立った振付家たちにこそ向けられるべきかもしれない。ダンスの作家にとって、「動員(踊り手を集め、ともに踊ること)」とは何を意味するのか、また他人に振り付けを与えるとはどういうことなのか、そうした点への深い考察が求められているのではないだろうか。


F/T Mob 白神ももこ


F/T Mob KENTARO!!


F/Tモブ・スペシャル_2013_近藤良平 練習動画


F/Tモブ・スペシャル_2013_矢内原美邦 練習動画

2. アーカイヴへの関心

 昨今の日本のダンスをめぐる環境のなかで顕著なこととして挙げられるのは、かつては強い期待が抱かれていた「コンテンポラリー・ダンス」という言葉の急激な機能低下である。これとは対照的にもてはやされている言葉が「アーカイヴ」である。このことが示唆しているのは、新しさや同時代性よりも権威や伝統を重んじる傾向が目立ってきているということなのかもしれない。いや、これはダンスに限ったことではない。むしろTSUTAYAやTOWER RECORDSそしてインターネットの普及によって、新しいことに価値があると見るモダンな思考から自由になって、自分たちにとって魅力あるものというのは歴史的な遺産全体から発見しうるものだとするポスト・モダンな考えが社会全体に広がったことと軌を一にしていると捉えるべきだろう。
 「アーカイヴ」への関心は高まっているとはいえ、ダンスを取り巻く環境においてこの作業の進度はけっして速くはない。慶応義塾大学アート・センターが土方巽アーカイヴを設立したのは1998年である。国内でこれに類する規模のアーカイヴは、いまだ存在していない。そのなかで例えば、大野一雄舞踏研究所がビデオ・アーカイヴの設立を進めているのは画期的な出来事である。今年から、現在176タイトルのインデックス映像が研究所内で閲覧可能である。ただし、オンライン化はなされておらず、閲覧を希望する者は直接研究所へ限定された日時に赴くしかない。
 しっかりとした体制が整っているとは言えず、過渡的な状態とはいえ、「アーカイヴ」に関心が高まっているのはタイトルにその名を冠したプロジェクトやイベントが増えていることからも明瞭である。日本パフォーマンス/アート研究所(小沢康夫)による「Tokyo Experimental Performance Archive」はそのひとつである。大友良英、contact Gonzoらの実験的な舞台パフォーマンスを上演し、録画し、アーカイヴ化して保存・収集と公開を行なうプロジェクトを複数年をかけて進める予定だという。これは、未来に残すべき現在の表現をアーカイヴする試みである。また、現代舞踊協会の制作協力により新国立劇場が主催した「ダンス・アーカイヴ in JAPAN」は、石井漠など日本の洋舞史に残る名作を復刻し上演することで、未来にその遺産を委ねる試みであり、今年と来年の開催が予定されている。
 ところで、ダンスにはアーカイヴにともなう独特の困難があるようだ。ダンスとダンサーとは切り離せない、あるいはダンスは音楽における譜面のように記譜することに限界があるという通念が支配的で、故にダンスを保存することは原理的に不可能であると考える傾向が根強いのである。またダンスは映像によっては不十分にしか記録されないので、肉眼で見るほかないという意見もよく耳にする。なるほどダンサーが踊ると瞬時に消えてしまうのがダンスというものであるならば、なにをアーカイヴすればダンスを残したことになるのかという問いを避けて通ることはできない。この点に関して、オンケンセン(シンガポール)がセゾン文化財団と共催して進めているプロジェクト「ダンス・アーカイブの手法」(仮)は、興味深い。これは「アーカイブの手法を探る」リサーチで、日本のコンテンポラリーダンスの作家(振付家)たちに、自分の作品をアーカイヴ化する手法を編み出してもらい、作品の核となるものを他の作家たちに渡して、他の作家たちの(リ)クリエイションを促すという企画である。4月にワークショップを行なったばかりであり、今後の進展・成果に期待したい。

3. 「コレオグラフィ」という概念の可能性

 日本においては、先に述べたようなダンサーとダンスは切り離せないとする通念が根強い一方で、アメリカ合衆国などではカンパニーが過去の名作をレパートリーとして上演するのはもちろんのこと、大学生が学内の発表会で自国の傑作を上演するといったことはけっして特別なことではない。あるいはウィリアム・フォーサイスが自作を映像作品として制作したり、自らのサイトで自作を動画コンテンツとして紹介したりしていることは、映像にはダンスは残らないという思い込みに再考を促す試みであろう。ダンスをダンサーの個人的な秘事とせずに、共有可能なものと見なすこと──少なくともその可能性を「アーカイヴ」というアイディアとともに進めること──は、いまのダンスの環境が陥っている閉塞状況を打破する一助になるはずである。
 昨年、日本で行なわれた二つの公演は「コレオグラフィ」という概念を切り替えていく一助となる試みだった。8月に川口隆夫が行なった『大野一雄について』と、12月に向雲太郎が行なった『舞踏?──ぶとうってなんだろう?なにそれ?おいしいの?』である。共通しているのは、ともにビデオカメラによって記録された映像(川口は大野一雄、向は土方巽)を基に、それをコレオグラフィと見立てて、いわばそれの完コピをもくろんだという点である。向の公演では客席から靴が投げ込まれたと聞いたが、そうした見る者の感情を逆なでする、いわば「神」への冒涜と映りもした出来事であったのかもしれない。すでに舞踏のキャリアが長い向が挑戦したのは、自らの鍛えられた身体に染み込んだ習慣を活かすのではなく、徹底的に映像をトレースするという方法だった。彼が主宰するカンパニー名(マルセルデュ社)からも想像できるように、これは美術におけるマルセル・デュシャン的な転換と見なしうるだろうし、その一歩がダンスへの思考を具体的にどう変化させてゆくのかについては、今後のダンスの展開として注目すべきところであろう。


William Forsythe-Solo-Crystal Pite


左=川口隆夫『大野一雄について』
右=向雲太郎『舞踏?──ぶとうってなんだろう?なにそれ?おいしいの?』

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木村覚

1971年生まれ。日本女子大学専任講師。美学、パフォーマンス批評。