アート・アーカイブ探求
ヘレン・シャルフベック《快復期》──“かわいい”という生命力「佐藤直樹」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年08月01日号
カイフクする未来
「快復期」という作品の題名に引き寄せられて、作品と作者を探求したくなってきた。カイフクという音の響きは、病気が治るという意味の「快復」と、元の状態に戻るという意味の「回復」を区別なく感じさせる。どちらも英語では「recovery」を用いるようだ。希望や自由、明るい未来をイメージさせるヘレン・シャルフベックの代表作《快復期》(フィンランド国立アテネウム美術館蔵)である。
「地球沸騰の時代」に入り、異常気象や戦争など、世界規模で回復していかなければいけない現状に、シャルフベックの《快復期》が役立つわけではない。しかし、ネットやテレビで熱中症警戒アラートや破壊された街並みをたびたび目にする現代社会で、少女が木の枝を手に健康になっていく姿を見ることは、ほっと息をつく安らぎになるだろう。白いシーツでおなかをくるくる巻きにされた少女が座るカラフルなクッションを発見して癒されたり、少女を包み込む籐編みの椅子を表現する筆使いの勢いに元気が出てくる。《快復期》にはどのような物語があるのだろうか。
ドイツおよび北欧美術史を専門としている東京藝術大学教授の佐藤直樹氏(以下、佐藤氏)に《快復期》の見方を伺いたいと思った。佐藤氏は、シャルフベックの画業を日本で初めて紹介する展覧会「ヘレン・シャルフベック──魂のまなざし」(東京藝術大学大学美術館、2015)の企画と図録の監修をされている。上野の東京藝術大学へ向かった。
東京藝術大学へ
佐藤氏は、1965年千葉県船橋市に生まれた。佐藤氏は高校時代に、イタリア美術史家で東京藝術大学教授の若桑みどり(1935-2007)の本を愛読していたことと、高校の美術の先生が若桑先生と同期だったことに背中を押されて、東京藝術大学美術学部芸術学科を受験した。
ところが藝大に入学すると、若桑先生は音楽学部の先生だったことを知る。若桑先生のもとで研究できないことがわかると、イタリア美術研究から方向転換し、ドイツのアルブレヒト・デューラー(1471-1528)の版画研究に興味をもち、ドイツの中世美術を専門とする越宏一先生(1942-)の研究室で学ぶことにした。大学院の博士課程に進むと、デューラー研究の第一人者フェディア・アンツェレフスキー教授(1919-2010)が教えるベルリン自由大学へ1989年から1年間留学する。しかし、ちょうどベルリンの壁が崩壊したことで、大学の授業は軒並み休講となり、一旦日本に帰国することになった。藝大の西洋美術史研究室の助手を2年勤めた後、1993年国立西洋美術館に就職。研究員、主任研究員としてオーストリア、ドイツ、北欧の美術展を担当した。
佐藤氏は1996年から98年にかけて文部科学省の在外研究員として、当時開館したばかりのハンブルク大学美術史研究所ヴァールブルク・ハウスにてマルティン・ヴァルンケ教授(1937-2019)が主催する「政治的図像学」プロジェクトの薫陶を受けた。同研究所で多くのドイツ人研究者と交流を深め、北欧美術への興味が湧いてくる。帰国後、ヴァールブルク・ハウスでの研究成果をもとに、展覧会「記憶された身体──アビ・ヴァールブルクのイメージの宝庫」(1999)、「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」(2008)、「アルブレヒト・デューラー版画・素描展」(2010)などを国立西洋美術館で開催した。2010年からは、母校の東京藝術大学美術学部芸術学科で教鞭を執っている。
そして、2015年には東京藝術大学大学美術館にて「ヘレン・シャルフベック──魂のまなざし」展を企画から7年かかって開催した。シャルフベックの《快復期》を初めて見た佐藤氏は、「外光派というか印象主義的な要素があるフランス風の作品で、大した絵には見えなかった」と当時の印象を述べている。
三つの不幸
ヘレン・シャルフベックは、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク(1863-1944)と同時代を生きていた。シャルフベックは1862年にフィンランドで生まれたが、当時のフィンランドはロシア大公国で、独立してフィンランド共和国となったのはいまから100年ほど前の1917(大正6)年だった。
佐藤氏は、シャルフベックの人生には三つの不幸があったと指摘する。「ひとつ目は、3歳にして、一生杖をつく生活になってしまったこと。二つ目は、ポン=タヴェンで知り合ったイギリス人風景画家からの一方的な婚約破棄。その画家が誰なのか、なぜ破棄されたのかはいまも不明。シャルフベックが自分の持つ手紙だけでなく、その婚約者の名前の書かれていた手紙のすべてを廃棄するように友人たちに頼んだのだ。三つ目は、若い男性への恋の破局。画家として成功したシャルフベックを訪ねてきた19歳年下の森林保護官でアマチュア画家のエイナル・ロイター(1881-1968)に恋をした。1918年フィンランドで内戦が勃発すると、海辺のリゾート地タンミサーリへ2週間ほど一緒にスケッチ旅行に行った。その際にシャルフベックは、ロイターにノルウェーへのスケッチ旅行を勧める。ロイターはひとりでノルウェーへ赴くと、そこで出会った女性と婚約して戻ってきた。自分が勧めたことで、自分の恋を壊してしまったシャルフベックは、病院へ通うほどの精神的痛手を受けた。シャルフベックは生涯独身を貫くことになるが、ロイターには恋心を抱いたまま友人であり続けた。ロイターへの手紙が1,000通以上残されており、重要な研究資料になっている」。
風光明媚なセント・アイヴス
画家アクセリ・ガッレン=カッレラ(1865-1931)とともにフィンランドでもっとも愛されている芸術家のひとりであるヘレン・シャルフベックは、1862年鉄道機関工場の事務局長の父スヴァンテ・シャルフベックと、母オルガ・ヨハンナ・プリンツの5人兄弟の3番目の子として首都ヘルシンキに生まれた。
3歳のときに階段から落ちて歩行が不自由になり、小学校に通えず家庭教師から少人数の家庭教育を受けた。11歳のとき、家庭教師に絵の才能を見出される。その素描を写実主義の画家アドルフ・フォン・ベッカー(1831-1909)に見せると、ベッカーの援助によりフィンランド芸術協会の素描学校で、無償で学ぶ機会を与えられた。シャルフベックは、4年間毎年優秀賞を獲得する勤勉な学生で才能に溢れていた。1877年にはベッカーが主宰する画塾で油彩画を学んだ。1880年《雪の中の負傷兵》がフィンランド芸術協会に買い上げられ、奨学金を得ると18歳で憧れのパリに渡り、同時期に黒田清輝(1866-1924)も学んでいた画塾アカデミー・コラロッシで最先端の美術を体験した。
1883年21歳、パリのサロンに初めて《ユダヤの仮庵の祭》を出品する。友人たちとブルターニュ地方のポン=タヴェンへ絵を描きに行き、イギリス人画家と出会いすぐに婚約。しかし、その2年後一通の手紙によって婚約は破棄されてしまった。傷心したシャルフベックは1888年、風光明媚なイギリスのコーンウォール地方セント・アイヴスを訪れると《快復期》を描いた。
佐藤氏は「シャルフベックがセント・アイヴスまで旅することになったのは、画塾アカデミー・コラロッシの友人マリアンネ・ストークス(1855-1927)に招待されてのことだった。マリアンネは、1884年にイギリスの画家エイドリアン・ストークス(1854-1953)と結婚し、イギリスの画家たちが集まっていたセント・アイヴスに制作の拠点を移して、フランスのポン=タヴェン同様に芸術村をつくろうとしていた。マリアンネもシャルフベックと同時期にポン=タヴェンに滞在し、エイドリアンと出会っていることから、二人は当然シャルフベックの婚約者とも会っており、彼女が婚約破棄に見舞われたことを心配していたことは間違いない。《快復期》はマリアンネのアトリエで描いており、シャルフベック自身の心の快復も重ね合わせられている」と述べた。
フィンランドを代表する画家
《快復期》を描いた翌年の1889年、建築家の兄とイタリアへ旅行をして、古典名画を鑑賞し、模写した。同年パリ万博のフィンランド・パヴィリオンに《快復期》が選出され、フィンランドとしては初めてとなる銅メダルを獲得し、国際的な名声を得る。シャルフベックはフィンランドを代表する画家となった。1890年フィンランドに帰国。30歳になりヘルシンキ芸術協会の素描学校で教鞭を執っていた。病気がちであったため職を辞し、1902年40歳のときに療養を兼ねてヘルシンキから北へ50キロの松の森があるヒュヴィンカーへ引っ越し、母オルガと暮らす。その町を15年間出ることもなく、家に引きこもって制作に集中した。逆に、そうした引きこもりが、パリでの体験の消化と展開を導き出し、独自のモダンなスタイルを確立、《お針子(働く女性)》や《木こりⅠ》など主に肖像画を描き、定期的に展覧会へ出品していた。
1915年53歳、フィンランドを代表する9人の美術家のひとりとしてフィンランド芸術協会から自画像を依頼され、唯一の女性画家として《黒い背景の自画像》を提出。シャルフベックのファンだという森林保護官でアマチュア画家のエイナル・ロイターが訪ねてきて親交を結んだ。画商ヨースタ・ステンマン(1888-1947)が主催したシャルフベック初の個展が開かれた1917年に、ロイターが最初の伝記を「ヘイッキ・アハテラ」というペンネームで書いた。徐々にロイターへの愛情が深まっていくが破局に終わった。
1920年、フィンランドの大統領より授けられる高位勲章の白薔薇勲章を授与される。1923年母が亡くなり、2年後にひとり、ロイターとスケッチ旅行をした海辺のタンミサーリに引っ越す。第二次世界大戦(1939-45)が始まり、画商ステンマンの説得に従い、1944年スウェーデンのサルトショーバーデンにある温泉保養地に移る。初期作品の再解釈やエル・グレコ(1541-1614)など、過去の巨匠にインスピレーションを得て創作し、晩年には自画像連作を描いて、1946年1月23日83歳で死去した。フィンランド・ヘルシンキのヒエタニエミにある古い共同墓地に両親とともに眠っている。
【快復期の見方】
(1)タイトル
快復期(かいふくき)。英題:The Convalescent
(2)モチーフ
少女、若枝、籐編みの椅子、枕、シーツ、テーブル、マグカップ、インクペン、インク壺、コップ、紙、書類、棚、本、窓。
(3)制作年
1888年。シャルフベック26歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
92×107cm。サロンへ出品するための大きいサイズ。
(6)構図
棚や窓の直線による平行、垂直を背景として、主人公の少女を中央に配置。背の高い肘掛けのある大きな椅子が安定感を醸し、鑑賞者を引き込む空間をつくる。若芽の木枝は椅子の曲線と呼応し、動的なリズムを生んでいる。
(7)色彩
白、アイボリー、ベージュ、茶、緑、青、紺、赤、オレンジ、グレー、黒など多色。
(8)技法
油彩画。二方向から差し込む光によって、全体のイメージを構成している。マットな絵具で粗いタッチ、あるがままに忠実に再現する自然主義の手法。当時フランスで流行していた印象主義の筆触分割 を取り入れ光を表現し、鮮やかな色彩がポイント。また、ものを別の角度からとらえて統合するエドガー・ドガ(1834-1917)やエドゥアール・マネ(1832-83)による断片的な構図法を採用している。
(9)サイン
画面左下に濃い茶色で「H Schjerfbeck.1888」と署名。
(10)鑑賞のポイント
春の明るい光が部屋に差し込み、少女の顔に当たる。病み上がりで寝ぐせのついた髪が愛らしい女の子。光が白い布を強調し、テーブル上のガラスに反射している。イギリス南西部のコーンウォール地方にある海岸沿いの小さな町セント・アイヴスで描かれた。モデルは活発な6歳の少女。当時の美術界ではモチーフとして病気の子供がよく描かれていた。病気から快復した少女が、新たな命の象徴である小枝の緑の芽を見つめ生命力を感じさせる。婚約破棄を乗り越えたシャルフベック自身の姿を重ねた「精神的な自画像」と言われている。当初は《初芽》というタイトルで、パリのサロンに出品して絶賛された。その後、1889年のパリ万国博覧会のフィンランド部門に選ばれて、銅メダルを受賞。フィンランド芸術協会が購入し、アテネウム美術館の完成直後にコレクションに加えられた。本作の約50年後、画商ヨースタ・ステンマンの要請で再びこの主題に戻り、75歳になってリトグラフ(石版画)を学び版画《快復期》も制作した。フィンランドでもっとも有名で、希望を表わす人気のある作品のひとつである。シャルフベックの代表作。
「ファンシー・ピクチャー」の系譜
佐藤氏は「シャルフベックは、スタイルが変わっていく画家で、統一したスタイルがない。ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824-98)風だったり、ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)風だったり、ポール・セザンヌ(1839-1906)風だったり。あるいはセザンヌが手本としたエル・グレコ風だったりと。技量のある画家で、器用なこともあり、いろんなスタイルを試みた」という。
《快復期》については、「女の子の表情や、柔らかな髪の毛の表現など、巧みな画家としてのテクニックのほか、色使い。特にビビッドな赤や緑といった色がワンポイントにあるところがいい」と佐藤氏は見どころを教えてくれた。
また、「『快復期』という主題は、病気の子供がベッドで元気になり、おとなしくしているのがつまらなくなっている様子を描いたもので、1880年代当時のイギリスで流行っていた主題だった。一方で北欧では結核などで死んでいく子供たちが悲劇的に描かれていた。いわゆる『ベッド画』と呼ばれたジャンルである。他方、イギリスではかわいらしい子供たちが絵画主題として好まれる伝統が18世紀からあった。風俗画の一種で、純粋無垢な子供たちを描いた『ファンシー・ピクチャー』と呼ばれるジャンルである。ジョシュア・レノルズ(1723-92)の《無垢の時代》(1785頃)やトマス・ゲインズバラ(1727-88)の《羊飼いの少年》(1781)など、子供をモデルとした創作画が一世を風靡した。その後、キッチュな主題が飽きられると、一時は廃れたが19世紀後半にジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)が《私の初めての説教》(1863)などの作品で復興した。シャルフベックは、多分子供のかわいらしさがイギリスでうけることを見越していたのだろう。フランスでの成功だけでなく、英国美術界の動向を雑誌などから学んで、イギリスでも評価されることを目指す野心的な姿勢がうかがえる。《快復期》を描いた前年の1887年、ロンドンで開かれた第5回王立油彩画家協会展に、蜂を不安げに見つめる二人の愛らしい少女《友、それとも敵?》を出品した。翌年、英国の雑誌『グラフィック』にその木版画による複製が全ページ大で紹介されて評判となり、フィンランド人画家にとっては名誉なことであった。これで自信を得たシャルフベックは、《快復期》を制作したのだろう。《快復期》はイギリスのファンシー・ピクチャーの系譜に置くことで正しく理解することができる」と佐藤氏は語った。
佐藤直樹(さとう・なおき)
ヘレン・シャルフベック(Helene Schjerfbeck)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2023年8月