アート・アーカイブ探求
ヴワディスワフ・スツシェミンスキ《ウニズム的コンポジション13》──残像という知覚芸術「加須屋明子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年09月15日号
白樺の雑木林
中欧のポーランド共和国が、隣国ウクライナからの避難民に対して支援法を施行するなどして、EU最多の123万4,718人(国連難民高等弁務官事務所、2022年7月21日)を受け入れ、積極的に救済活動を提供している。かつてポーランドは、1939年に西の隣国ドイツに侵略された。第二次世界大戦中ナチス・ドイツの強制収容所であったアウシュヴィッツが思い起こされるが、そこはポーランド南部の都市クラクフに近いオシフィエンチムのドイツ語名だという。20世紀の人類史に刻印されたナチスの大量殺戮の痕跡を留めるポーランドが、21世紀の人道支援を先導している。
現在、東京国立近代美術館で、現代美術を代表するドイツ人画家、ゲルハルト・リヒター(1932-)の展覧会「ゲルハルト・リヒター展」が開催されている(2022.6.7-10.2)。油彩画・写真・デジタルプリント・ガラス・鏡など、多岐にわたる素材を用いた作品は、見ることによって人が何を認識するのか、遠い記憶を呼び起こす。リヒターの到達点と言われる《ビルケナウ》(ゲルハルト・リヒター財団蔵、2014)は、アウシュヴィッツ第2強制収容所の名前を作品名としている。ビルケナウで密かに撮られた4枚の写真を元に描いた具象画の上からさらに絵具を塗り重ねた4連の抽象絵画である。ユダヤ人など100万人を虐殺した収容所ビルケナウ(Birkenau)は、古いポーランド語で「白樺の雑木林」を意味するブジェジンカ(Brzezinka)のドイツ語名である。隣接する第1収容所とともに1979年、負の遺産として世界文化遺産となった。
ポーランドには、どんな絵画があるのだろう。一面黄色の真四角の絵、ヴワディスワフ・スツシェミンスキの《ウニズム的コンポジション13》(ポーランド、ウッチ美術館蔵)に目が止まった。中心部が動的に膨らんで見え、注意を促すようであり、何やら楽しそうでもあるが、意外にも1934年というナチスの軍靴が暗闇からコツコツと迫ってくるような時代の絵だった。《ウニズム的コンポジション13》の見方を、京都市立芸術大学教授の加須屋明子氏(以下、加須屋氏)に伺いたいと思った。
加須屋氏は、近・現代美術、美学を専門とされ、著書『ポーランドの前衛美術』(創元社、2014)の執筆や、日本ポーランド国交樹立100周年記念「セレブレーション──日本ポーランド現代美術展」(京都芸術センターほか、2019)のキュレーションを行なうなど、ポーランド美術に詳しい。京都市立芸術大学へ向かった。
美学・哲学者インガルデン
来年(2023)には、JR京都駅から徒歩6分の新キャンパスへ移転することが決まっている京都市立芸術大学は、1880(明治13)年創立の日本初の公立の絵画専門学校「京都府画学校」が前身で、140年以上の歴史がある。現在は、JR京都駅からバスで約45分の西京区大枝沓掛(おおえくつかけ)にあり、訪ねてみると新たな伝統が始まる静けさがあった。
加須屋氏は1963年「播磨の小京都」と呼ばれる兵庫県たつの市に生まれた。自然豊かな城下町で、童謡の「赤とんぼ」を作詞した三木露風(ろふう)や、『人生論ノート』を著した哲学者の三木清が誕生したところだそうだ。加須屋氏の父は京都市立芸術大学を卒業、龍野実業高校のデザイン科の教師をされ、家には世界中の画集があり、加須屋氏が子供の頃は一緒に絵を描いたり、岡山県倉敷の大原美術館へ行ったという。本を読むのが好きだった加須屋氏は、高校生になると日本と世界の古典の全集などを読んでいた。父がふと口にした「美学」という言葉が耳に残り、下宿先として許された京都へ出て、京都大学へ進学した。
入学当初は文学(テキスト)の読解に関心が向かい、また詞書と絵が併存する絵巻に興味を持ったという。絵巻研究は専攻が日本美術史になると言われ、改めて美の本質や構造を解明する美学だと思い、文学的芸術作品の理論について研究しようと辿り着いたのが、ポーランドの美学・哲学者ロマン・インガルデン(1893-1970)だった。インガルデンの精密な分析方法や、誠実で深い洞察力に魅せられたという。「まずは文学の構造分析を考えた。つまり文章には、単語があって、文章になり、それらがまとまりを持って、どのように価値が現われるのか。そういう層構造分析をインガルデンは行ない、さらに絵画や音楽など、ほかの芸術の存在様式についても哲学的に考察していた」と加須屋氏は述べ、卒論と修論はインガルデンの美学理論について書いた。
博士課程に進んだ加須屋氏は、ユネスコより奨学金を得て、1989年から2年間ポーランドのクラクフにある1364年創立ポーランド最古の大学ヤギェロン大学へ留学し、インガルデン研究を深めた。社会主義から民主主義へ変わる激動の時代で、物はないが芸術文化や学問が大事にされ、生活は「豊か」だったという。1991年、哲学研究科博士後期課程美学美術史学専攻を修了し、国立国際美術館学芸課へ就職。美術館で初めて企画したのは、1998年「芸術と環境──エコロジーの視点から」展である。研究員、主任研究官を経て、2008年から父が学んだ京都市立芸術大学の教壇に立っている。
留学中にウッチ美術館へ行ったとき、スツシェミンスキの作品と出会った。ポーランドのアヴァンギャルドには、南部の古都クラクフに演出家・美術家タデウシュ・カントル(1915-90)がおり、北部に画家スツシェミンスキがいた。加須屋氏が自覚的に《ウニズム的コンポジション13》を見たのは、国立国際美術館に勤めた後で、その第一印象は「かっこいい」。国立のウッチ美術館では、同じようなタイプの作品が壁を埋め尽くすようにコーナー展示され、美術館でとりわけ大事にされている様子だったという。
芸術はポーランド性
ポーランドは、東にベラルーシとウクライナ、南にはチェコとスロバキア、西にドイツ、北はバルト海に囲まれている。「野原・平原」を意味する「ポーレ」が国名の語源という。国土は緩やかな大地に覆われ、東と西のヨーロッパをつなぎ文化が往来する。10世紀の国の成立以来、ポーランドは徐々に勢力を増して拡大し、中央ヨーロッパの強国となった。しかし、18世紀に三度にわたってプロイセン(ドイツ)、ロシア、オーストリアの列強三国に国土が分割され、1795年から独立回復を果たす1918年まで、100年以上もの間、ポーランドの国名は地図上より消えていた。世界中に散らばったポーランド人は、1,000万人に達すると言われる複雑な歴史的背景のなかで、芸術はポーランド性を保つために大きな役割を果たしていた。
ヴワディスワフ・スツシェミンスキは、ポーランド貴族の子息として1893年ロシア帝国ミンスク(現ベラルーシ共和国)に生まれた。父は軍人で、スツシェミンスキもモスクワの士官学校を卒業、1911年から14年までは、サンクトペテルブルクの軍事工学学校で学び、第一次世界大戦ではロシア軍技師として従軍した。1916年、部下の兵士が手榴弾を暴発させた事故により、左手と右足を失いモスクワの病院に入院。ボランティアで看護に来ていた将来彫刻家で妻となるカタジナ・コブロ(1898-1951)と出会う。
入院中に美術を学び始めたが、1917年十月革命が勃発。レーニン(1870-1924)を指導者とする史上初の社会主義国家ソビエト政権が樹立し、1918年にポーランドは独立した。スツシェミンスキはモスクワの「第一自由美術工房(SVOMAS:スヴォマス)」に入り、カジミール・マレーヴィチ(1879-1935)や、ウラジーミル・タトリン(1885-1953)らと親交を結んで芸術を学んでいく。マレーヴィチは、精神と空間の絶対的自由を目指す「シュプレマティズム(絶対主義) 」を提唱し、意味を徹底的に排した抽象的作品《黒の正方形》(1915)や《白の上の白》(1918)などで知られ、構成主義 および国際的前衛運動全般に大きな影響を与えた。
スツシェミンスキは、前衛芸術を社会変革の手段と見なして、1919年故郷ミンスクに戻り、人民教育委員会の造形芸術部会(IZO:イゾ)で働き始めた。1920年にコブロと結婚し、マレーヴィチが結成した「新芸術の確立者(UNOVIS:ウノヴィス)」の創立メンバーとして参加し、構成主義の作品を展覧会に出品した。1922年のウノヴィス解散後に、マレービッチはサンクトペテルブルクへ移住。この頃ワリシー・カンディンスキー(1866-1944)とエル・リシツキー(1890-1941)はドイツへ、マルク・シャガール(1887-1985)はフランス、スツシェミンスキとコブロは、独立を回復したポーランドへと渡る。この状況をポーランド文学・文化論を専門とする東京外国語大学名誉教授の関口時正氏は著書『ポーランドと他者』(p.72)で「ロシア・アヴァンギャルド離散の一情景」と指摘する。
ウニズム
スツシェミンスキは、両親が住んでいたビリニュス(現リトアニアの首都)で1923年、フランスに起こったキュビスムやロシアに始まった構成主義を集めた前衛作品展「新美術展」を共催し、雑誌『転轍機(ズヴロトニツァ)』に「ロシア美術に就いての覚書」を書き、ポーランドに構成主義の歴史の幕を開いた。1924年芸術家集団「Blok(ブロック)」を結成、創作展示と出版活動を開始する。
そのメンバーを中心に1926年新たなグループ「Praesens(プレゼンス)」を組織し、翌年にはニューヨークで「マシーン・エイジ」展を共同開催。同年ポーランドのワルシャワで個展を開き、マレーヴィチのポーランド訪問も実現させた。
スツシェミンスキは、工場の大量生産方式に理想的な社会構造を見出した。絵画は自然の描写ではなく、絵画に固有の秩序と社会的現実の秩序を融合させたひとつの有機的存在であり、「自律した絵画」を目指した。キャンバス(平面)と四角形のフレーム(境界)の平面性が基本的な構成要素で、色と形が同時に作用し、質感と色を実験的に調整することにより物語性や文学性を排し、純粋に色や形の造形的要素を結び付けた。そして反復的形態の均一性を特徴とする「Unism(ウニズム)」というスツシェミンスキ独自の絵画理論に到達する。
ポール・セザンヌ(1839-1906)が発展させた絵画の構造について、その原理と構築に関する絵画理論書『絵画におけるウニズム』を1928年に刊行。マレーヴィチの「シュプレマティズム」やピート・モンドリアン(1872-1944)の「新造形主義 」の進むべき絵画構造として「ウニズム」の法則を提示した。
『視覚の論理』
1920年代から30年代のスツシェミンスキは、学校の教師をしながら作品を制作、また数多くの文章を書いていた。「プレゼンス」を1929年に脱退後は、社会と芸術との共生というスローガンを掲げて「a.r.」(artyści rewolucyjni; awangarda rzeczywista=革命的作家たち、真の前衛。アーエル)グループを発足する。1931年以降はポーランド北部の新興工業都市ウッチに定住、ポーランド造形芸術協会の創立メンバーとなり、第10公立高等専門学校の校長を務め、グラフィックデザインの革新的な教育法を導入するなど、デザインの領域でも活発な活動を展開。1932年には「国際抽象創造グループ」に参加、ウッチ市美術賞を受賞する。1936年に娘ニカが生まれ、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ナチスによるポーランド侵攻が始まり、ドイツ人相手に肖像画を描いたり、絵ハガキをつくって売り、コブロは寒さをしのぐため木彫作品を割って薪にした。
大戦の終結した1945年、スツシェミンスキとコブロは戦後のポーランドの復興に貢献するため、1930年に設立された国立の近現代美術館「ウッチ美術館」へ多くの作品を寄贈、その後モンドリアンへのオマージュのような「ネオプラステックルーム」を設計・展示した。スツシェミンスキの先導によって設立されたウッチ美術高等学校(現国立スツシェミンスキ美術アカデミー)で教鞭を執り、スツシェミンスキは、目の機能について重要なことは、見る意識を持つこと、そして見る活動とともに考えるという働きで、観察の豊かさと多様性を決定的なものとすると指摘した。歴史的、文化的経験や社会的背景などの外部条件の影響下で物事の見方が変化する一方、人間の視覚意識の内的進化によっても、芸術的認識の進化があると説き、学生たちの支持を集めていた。
しかし、独自の芸術論を反映させたカリキュラムが、ポーランド統一労働者党規則に反すると、1950年に学校から追放される。徐々に社会主義リアリズムが強制され、マルクス・レーニン主義の思想教育が始まっていった。
コブロとは不仲が続いていた。別居していたコブロは経済苦のなか、子宮頸がんと診断され、孤独な闘病生活の後、1951年に死亡した。孤児院にいた娘ニカをスツシェミンスキが引き取った。美術学校を追われ貧困生活を送っていたスツシェミンスキ、1952年12月26日に結核でウッチにて死去。享年58歳。スツシェミンスキとコブロの二人の回顧展が1956年と翌年にウッチとワルシャワで開催され、またスツシェミンスキの教え子たちによって講義ノートが収集されて1958年『視覚の論理』として発行された。
【ウニズム的コンポジション13の見方】
(1)タイトル
ウニズム的コンポジション13(うにずむてきこんぽじしょんじゅうさん)。英題:Unistic Composition 13
(2)モチーフ
なし。
(3)制作年
1934年。スツシェミンスキ40歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦50×横50cm。正方形。
(6)構図
中央部の波型曲線の⊂字が拡大され、中央部が膨らんで見える正面性の強い構図。
(7)色彩
黄色の単色。
(8)技法
キャンバス全体に筆触を残して黄色の絵具を塗り、その上にチューブから絵具を直接出して線を引いたように、絵具が立体的になる波線を描いているが、実際の技法は不明。縦の波線を少しずつずらしながら描くことにより、二次元の画面の中央に三次元の膨らみがつくられている。
(9)サイン
なし。裏面には「Iskra Karmański, Kraków」というスタンプと、手書きの「Komp.unistyczna 1934」のラベルが貼られている。
(10)鑑賞のポイント
自然を模倣することからインスピレーションを得てきた従来の絵画に対し、スツシェミンスキは新しい絵画として芸術的構成に基づいてのみ創造されなければならないと主張。著書『絵画におけるユニズム』(1928)に記した独自のウニズム理論に拠るウニズム的コンポジションシリーズを制作。絵の物質的質感を重要視し、人物を描かず、物や植物を描写せず、風景も表現しなかった。絵画は肖像画ではなく、静物画でもなく、風景画でもないと、絵画の自律性を強調した。ウニズムの核心には、コントラストのない光学的統一体として機能するイメージの完全な均質性の原則がある。本作品では黄色一色に、波状のパターンが作成された有機的なテクスチャ構成により、光学的な均一性が達成されている。人間の網膜に映る視覚の特性から理論的に導き出した絵画であり、多くの曲がった線、ネットの中のボール、水面の太陽など、さまざまなイメージが浮かんでくる。10年以上実験を続けた絵画の線、色、テクスチャなど諸要素の組み合わせを、統一の規則に基づいて構成したスツシェミンスキの研究成果であり、スツシェミンスキの代表作である。
中欧の翳りとユーモア
《ウニズム的コンポジション13》について、加須屋氏は「キュビスム、ダダイスム、シュールレアリスムなどの国際的な前衛運動のなかで、スツシェミンスキは、マレーヴィチのシュプレマティズムを発展させる独自の絵画理論『ウニズム』を前衛の実践としてまとめ、その成果を作品に反映させた。スツシェミンスキの作品はひと目で捉えられることが大事で、《ウニズム的コンポジション13》では網膜に映る波のような、見た後にその残像が残るものを描こうとしている。網膜は物を見た後も物体のイメージを保持するため、オプ・アートのように視覚の理論に基づいて、実験的な作品を新たに生み出すという意識が強かったと思う。ドイツの思想家で人智学の創始者ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)によれば、知覚は見るというプロセスのすべてを含むものではなく、心理状態や気質、知的な観察や思考と関係し、認識の限界を超えることができる。《ウニズム的コンポジション13》には、中央ヨーロッパ的な翳(かげ)りとユーモアを感じる」と語った。
加須屋明子(かすや・あきこ)
ヴワディスワフ・スツシェミンスキ(Władysław Strzemiński)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
※取材協力:ポーランド広報文化センター
2022年9月