アート・アーカイブ探求
エドワード・ホッパー《ナイトホークス》──自由だけど孤独「江崎聡子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年12月15日号
※《ナイトホークス》の画像は2022年12月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
深夜の透明ガラス
ふと目にした本の表紙に時間が戻されることがあった。宇宙船のようなガラス張りのバーが浮かぶ近未来的な絵、40年ほど前にも雑誌で見た絵だった。その頃、日本はバブル時代で、作品名は覚えていなかった。が、時代の空気とともにイメージが記憶に残っていた。暗い横長の画面に、淡いグリーンとイエローが呼応し、センスのいいイラスト的絵画と思った若い頃の感性に再会した気分がした。《ナイトホークス》(シカゴ美術館蔵)というエドワード・ホッパーの代表作だ。アメリカの画家としてジャクソン・ポロック(1912-56)やアンディー・ウォーホル(1928-87)、ジャスパー・ジョーンズ(1930-)、そしてホッパーはアメリカの風景を描く画家として採り上げられていた。
《ナイトホークス》は、深夜営業らしい都会の喫茶店で、仕事を終えたオフィスワーカーたちが時を過ごす何気ない不思議な絵である。大きなガラスを通してこうこうと明るい店内がよく見える。店員も客も表情は乏しく、通りには誰もいない。ガラスの内と外にホッパーは何を描こうとしたのだろう。《ナイトホークス》の見方を聖学院大学の江崎聡子准教授(以下、江崎氏)に伺いたいと思った。
江崎氏はアメリカ視覚文化、アメリカ美術およびジェンダー研究を専門とし、書店で私が目にした『エドワード・ホッパー作品集』(東京美術)の著者である。論文「エドワード・ホッパーとアメリカ」(『年報 地域文化研究』第1号、東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻)も書かれており、ホッパーに詳しい。埼玉県上尾市にある聖学院大学へ向かった。
ビジュアルカルチャーに与えた影響力
聖学院大学は、JR大宮駅の隣の宮原駅からスクールバスで5分ほど。近くに川が流れていた。晩秋の陽射しが差す静かな環境の大学にチャペル(香山壽夫設計、日本芸術院賞受賞)が目を引く。
授業を終えた江崎氏がコーヒーを淹れてくれた。1973年長野県上田市に生まれた江崎氏は、生まれてすぐ商社に勤める父とともに香港へ行き、3歳から埼玉県岩槻市で暮らす。小学校1年から5年生まで再び香港で暮らしたが、中学と高校は埼玉県の公立学校へ通い、東京大学文学部美学芸術学科に入学。平凡なサラリーマン家庭で、勉強しろと言われたことがないというが、好きだった英語は積極的に勉強したそうだ。欧米のポップスやMTV、ハリウッド映画が子供の頃から大好きで、音楽や映画の英語を理解したいと思っていたという。中学生のとき美術の教科書に面白い絵が掲載されていて、何て不思議な世界なんだと興味を持ち、高校生になるとクロード・モネ(1840-1926)やエドゥアール・マネ(1832-83)など、近現代絵画を見るのも好きになって、視覚文化全体に興味が湧いてきた。
抽象画に関心を抱いて、卒論はモンドリアンの絵画理論について書いた。卒業後大学院へ進み、何か新しくできることはないかと考え、修士論文は研究者が少ない第二次世界大戦前のアメリカの画家ホッパーについてまとめた。1998年から3年間ニューヨーク大学大学院美術研究所へ留学。美術をジェンダーの視点で研究するため、フェミニスト・アートを専門とするリンダ・ノックリン先生(1931-2017)のもとで学んだ。2005年に東京大学大学院博士課程を満期退学し、その後、非常勤講師を務め、2021年に聖学院大学の人文学部欧米文化学科准教授に着任した。
ホッパーとの出会いは、高校生時代に本屋でパラパラと画集を眺めていたときだった。初めて《ナイトホークス》の実物を見たのは、ニューヨークでの展覧会だったようだ。それはホイットニー美術館で1995年に開催された「エドワード・ホッパーとアメリカの想像力」展で、とても衝撃的だったという。ホッパーの絵画にインスピレーションを受けた映像作品などが一緒に展示されており、ビジュアルカルチャー全体に与えたホッパーの影響力を実感したそうだ。
江崎氏は「妙に脳内に焼き付くような作品で、脳が画像を覚えてしまう。ヒッチコックの映画『サイコ』(1960)に登場する家は、《線路脇の家》(1925)がモデルになっており、ヴィム・ヴェンダース監督のサスペンス映画『エンド・オブ・バイオレンス』(1997)では、《ナイトホークス》を再現した場面が出てくる。インスピレーションの源泉となったホッパーも、映画と演劇が大好きでスランプになると1週間くらい映画館に通い映画を観続けていたらしい。映画のワンシーンみたいな絵というのはその通りで、当時いわゆるフイルム・ノワール
が出てきた時代で、ギャング映画からもヒントを得ていた」と述べた。アメリカとは何かを追い続ける
エドワード・ホッパーは 、1882年にニューヨーク州ナイアックで生まれた。洋品店を営む父ギャレット・ヘンリー・ホッパーと、芸術に造詣が深い母エリザベス、2歳年上の姉マリオンの4人家族。地元の高校を卒業後の1899年から、マンハッタン地区のコマーシャル・アートの学校に1年間通った。1900年から6年間、ニューヨーク美術学校でイラストレーションや絵画を学ぶ。その絵画クラスでは、ニューヨーク美術界のリーダーのひとりで、写実的な表現を模索して「ジ・エイト(The Eight)」を結成していた画家ロバート・ヘンライ(1865-1929)らに師事する。
卒業後は広告代理店C・C・フィリップス社のイラストレーターとして働きながら、画家になるために研鑽を積んだ。この時期にヨーロッパへ三度遊学している。いずれも短期間だったが、印象派などのフランスの芸術がホッパーに大きな影響を与えた。
1913年アーモリー・ショー(国際現代美術展)に油彩画《航行》を出品し、初めて作品が売れ、ニューヨークのワシントンスクエア・ノースに居を構えた。1915年エッチングを始める。1920年ホイットニー・スタジオ・クラブ(のちのホイットニー美術館)で初の個展を開催。しかしこの時代、それほど評価されることなく苦闘が続いた。
1924年42歳になり、フランク・リーン画廊で水彩画による個展を開く。ニューイングランドの風景を描いた作品は完売し、画家ジョゼフィン・ヴァースティル・ニヴィソンと結婚。イラストレーターを辞めて画家に専念する。アメリカの愛国主義的な風潮と大衆文化の風土のなか、フランスの印象派的画風から「アメリカとは何かを追い続ける作風」へと変化していた。「アメリカの風景を冷静に見つめた視線には、アメリカを普遍的に表現しようとした葛藤があった」と江崎氏は言う。
ニューヨークに美術館ができた時代
1929年ニューヨーク近代美術館(MoMA)の「現存アメリカ作家19人による絵画展」に選出され、翌年《線路脇の家》がMoMA初の収蔵作品となった。1932年には第1回ホイットニー・ビエンナーレに出品。1933年MoMAにて初の大規模な回顧展が開かれ、画家としての地位を確立する。その年マサチューセッツ州ケープコッドのサウス・トゥルーロに別荘を建てた。
1934年にはヴェネチア・ビエンナーレに出品。1941年には米国内を自動車で旅行する。1942年完成間もない《ナイトホークス》をシカゴ美術館が3,000ドルで購入し、アダ・S・ギャレット賞を授与。1943年メキシコへ鉄道旅行、その後も同国を4回旅した。1950年アメリカの近現代美術の収集で知られるホイットニー美術館で回顧展。シカゴ美術館より名誉博士号を授与された。
1952年米国代表として国吉康雄(1889-1953)ら4人でヴェネチア・ビエンナーレに参加。1962年フィラデルフィア美術館にて「グラフィック全作品展」が開かれ、エッチング作品のカタログ・レゾネが出版される。1964年ホイットニー美術館が大回顧展を開催。1966年アメリカ文化・芸術に貢献した芸術家に贈られるエドワード・マクダウェル・メダルを授与される。1967年5月15日ニューヨークの自宅で死去。享年84歳。
油彩、水彩、版画、スケッチなど、3,000点以上の作品がホイットニー美術館へ寄贈された。ニューヨークに大きな美術館が次々とできていった時代、ホッパーの作品は美術館設立の早い段階からコレクションされていった。故郷ナイアックの墓地に眠っている。
【ナイトホークスの見方】
(1)タイトル
ナイトホークス(ないとほーくす)。英題:Nighthawks
(2)モチーフ
深夜の街角にあるダイナー(簡易食堂)。
(3)制作年
1942年。ホッパー60歳。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦84.1×横152.4cm。
(6)構図
映画のスクリーンのような横長のパノラマ画面。やや斜め上からの構図は、モチーフとそれを見つめる者との間の距離を生む。光にあふれるダイナーと周囲の暗がりの対比は、ダイナー内部の光に照らし出されたカップルと、背を向けてひとりカウンターに座る男の背中の孤独との対比に連動する。ダイナーの空間は、柱などの垂直線によって時折分断されつつも、連続性をもって重層的に接続し、閉塞感と同時に建築物を透視する開放感をつくる。絵画空間が手前にせり出してきているが、それはエドガー・ドガ(1834-1917)の影響かもしれない。
(7)色彩
緑、赤、黄、茶、白、黒など多色。色調を合わせ光と影のコントラストを効かせている。
(8)技法
平塗りで絵具の濃淡はあるが、筆跡は見られない。大胆な明暗対比により、モチーフの細部は描き込まず単純化された。リアルさより半ば抽象化された表現。
(9)サイン
画面右下に「EDWARD HOPPER」と緑色で署名。
(10)鑑賞のポイント
1940年代初頭に蛍光灯が実用化されはじめ、都市の夜景が誕生した直後の作品である。調和の取れた幾何学的なダイナーのフォルムと大きなガラスを通した照明が、モダンな都会の夜を描出している。2台の給湯機の向かいのカウンターには3人の顧客。こちらを向いた中年の男女と、カウンターの左端には背を向けた男が座っている。2人の男は紺のスーツに中折れ帽をかぶり、女は半袖の赤いブラウス。カウンターの中には白いコック姿の店員が腰をかがめながら、カップルの男に話しかけている。店の出入り口は見えないが、店の上の「Only5¢ PHILLIES America No.1」と書かれたタバコの銘柄の文字が時代を伝えている。通りは清潔で人や車の通る気配もなく、しんとした静寂さがある。左側の1階の店舗は明かりが消え、ショーウインドウの内部は暗く、長方形を対角線で分けた垂直三角形の光に照らし出されたレジスターが見える。2階には横に並んだ6つの窓。直線で整理された構成であり、細部は省略されている。ニューヨークのダウンタウン、グリニッジ・アベニューの角にあるレストランにヒントを得て描いた。日本が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した翌年に描かれた作品でもある。眠らない近代都市ニューヨークには消灯令が発令されていた。「無意識のうちに、大都市の孤独を描いていた」とホッパーは回想しているが、戦争に抵抗していたのかもしれない。アメリカの自由と孤独を描いた巨匠ホッパーの代表作。
近代都市の夜の原型
《ナイトホークス》はリアリズムではないと江崎氏は言う。「具象画としての再現性はあるが、リアリズムとはまったく違う。ダイナーの位置を少し斜めにずらし、ディテールを省略したり、実際よりも大きく描いてプロポーションを微妙に変えてシュルレアリスムのような不思議な効果を生んでいる。同時にモチーフを単純化して余白を多くしたことで、絵の中に鑑賞者が入り込み、自分のストーリーを重ねることができる。1カ月半くらいかけて集中して描いたらしく、女は妻ジョゼフィンがモデル、座っている男2人はホッパー自身で、鏡を見ながら描いた」。
そしてホッパーは、絵画や映画、小説に影響を受けて《ナイトホークス》を制作していた。「フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)の《夜のカフェ》(1888、イエール大学美術館 蔵)を参考にしていたと言われている。都市の夜のカフェという主題が同じであり、ゴッホの絵の影響について、ホッパー研究の第一人者であるゲイル・レヴィン(1948-)が繰り返し指摘している。それからギャング映画にも影響された可能性がある。《ナイトホークス》のカップルの男は、映画『マルタの鷹』(1941)に出演したハンフリー・ボガートを思い出させる。また、小説家のアーネスト・ヘミングウェイの短編小説『殺し屋』(1927)の影響も受けている可能性がある」と江崎氏。
《ナイトホークス》の見どころについては、「発明家トーマス・エジソン(1847-1931)が19世紀末に創業したコン・エジソン社による電力の供給が開発され、20世紀初頭のアメリカでは都市の夜景を見ることができるようになった。《ナイトホークス》は、近代都市の夜の原型ではないか、と思う。人工の光の中で時を過ごす4人は、スノードームのような空間に閉じ込められて外へ出られず、外に立ってダイナーを見つめる人は中に入れないような隔絶感がある。誰かが水族館と言っていたが、明暗の中のガラスは不思議で印象的。そしてダイナーを斜めに配置したことで、画面に斜めの線が入り、動的な要素が生まれている。ここを通りかかった人がふとダイナーを覗いた一瞬の風景で、写真を撮ったようにも見える。よく都会の孤独と言われるが、なぜ孤独かというと、近代都市はお互いに知らない者同士が一緒に暮らす場所だったから。つまり都市部で出現しつつあった大衆社会の孤独が表現されている。この男女は、恋人かどうかわからないが、家族的なつながりは感じられない。都市の自由と孤独がある。自由に男女が恋愛をできる一方で、見ず知らずの場所でひとり生きていくことの孤独が描かれている」と江崎氏は語った。
江崎聡子(えざき・さとこ)
エドワード・ホッパー(Edward Hopper)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2022年12月