いま知っておくべきアートワード50選
映像の展開2014
阪本裕文(映像研究/稚内北星学園大学情報メディア学部情報メディア学科講師)2014年02月15日号
[キーワード]
動画共有サイト|二次創作ムービー|ストリーミング配信|立体映画|バーチカルシネマ(Vertical Cinema )|プロジェクションマッピング|パラシネマ|ポストメディウム|『眼に映る世界』
1. 社会
近年の映像の領域で生起した動向を考えるときに、震災・原発事故と映像の関わりを避けて通ることは出来ないだろう。それは震災・原発事故をテーマとしたドキュメンタリー映画に注目すべきという意味にとどまらず、映像と社会との関係性を変化させるような表れに注視することを意味する。そのような映像は個人のパーソナルな実践や行為を直接的に媒介し、社会内においてそれを共有させるものであり、その実践や行為が持っている社会的な意味や関係を緩やかに変更させるものである。震災・原発事故以前から、そのような傾向は、動画共有サイトにアップロードされる匿名的な二次創作ムービー等において顕著に表れていたといえるが、その意義は、やはり2011年以降において明確化したといえるだろう。今やインディペンデント・メディアによるものであれ、個人発信によるものであれ、動画共有サイトにアップロードされた、あるいはストリーミング配信された無数の記録映像は、伝統的なドキュメンタリー映画とは異なった、不定形な映像の領域を開いているといえる。それはマイケル・シャンバーグらが提唱したゲリラ・テレヴィジョンの運動や、ビデオひろばの提示したビデオによって媒介される社会モデル、すなわち初期ビデオアートにおいて試みられた映像の社会的機能を、インターネットでの映像視聴が当たり前となった現代社会の状況において実現するものであることは言うまでもない。ここでは例として、前田真二郎の『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW』(2011-2013)や、廃炉作業が行われる福島第一原発における『指差し作業員』(2011)のアクション、あるいは宇川直宏のDommune(2010-)を挙げておく。
2. テクノロジー
近年の映像に関わるテクノロジーの変化について述べるならば、アナログ(フィルム)からデジタルへの移行が決定的に進行したことが挙げられるだろう。国内においては、フジフィルムによるシングル8の現像サービスが2013年9月をもって完全に終了した。また、商業作品・個人作品を問わず、16mmや35mmフィルムが使用されるケースは激減している。実験映画・個人映画において、映像作家が8mmや16mmフィルムを使用するのは、単純なフィルム的質感への愛好に基づくものではなく、作品制作の基本的なコンセプトに関わるものである場合が多い。フィルムを使用してきた映像作家を取り巻く環境の変化と、今後の彼らの対応は注目に値する。それは、フィルムとは一体何であったのかを明らかにする、ひとつの契機となるだろう。その一方で民生用のHDデジタルビデオカメラはますます低価格化し、今や業務用シネカメラに匹敵するような高解像度のカメラを、個人レベルで所有することが可能となっている。このような制作環境の変化を作品コンセプトのなかに大胆に取り込んだ例としては、ハイレゾリューションな映像・音響によって、微視的な視点から漁船の操業を撮影したドキュメンタリーである、ルシアン・キャステイン=テイラー&ヴェレーナ・パラヴェルの『リヴァイアサン』(2012)が挙がる。
この他にも、『ゼロ・グラビティ』(2013)のヒットに代表されるように、商業映画における3Dの表現技術が向上を続け、映画館が現実を凌駕するスペクタクルを観客に提供するための場所となる一方で、映画という装置そのものを問い直すような試みが出現しているのも興味深い。そのような例としては、映画以前から存在する立体写真の原理を引用して擬似的な立体視を生み出した、ケン・ジェイコブスの『A Loft』(2010)等の近年の立体視作品が挙げられる。また、シネマスコープサイズのスクリーンを横転させたような、特殊な環境で映画を上映するVertical Cinema(2013)の試みも、映画・映像とは何であるかを、メディウムの支持体において問い直すものであると言える(Vertical Cinemaは、複数の映像作家によって制作されたオムニバスプログラムとして、ロッテルダム国際映画祭等で上映された)。プロジェクションマッピングや、複数のプロジェクターを使用したマルチメディア的な表現とは異なった方向に向かおうとする、このような映画・映像の別の側面を探るパラシネマ的な試みは、近年の映像をめぐる言説とも無縁ではない。
3. 言説
近年の映画・映像をめぐる言説としては、ロザリンド・クラウスのポストメディウム論のように、積極的に映像のメディウム・スペシフィシティを捉え直す動きが現れていることが興味深い。クラウスのポストメディウム論は、グリーンバーグのモダニズム的なメディウム論を、技術的支持体を手がかりとしながら捉え直すものであると言えるが、クラウスはその言説においてマルセル・ブロータースのフィルム作品や、ウィリアム・ケントリッジのアニメーション作品のなかにポストメディウム的条件を見いだしている。この視点はカルチュラル・スタディーズ的な作品分析とは異なるレベルで、映像作品を分析することを可能にする。そのうえで、デジタル映像が偏在化した現代社会の状況においては、ポストメディウム論を現代美術の文脈における造形作家の映像作品に限定することなく、さらに広範な映画・映像にまで敷衍することが求められているように思う(そもそもクラウスのポストメディウム論は、スタンリー・カヴェルが『眼に映る世界』のなかで展開した存在論的な映画論と通底している)。そのようなポストメディウム論を敷衍する試みは、デジタルに取り込まれた諸メディウムの変換によって、新しいメディアの概念を生み出そうとする、レフ・マノヴィッチのニューメディア論とも無関係ではないだろう。