加治屋健司の記事

本日でこのブログも終わりになります。3ヶ月間にわたってお読みいただきありがとうございました。この場を提供して下さったartscapeの編集部の方々、そのきっかけを作って下さった森司さんにも改めてお礼を申し上げます。

日々の研究活動に即して文章を書くのは初めての経験でしたので、自らの行動と思考を振り返るきっかけになり、実り多い3ヶ月でした。ソウルのセミナー、『アンフォルム』の翻訳、広島アートプロジェクトなどについて考え直すことで、自分なりの課題が整理できると同時に、お読みいただいた方に多少なりとも情報提供ができたのではないかと思います。初回に予告した日本の現代美術に関して行っている共同研究について書くことができなかったのは残念ですが、いずれ別の場所で紹介したいと考えています。

藤川さんもお書きになっているように、「ブログを読んでいます」と声をかけて下さる方には大いに励まされました。これまで非常に限られた範囲の研究者に向けて文章を書いてきましたので、思いもよらぬ方からコメントをいただいたりして、大いに勉強になりました。お読み下さった皆さま、ありがとうございました。

最後に、今後の活動について簡単に記しておきます。まず、5月22日(金)に東京大学駒場キャンパスで「ロスコ的経験----注意 拡散 時間性」と題するワークショップを林道郎さん、田中正之さん、近藤学さんと一緒に行います(詳しくはこちら)。

それから、前々回書きましたように、9月半ばには広島アートプロジェクト2009を行います(こちらに情報が出ます)。9月は、東京大学教養学部と沖縄県立芸術大学美術工芸学部で集中講義をしますので、忙しくなりそうです。

他にも、執筆、発表、翻訳など進行中の企画がいくつかありますが、随時こちらに掲載しますので、折にふれてご覧いただければと思います。

皆さまといずれどこかでお会いすることを楽しみにしています。3ヶ月間、本当にありがとうございました。
前回の「広島アートプロジェクトについて(1)」の続きです。

スミソニアンアメリカ美術館での研究生活を終えて2006年に日本に戻ってきたときに驚いたのは、日本のアートプロジェクトの多さです。もちろん、アメリカにもコミュニティー・アートの歴史がありますし、韓国でもアートプロジェクトが盛んになりつつあります。しかし、全国各地でこれほど多くのアートプロジェクトが行われている国は、世界的に見ても少ないのではないでしょうか。

とは言え、現代美術に慣れ親しんだ人たちの中にも、アートプロジェクトにはそれほど関心をもっていない人はいると思います。玉石混交だという批判的な意見があることは承知しています。たしかに、キュレーター(やディーラー)によるスクリーニングを経た作品が展示される美術館の展覧会と比べると、アートプロジェクトのスクリーンは粗いものかもしれません。

しかし、そのスクリーニングの粗さは、アートプロジェクトの自由度の高さでもあると思います。自由度の高さは、クオリティを低下させる要因にもなりますが、未知なるものに挑戦するチャンスにもなります。後者は、作家が主導するアートプロジェクトにおいて重要になってくるように思います。というのも、そこでは、作家が作家の作品を選ぶわけですから、何を作品とみなすのかについて大胆な判断がしばしば行われ、美術でないものとのギリギリの境界で作品が選び取られることがあるからです。私たちの美術に対する考えを揺さぶるような作品に巡り合うことができるのがアートプロジェクトの魅力の一つなのかもしれません。

アートプロジェクトとは、ローレンス・レッシグの言葉を使えば、アートの「アーキテクチャ」について思考し、それを更新し続ける一つの重要な場なのではないかと私は考えています。アートプロジェクトによって、作品の概念も、鑑賞のあり方も、社会的な役割も、大きく変わりつつあります。アートプロジェクトを、まちづくりの観点(「クリエイティヴ・シティ」も含む)や、いわゆる「オフ・ミュージアム」の文脈で語ることも重要ですが、それと同時に、アーキテクチャとしてのアートプロジェクトについて考える時期が来ているように思います。日本におけるアートプロジェクトに対する関心の高まりが、アートのアーキテクチャに関する議論を活発にしていくことを期待してやみません。
このブログも今月で終わりですので、最後に私が関わっている広島アートプロジェクトについて書きます。

これまで書いてきたエントリーから分かりますように、私は、アメリカを中心とする近現代美術史、とりわけ美術批評史を主な研究対象としている研究者です。30代半ばまでは、主に英語の文献を読んでアメリカの美術と美術批評について考えてきました。

ところが、2007年4月に広島市立大学芸術学部に赴任して、状況が大きく変わりました。現代表現研究室の柳幸典さんがディレクターを務める「広島アートプロジェクト」という地域展開型のアートプロジェクトに携わることになったのです。赴任直後に開催された「旧中工場アートプロジェクト」には関わりませんでしたが、2008年2月にベルリンで開催した「CAMPベルリン」と、同年11月に広島で開催した「広島アートプロジェクト2008「汽水域」」には企画・運営に関わりました。

広島アートプロジェクトは、大学が中心となって企画・運営しているアートプロジェクトです。大学が中心のアートプロジェクトと言えば、取手アートプロジェクトが思い浮かぶ人が多いかもしれません。しかし、最近刊行された『アートイニシアティブ リレーする構造』(BankART1929、2009年)で東京藝術大学の渡辺好明さんが書いているように(この本では私も広島アートプロジェクトについて書いています)、取手アートプロジェクトは、最初の4年間は先端芸術表現科のプロジェクトとして行われたものの、次第に運営体制を学外・市民側に移していきました。それに対して、広島アートプロジェクトは、大学の教育の一環であることにこだわっていこうと考えています(註)。

それはなぜでしょうか。まずアートプロジェクトの担い手の問題があります。広島には、取手のように、20代後半の若い作家が近くに多くいるわけではありません。作家を志す者の多くは、大学を卒業すると、東京や京都などの大都市、あるいは海外に移り住んでしまいます。したがって、広島のような地方都市でアートプロジェクトをやる場合、担い手の中心は、現在大学で美術を学んでいる人たちになります。

そして、私たちには、アートプロジェクトを通して、大学の美術教育を変えていきたいという思いもあります。本学の芸術学部は、他の多くの大学と同様、技術の習得を重視してきましたが、その技術を社会の中でどのように活かすのか十分に教育してきませんでしたし、学生も自分たちの社会的な意味を考える必要がありませんでした。広島アートプロジェクトは、作品の制作や展示だけでなく、そのために必要な財政的な準備、地域住民や行政との交渉や調整なども学ぶ機会を提供し、アートマネジメントの能力育成と同時に、学生のシチズンシップ教育という側面も有した活動を行っています。私自身は、大学内の各種委員会で、芸術学部の教務や社会連携、中期計画作成等に関わって、教育体制の整備に向けて努力しています。

アートプロジェクトとは、「美術とは何か」という問いを生み出し続ける場だと私は考えています。この問いは、「美術館に置かれたものが美術作品となる」というデュシャン的な図式のために、長い間、美術館という制度と密接に関係してきましたが、今日、状況は大きく変わりつつあります。美術館とは無関係の場で制作される美術作品はますます増えています。その一つの場がアートプロジェクトです。街なかの展示では、作品と物体を区別する仕組みがあまり機能しませんし、アートプロジェクトは作品を購入しません。まちづくりを目指す行政中心のアートプロジェクトと違って、大学が中心となるアートプロジェクトにおいては、「美術とは何か」という問いはより根源的になり、作品はより実験的になります。学生の中で作家になれる者がごくわずかであるという事実は、その問いをさらに切実なものにします。大学主体のアートプロジェクトは、「美術とは何か」という問いを最も深刻に受け止めて、美術を前に進めていく重要な役割を担っていると思います。

なお、広島アートプロジェクト2009は、今年の9月半ばに予定しています。ぜひご来場いただければと思います。


広島アートプロジェクト実行委員会は、広島市、広島市文化財団、広島市現代美術館の職員、広島市立大学の教職員、広島市民等からなる非営利団体です。本文は、あくまでも広島市立大学の教員としての立場に基づいた意見を述べたものであって、実行委員会自体が大学の教育をもっぱらに考えているわけでは必ずしもないことをお断りしておきます。
新学期が始まり、あわただしくしています。今回は、大学で担当している美術史の授業について書きます。

昨年は、学部で「現代美術史」として1945年から2005年までの美術を講義し、大学院では、第二次世界大戦後の美術の代表的な作家(ジャクソン・ポロックからヴォルフガング・ティルマンスまで)を毎回1人ずつ取り上げる授業をしました。

今年は、学部では昨年とほぼ同様の授業をしていますが、大学院では批評理論を扱うことにしました。

私の所属する芸術学部は実技の学部で、授業中に現代美術の作品を説明するときに、その作品を理解する上で必要な批評や研究について最初から説明しなければいけないことがあります。ミニマル・アートを論じるときには、クレメント・グリーンバーグからマイケル・フリードへの批評の展開や、ドナルド・ジャッドとロバート・モリスの言説的な差異について、やはり触れておきたいと思うのですが、それを説明するだけで、けっこう時間がかかってしまいます。また、こうした言説を紹介しておかないと、作品について豊かに語ることも難しくなってきます。そこで、現代美術を理解する上で必要と思われる文章を13本選んで、毎回1本ずつ取り上げて論じることにしました。

選んだテキストは、現代美術の専門家でなくても、美術に関心がある人ならおおよそ知っているものばかりです。ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、モーリス・メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」、クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」と「モダニズムの絵画」、ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」、スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」、ドナルド・ジャッド「特殊な物体」、マイケル・フリード「芸術と客体性」、レオ・スタインバーグ「他の批評基準」、ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」、フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」、ホミ・K・バーバ「まじないになった記号 アンビヴァレンスと権威について――1817年5月、デリー郊外の木陰にて」、アーサー・ダント「芸術の終焉の後の芸術」。本当は全て原文で(少なくとも英語で)読みたいところですが、実技系の学生にそこまで要求することもできず、全て日本語で読むことになります(実は、翻訳の質の問題があるのですが、ここでは措きます)。

以前のエントリー「美術批評とアンソロジー」で書いたこととも関係しますが、こうした論文を集めた日本語のアンソロジーは存在しません(『反美学』や『視覚論』のように原著がアンソロジーであるものを除いて)。日本にはアンソロジーの文化がありませんし、翻訳を助成対象にする出版助成金もほとんどありませんので、採算が取りにくいのかもしれませんが、かつては、『現代の美術 別巻 現代美術の思想』(講談社、1972年)や『モダニズムのハード・コア』(『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、1995年)など、アンソロジーの要素をもった書籍が刊行されて、好評を博したこともあります。良質な翻訳による現代美術のアンソロジーが出版されることを心より期待してやみません。
『アンフォルム』の翻訳の話の続きです。

前回、『アンフォルム』の方法論的な慎重さや作品重視の姿勢について書きました。それは現代美術の専門家だけを対象としているということではありません。むしろその逆で、現代美術の研究者以外の方にも手に取ってもらえればという思いが私にはあります(なお、以下に書くことは私の個人的な考えであって、訳者同士あるいは出版社との共通見解というわけではないことをお断りしておきます)。

まずお勧めしたいのが、現代美術に関心がある一般の方々です。近年は、出版物の刊行や美術館の教育普及活動等により、現代美術の作品に対する解説や説明に触れる機会が増えてきましたが、作品のもっている歴史的、理論的な背景をここまで真剣に掘り下げている本はそう多くありません。文章は決して平易ではありませんが、それを読んだ後、作品を理解するということがいかにスリリングな体験であるのかがよく分かります。この本に取り上げられている作品の多くは、アメリカやヨーロッパの現代美術館でよく見かける作品ですので、海外で美術作品を見るときにも大きな助けとなります。

また、キュレーターの方にも興味を持って読んでいただけるのではないかと思います。もともとこの本は、イヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスが企画した展覧会のカタログだったこともあり、作品の選択自体にさまざまな主張があります。たとえば、ブルース・ナウマンの《私のスチール椅子の下の空間 Space Under My Steel Chair》(1965-68)は、椅子の下の空間をコンクリートで固めて反転させて作った彫刻作品ですが、この作品が選ばれたのは、同種の作品が「署名作品signature work」となっているレイチェル・ホワイトリードのやや高すぎる評価に対抗するためであったことは明らかです。キュレーターは、現在、制作されている作品に価値を与えていくと同時に、それがどのような歴史を作り出しているのかについても自覚的に活動しています。美術作品を歴史に位置づける際の研究者側の有力な視点の一つを『アンフォルム』は提供していると思います。

そして、哲学思想に強い関心があり、同時に美術にも多少関心がある方にも、興味を持っていだたけるのではないかと思います。日本の読書層は、哲学思想への関心が高く、長い伝統があります。哲学者や思想家はしばしば美術作品を参照しますが、彼らよりもずっと巧みにかつ面白く美術作品を持ち出しているのが本書です。一見すると取りつく島がないように見える現代美術の作品が、理論的にアプローチすることでまったく違って見えるようになると同時に、その理論のもとになった哲学思想もまた新鮮に見えてくるのではないかと思います。

最後に、現在、作品制作に携わっている作家の方々にもお読みいただければと思います。私は、立場上、若い作家や学生のポートフォリオを見たりプレゼンテーションを聞いたりすることがあるのですが、そのときに思うのは、理論的に考えることの大切さです。「理論的に考える」とは、特定の理論的な立場に立って考えるということではなく、曖昧さを残すことなく徹底的に考え抜くということを意味するとすれば、本書は、そうした理論的な思考を鍛え上げる道具として第一級の価値があります。決して平易な本ではありませんが、読み終わった後に得るものもまたその分大きいことは保証できます。

以上書いてきたように、『アンフォルム』は、現代美術の専門家だけを対象とした本ではなく、様々な分野や立場の方々にとっても面白く読むことのできる本です。訳者の一人としては、上記以外の方々にも手を取っていただければ、望外の喜びです。『アンフォルム』のように学際的な性質をもち、より広い読者層に開かれている未邦訳の本は、まだまだあると思います。本書に関心をもって下さった月曜社の炯眼に感謝すると同時に、こうした書籍がこれからもっと注目を集めていくことを心より祈念しています。
先月、翻訳の仕事が一段落しました。近藤學さんと高桑和巳さんと一緒に翻訳していたイヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスの『アンフォルム 無形なものの事典』の校正がほぼ終わりました。3人で翻訳しようと言い始めてから随分と年月が経ってしまい、その間お待ちいただいた方には大変申し訳なく思うと同時に、ようやく出版できそうでほっとしています(月曜社から出版されます)。本来なら、こうした文章は、刊行されてから書いたほういいのでしょうが、このブログも4月末までですので、今の時点での思いを書かせていただきます。

この本は、アメリカで活躍する二人の美術史家が、バタイユの用語を方法論として練り上げながら、主として第二次世界大戦後の美術を論じたものです。もとは、二人が96年にパリのポンピドゥー・センターで企画した展覧会「アンフォルム 使用の手引き」の図録として出版されました。翻訳は97年に出版された英語版に基づいて行いましたが、フランス語版にも一通り目を通して異同もチェックしています。

著者のボワとクラウスは、それぞれプリンストン高等研究所教授とコロンビア大学教授で、アメリカを代表する美術史家です(ボワはアルジェリア生まれのフランス人ですが、80年代半ばからアメリカで活動しています)。ともに学術誌『オクトーバー』の編集委員を務め、様々な理論を援用して美術史の方法論を変革しつつ、主に20世紀の美術作品について画期的な解釈を行ってきました(二人については、林道郎さんによる優れた紹介が『美術手帖』の1996年2月号と5月号に載っています)。

この本は、タイトルにある「アンフォルム(無形なもの)」から分かるように、第一に、クレメント・グリーンバーグが提唱したフォーマリズムに対する批判を目指しています。フォーマリズムに対する批判はその同時代から始まって、1980年代半ば以降は理論的に再検討する作業が進みました。ボワもクラウスも、それぞれの著書や論文の中で幾度となく論じています。本書は、さまざまな論者によって行われたフォーマリズムの再検討を踏まえつつ、これまでの二人の議論を集大成したものと言ってよいでしょう。

それと同時に、この本は、90年代前半に注目を集めていた「アブジェクト(おぞましいもの)」に対抗することも目指しています。松井みどりさんが『アート "芸術"が終わった後の"アート"』にまとめている通り、90年代前半には、アブジェクトと多文化主義に対する関心が高まりましたが、前者に対してはこの本が、後者に対しては1996年夏の『オクトーバー』77号のヴィジュアル・カルチャー特集が、否を突きつけたことになります(当時クラウスははっきり "I hate visual culture." と言っていました)。ボワとクラウスは、フォーマリズムだけでなく、反フォーマリズムの文脈で注目された「アブジェクト」に対しても批判の矛先を向けたのです。

この本を最初に読んだときに印象深かったのは、方法やその対象に対する姿勢の慎重さでした。実は、ボワもクラウスも、一般的に思われているほど、新しい理論や方法に関心をもつような美術史家ではありません。本書に出てくるのは、バタイユだったり、精神分析だったり、記号論だったりと、とても「古くさい」理論ばかりです。フォーマリズムに一時期慣れ親しんでいた二人は、この本において、自分たちが依拠してきた方法を再検討して批判するという、地味な作業を行っています。丸山昌男が『日本の思想』で論じたように、新しい理論が出てくると、それまでの理論は古くさく見えてしまい、新しいものに取って代えようという動きがよく起こりますが(これは日本だけの現象ではなくアメリカのアカデミアでも一部見られます)、そのように意匠として理論を扱うのではなく、自らが依拠してきた方法を愚直なまでに検討し続けているところに新鮮な思いがしました。

そして、それと同時に、彼らが最終的には作品の解釈を豊かにすることを目指しているところも印象的でした。本書はきわめて理論的な書物で、フォーマリズムやアブジェクトに理論的に対抗するという側面もありますが、他方で、彼らの大きな関心が、どうしたら作品をこれまでとは違ったやり方で見ることができるかというところにあることも事実です。二人は、一般的に思われているのと違って、作品分析を重視しています。美術史でもホミ・バーバの議論が注目を集めたこともあり、昨今、作品そのものよりはそれが生産・流通・受容された時代や地域、状況の分析に重きを置く論文が増えましたし、私自身そうした論文を何本か書いたことがありますが、絶えず作品に還っていこうとする二人(とくにボワ)の姿勢を見ると、いつもハッとさせられる思いがします。
私が勤務している広島市立大学芸術学部は実技系の学部で、美術学科には、日本画、油絵、彫刻の各専攻が、デザイン工芸学科には、視覚造形、メディア造形、立体造形、金属造形、漆造形、染色造形の各分野と現代表現領域があります。全ての学生は、制作として芸術を学んでいます。

私以外の教員は全て、実技を教える教員で、芸術学部では私だけが「理論系教員」と呼ばれる美術史担当の非実技系教員です。もちろん、一人で美学美術史をすべて教えているわけではありません。美学や日本美術史は国際学部の教員が担当していますし、西洋美術史や東洋美術史などは非常勤講師が教えています。私は現代美術史を受け持っています。

この大学に赴任する前も作家や実技系の学生と知り合う機会はありましたが、私は美術大学の出身ではないので、学生から教員まで周りがここまで作家ばかりという環境は初めてです。もちろん、それゆえに苦労することもなくはないですが(特に校務で)、総じて新鮮な環境を楽しんでいます。

現代美術を教える現代表現領域の授業では何度も作品の講評をしていますし、授業以外で講評を求められることもよくあります。これまで、本当のコンテンポラリーの作品はもっぱら見るばかりで、書く文章は、「現代美術」と言っても数十年も昔の歴史的な作品や作家を対象にしてきましたので、最初は多少の戸惑いを覚えたのは事実ですが、じきに興味を覚えるようになりました。作り手の考えを身の丈で考えるようになりましたし(そもそも研究者もある意味で「作り手」です)、作家である他教員や、非常勤講師などで来学する批評家や学芸員の方が講評する場に立ち会うのも得難い経験です。

現代美術の作品を見るという経験は、研究者が議論を作り上げるプロセスに似たものがあります。最初に受ける印象は漠然としているのですが、そのときに心に引っ掛かったことが徐々に見えてきて、それを明らかにするうちに、あるとき「見えてくる」という経験です。昔、クレメント・グリーンバーグの美術批評における「瞬間性」論を、マイケル・フリードの「瞬間性」論と峻別して、再解釈する論文を英語で書いたことがありましたが、そのときに考えていたのは、まさにそういうことでした。制作と研究はそれほど大きくかけ離れた事象ではないと私は考えています。

研究者として以前から考えてきたことを、作家や作品と触れ合う中で実際に体験するということもありますし、その反対に、作家や作品との対話の中からある種の言説が立ち上がってくることもあります。現在の恵まれた環境をうまく活用しながら、現代美術に関する自らの議論を練り上げていければと考えています。
韓国から戻ってきた後、週末の東京出張が続きました。会議や研究会に出席する合間に、先々週は、「VOCA展2009」(上野の森美術館)を見て、Port Bの「サンシャイン63」に参加しました。先週は、「アーティスト・ファイル2009」(国立新美術館)や「ジム・ランビー」(原美術館)を見る一方、ギャラリー等を回って、「田中功起」(青山|目黒)や「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」(メゾンエルメス)、Chim↑Pomの「広島!」(VACANT)等を見ました。

それぞれに興味深い発見があったのですが、今回はChim↑Pomの「広島!」を見て考えたことを書きます。

ご存知の方も多いと思いますが、Chim↑Pomは、昨年秋に広島市現代美術館で個展を開催する予定でしたが、作品制作のため広島の上空に飛行機で「ピカッ」の文字を書いて問題となり、展覧会が中止になりました。今回の「広島!」は、そこで展示される予定だった《リアル千羽鶴》や、中止の原因となった映像作品《ヒロシマの空をピカッとさせる》を展示する企画でした。

《ヒロシマの空をピカッとさせる》は、広島の上空に「ピカッ」という文字を書いた5分ほどの映像作品で、原爆ドームが入った映像と文字にクローズアップした映像がセットになっています。ともに、街を行く人々のオフの声が入っています。

この作品については、今回出版された書籍を始めとしてさまざまな議論が展開されましたが、その中でも興味を引いたのは椹木野衣さんの文章でした。椹木さんは、この作品は、その「薄っぺらさ」において、アウシュヴィッツ以後の芸術がもつ「暴力」(アドルノの意味における)の問題を回避し得ること、「ピカッ」という文字は、原爆を表象するよりも、こうした行為が可能な戦後日本の平和を表象すること、上空に文字を書いて一方的に地上の人に見せるという、非対称な関係に基づく行為は、想像力が欠如している点で、加害者としてのアメリカ人的な感性に基づいていること、そして、その感性は、Chim↑Pomだけのものでなく、アメリカ化しフラット化した戦後日本の感性であること、などを指摘しています。

実際の作品を見た印象も、こうした指摘に違うところはほとんどありませんでしたが、それに一点付け加えるとすれば、文字が、スチル写真でみるほど鮮明ではなく、書いたうちから文字どおり雲散霧消していくということの意味です。

描いたものが消えていくという点で想起したのが、表現方法も主題も全く異なりますが、オスカル・ムニョスの《あるメモリアルのためのプロジェクト》です。この作品は、路上のコンクリートの上に水で肖像画を描いていくけれど、日に照らされてたちまち消えていくのを収めた映像作品で、行方不明になる人々が後を絶たないコロンビアの政治的・社会的な状況を浮かび上がらせたものとされています。絵が完成しないうちに、最初に描いた部分が薄れていく様子は、Chim↑Pomの作品にも見られる特徴で、ともに、記憶というよりもその忘却を強く感じさせる表現だと思います。

「忘却」を意識したのは、それが日本語で書かれていたこととも関係しています。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』が指摘しているように、近代の日本においては、西洋語を読みながら日本語で書くことに一定の意味があったとしても、英語のグローバル化が進む今日、日本語で論文を書くことの虚しさを感じたことがない研究者は、おそらくほとんどいないでしょう。「ピカッ」という文字はやはり日本語で書かれなくてはならなかったと思いながらも、この3文字のもつ意味合いが、日本語を超えた世界でどのように伝わるのか、考えさせられました。そしてそれは、単に日本語を使っているというだけの問題ではなく、日本語環境の経験によって作られた表現そのものが直面する問題であるように思います。

雲間に薄れてゆく「ピカッ」の文字に、戦争の記憶が失われ、戦後日本の平和が基づいてきたものが見えなくなる様子を重ね合わせながらも、それと同時に、私たちが用いている日本語が、そしてそれが可能にした経験や表現が、英語のグローバル化が進むなかで、どのような意味を担っていくのか、他の日本の作品も参照しながら、考えていく必要があると思いました。
前回のソウル出張の続きです。

ソウルを訪れたのは今回が初めてでした。韓国の現代美術は、何年も前から、当時住んでいたアメリカでも話題になっていて作品を見る機会も時々あったので、もう少し早く訪れたかったのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。

今回の滞在では、セミナーをしたSOMA美術館の他に、国立現代美術館、徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)、アートソンジェ・センター、オールタナティブ・スペース・ループ、サムジー・スペース、リウム美術館、数々のギャラリー、京畿道のナムジュン・パイク・アートセンターなどを訪問しました。

こうした施設・組織の方々の何人かと話していると、日本のアーティストだけでなく、日本のキュレーターや批評家の名前がよく挙がります。すでにご存知の方も多いと思いますが、日本や韓国、他のアジア諸国のキュレーターが共同で企画する展覧会やシンポジウムは2000年代に入って増えていて、そうした状況の中で当事者同士のネットワークが進展しているようです。

そこで気になったのは、日本で現代美術を研究している研究者の名前がほとんど挙がらないことです。たしかに現代美術研究は、歴史のある美術史研究から見ると、端緒についたばかりと言っていいですし、現在のアートシーンで研究者が果たしている役割は、研究者が批評家として活動する場合を除いて、決して大きくありません。

もちろん、国際美術史学会や国際美学会等の国際的な組織があり、そこで交流が行われているのも事実ですし、私自身、アメリカにいた頃はそうしたシンポジウムやワークショップに参加したこともありますが、キュレーターのように、アジアの同世代と、メールとスカイプで連絡を取り合いながら、共同でプロジェクトを立ち上げていくには至っていません。

とは言え、現代美術の分野で研究者が共同でできることは数多くあります。グローバルな学問動向を反映して関心事の共通性は高まっていますし、比較研究の余地は限りなくあります。また、同じ本を翻訳している場合も多いです(ある美術館の図書室でArt Since 1900 [2005] の韓国語訳を見つけました)。共同研究で検討するテーマについては事欠かないように思います。

日本の現代美術の研究者も、少しずつですが、国際シンポジウムや今回のようなセミナーで、アジアの同世代の研究者と知り合う機会が増えてきていると思います。近い将来に、同世代の研究者と共同で、現代美術のシンポジウムや公開セミナーを企画していければと思いました。

しばらく更新ができず失礼しました。昨日韓国から戻ってきました。今回は、前回触れたセミナーについて書きます。今回の滞在では、セミナーを行っただけでなく、主要な現代美術の美術館やギャラリーにも行きましたし、美術関係者ともお会いしましたが、それは稿を改めたいと思います。

3月7日、ソウルのオリンピック公園内にあるSOMA美術館で「エモーショナル・ドローイング」展に関連したセミナーを行いました。ヤン・ジョンム先生(韓国芸術綜合学校美術学部准教授)と私がそれぞれ韓国と日本のドローイングについてレクチャーをした後、キム・ヨンチョル先生の司会でディスカッションを行いました。聴衆は、美術に関心をもっている学生を中心に、おそらく100名以上が集まり、立ち見も出るほど盛況でした。

ヤン先生は韓国でドローイングに関する展覧会が近年増えていることを指摘しつつ、韓国の近現代美術史におけるドローイングの重要性についてお話しになりました。私は、絵画や彫刻の下絵や習作とされてきたドローイングが1960年代以降、どのようにして自立的な価値を持つようになったのかをアメリカやヨーロッパの事例を中心にお話しした後、第二次世界大戦後の日本におけるドローイングの展開について説明しました。

日本の「デッサン」という言葉は、東京美術学校に西洋画科が新設された頃から使われ始めたと推定されています(ただしデッサン教育自体は工部美術学校の頃から行われています)。その「デッサン」という言葉が指し示してきた領域の中に「ドローイング」という言葉が登場して普及し始めたのは1970年代です。そのような言語的な変化を促したのは、フランスからアメリカへと美術の中心が移ったという地政学的な問題に加えて、1960年代のアメリカにおけるドローイングの位置づけの変化によるところが大きいように思います。

今回のレクチャーは、聴衆のことも考えて一般的な話を中心にしましたが、今後はもう少しテーマを絞って、研究を進めていければと思いました。日本におけるデッサン教育については先行研究もあるかと思いますが、フーコー的な視点を入れて言説の編制について詳しく追っていきたいですし、アメリカの60年代の動向と、90年代以降のドローイングに対する関心の高まりはどのように関係しているかについても考えていければと思いました。

日本とアメリカ以外でレクチャーをするのは初めてでしたので、当初は少し不安も感じましたが、ヤン先生やキム先生と事前に話しているうちに、美術史的な理解を共有していることが分かってきて、不安も解消されていきました。さらに、ヤン・ミソンさんのすばらしい通訳のおかげで何の不自由を感じることもなく、無事に終えることができました。最後になりますが、この企画をして下さった国際交流基金とSOMA美術館の方々にこの場をお借りしてお礼を申し上げたく思います。

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ソウルオリンピック公園内にあるSOMA美術館の正面入口。2009年3月7日12時頃(晴れ)

今週末に韓国でセミナーをすることになったので、その発表原稿を準備しています。昨年、東京と京都で開催された「エモーショナル・ドローイング」展(主催=東京国立近代美術館・京都国立近代美術館・国際交流基金)が現在巡回しているソウルのSOMA美術館で、1960年代以降のドローイングについて話す予定です(ハングルですが詳細はこちら)。

ドローイングとは、実に多義的なメディアです。ドローイングは、線を引くという美術の最も基本的な行為でありながら、絵画や彫刻の下絵や習作として補助的な役割を担わされてきました。また、フランスのアカデミーで、感覚を連想させる色彩を重視したルーベンス派に対して、プッサン派が知性と結びつく線描を重視したように、ドローイングは知性と結びつけられてきました。その一方で、今回の「エモーショナル・ドローイング」展にあるように、情動を誘発する媒体ともみなされています。現在のドローイングは、こうした多義的な特徴を受け継ぎつつ、おそらく1960年代に大きく変貌を遂げたのではないか――そうした考えのもとに、今回の講演では1960年代以降のドローイングについて話してこようと思っています。

講演で時間があれば少し触れたいと思っているのが「ドローイングとアジア」というテーマです。他ならぬ「エモーショナル・ドローイング」展は、アジアや中東の作家の作品を集めた展覧会でしたし、関連シンポジウムで、信州大学の金井直さんが西洋とアジアでの石膏デッサンの展開について発表なさったとも聞きました。

日本の絵画史では、色彩を重視した琳派を除いて、概ね線描が重視されてきました。障屏画でも絵巻物でも、ものの輪郭線は丹念に描かれています。それは、絵を描くことがものの輪郭を描くことを意味したからだと言えます。しかし、明治以降に本格的に入ってきた西洋の画法は、ものの形(プロポーション)に加えて、陰影の調子による立体感の表現を重視しており、それまでの日本の絵画と大きく異なるものでした。そうした西洋の画法が普及する中で、菱田春草や横山大観らが試みたのが、輪郭線によらずに面で描く「朦朧体」でした。それは日本画の近代化運動であり、アジア的な線描表現からの脱却を目指していたと言えるでしょう。

今日の日本におけるデッサン教育は、こうした西洋化・近代化の帰結です。現在では見直しも進んでいますが、入試の科目に石膏デッサンが入っている大学は依然として多くあります。ある美術大学の先生から聞いた話では、日本の大学院でデッサンをさせると、日本の学生が職人のように上手に立体感のあるデッサンを描くのに対して、ヨーロッパの留学生はジャン・コクトーのような輪郭線だけの線描画を描くことがあるそうです。ドローイングをめぐるこうした逆転現象はとても興味深いものです。受容史という意味では、ドローイングとデッサンという言葉の差異も考える必要があるように思います。

今回はどこまで話せるか分かりませんが、ドローイングのもつ歴史的・地政学的な多様性について、これを機会に考えていきたいと思っています。

最近、1950年代から70年代くらいまでの日本の美術批評を読み直しています。古本屋で買い集めた古びた『美術批評』や『美術手帖』の変色した紙面を少しずつめくって、日本の美術批評の全盛期に思いをはせながら、読み進めています。

この時代の美術作品のほうは、日本だけでなく世界的にも再評価が進んでいます。国内では、本格的な展覧会や出版物が増えていますし、ヨーロッパやアメリカでは、戦後の日本美術を回顧する展覧会が開かれるだけでなく、近年では、具体美術協会やもの派に関する学術研究もずいぶんと目にするようになりました。また、個々の作家に対する関心も高まっており、今や田中敦子の作品は世界各地で見かけますし、ウォーカーアートセンターで「工藤哲巳」展が開催されたことも記憶に新しいことと思います。

他方、美術批評のほうはどうかというと、美術作品に匹敵するほど再評価を得ているわけではありません。針生一郎については、『日本心中』(2002年)や『9.11−8.15 日本心中』(2005年)といった大浦信行の映画などで再び関心が高まりましたが、それを除けば、過去の美術批評を読み直そうとする機運は、まだ依然として弱いような印象があります(数少ない例外として、光田由里の『『美術批評』〈1952−1957〉誌とその時代 「現代美術」と「現代美術批評」の成立』があります)。

しかし、たとえ50年以上前に書かれた美術批評でも、今なお面白く読めるものがあります。針生の「サドの眼」や中原佑介の「密室の絵画」(ともに1956年)は、説得力ある作品分析を行うのにとどまらず、状況を捉えるための確かな視点を提唱するもので、時代を超えて読まれるに値する批評です。その批評が書かれた文脈を知っていれば、もっと興味を持って読むこともできます(例えば「サドの眼」が「スカラベ・サクレ」論争や新日本文学会内の路線対立を踏まえて書かれたことを知っていれば、花田清輝と比較して読むこともできます)。

問題は、日本においては、こうした過去の代表的な美術批評が入手困難であることです。美術雑誌のバックナンバーは、大きな図書館に行かないと閲覧できませんし、過去の批評は、批評家の著作に再録されることもありますが、絶版になることも多い上に、論争の場合、両方の文章が再録されることはまずありません。たしかに基本的に雑誌に書かれる批評は、一時的な性格が強いのかもしれませんが、歴史的に重要な批評も数多くあり、こうした批評にアクセスできないのは文化的な損失と言ってもいいでしょう。

英語圏では、代表的な批評や論文を集めたアンソロジーが数多く出版されています。ポロック論を集めた、ミニマル・アートの批評や作家の文章をまとめた、作家の文章を大量に集めた、20世紀の芸術に関する文章を集めた......。もちろん、こうした本では元の文章を抄録している場合も多く、解釈の固定化に繋がったり、歴史的な文脈が見えにくくなったりすることもあります。それでも、歴史から忘却されて、似たような議論を一から始め直すよりもずっといいように思います。美術批評に限らず、展覧会カタログの文章(これこそ入手困難な場合が多い)も含むようなアンソロジーが出ればいいのになあと改めて思った次第です。
先週末は、藤川さんと同じく私も東京に出張していました。

いくつかの所用の合間に、森美術館で開催されている「チャロー!インディア インド美術の新時代」展を、遅ればせながら見てきました。

インドの現代美術に関する大きな展覧会は、日本では、1998年に国際交流基金アジアセンター(当時)の主催で開催された「インド現代美術展 神話を紡ぐ作家たち」以来で、とても興味深く拝見しました。

私の主な研究分野は、アメリカと日本の現代美術史・美術批評史ですが、昨年秋に国際交流基金主催の国際シンポジウム「Count 10 Before You Say Asia: Asian Art after Postmodernism」に参加して、日本におけるアジアの現代美術の受容に関する発表を行ったことをきっかけに、アジアの現代美術についても強い関心をもつようになりました。

もちろんその前から、ヴェネチア・ビエンナーレなどの国際美術展や他の展覧会で、アジアの作家の作品に触れる機会がしばしばあり、興味をもって見ていましたが、受容史をひと通り調べた後は、研究者としての関心が大きくなりつつあります。

10年前の「インド現代美術展」と今回の「チャロー!インディア」展では、出品作家が1人しか重なっておらず、異なる印象を抱いた人は多かったと思います。その大きな要因の一つは、インドの作家と日本の観客の間で共有できるコンテクスト、とりわけ美術史的コンテクストが増えたことではないかと思いました。

インドの作家たちの作品を見ながら、作家たちが明示的に参照するピカソやデュシャン、アンディ・ウォーホルやシンディー・シャーマンだけでなく、どこまで意識しているか分からないハンス・ハーケ、ソフィー・カル、キキ・スミス、リジア・クラーク、会田誠、ロバート・ワッツ、マルジャン・サトラピなどの作品を想起した人は少なくないと思います。

この類似は、これまで現代美術で行われてきた、引用やアプロプリエーション(及びそこにあるオリジナリティ批判)というよりも、視覚的語彙の共有化の現われのように思います。もちろんこうした事態は、現代美術を含む文化のグローバリゼーションの効果ですが、それは、文化のフラット化をもたらしているというよりも、むしろ、そのことによって、他者の文化との「関わりしろ」(藤浩志さんの言葉)が増えているのではないか、フラット化による複雑化が進行するのではないかと思いました。

アジアの現代美術については、キュレーターの活躍が先行していて、批評や研究は後塵を拝しているのが現状です。中国の現代美術においては批評や研究が進みつつありますが、今回「チャロー!インディア」展を見て、インドの現代美術についても、グローバリゼーションの一つの効果として、批評や研究が成立しやすい状況ができつつある印象を受けました。

昨年のアメリカ大統領選挙キャンペーンで使われたバラク・オバマのポスターがAP通信の写真を利用していたことが分かり、ポスターを作成したシェパード・フェアリーに対してAP通信側が権利を主張していた件で、今週、フェアリー側が権利確認の訴訟を起こしたニュースが伝えられています。

美術史を教える大学の教員・研究者として直面する問題の一つに著作権があります。美術作品の授業で画像を見せたり、論文で参考図版として利用したりするとき、著作権が問題になります。また、私の所属する芸術学部は、美術、デザイン、工芸の各分野からなる実技系の学部ですので、教員や学生から、制作や展示に関連して著作権の質問を受けることもあります。

もちろん、授業で美術作品の画像を引用として利用することは許されていますし、学術論文で参考図版を掲載する場合もおおよそ一般的な合意がありますので、問題は少なかろうと思います。しかし、教育や研究を行っていると、どう判断してよいか分かりかねるケースがあります。とりわけ私が関わる現代美術の分野では、著作権のあり方自体を考えさせる作品に出会うこともよくあります。

例えば、創作性(オリジナリティ)とは、著作権法が保護する著作物の条件の一つですが、デュシャン以降、数限りない作家が創作性を問い直す作品を制作しています。アイディアと表現の区別も著作物を考える上で重要な要素です(著作権が発生するのは後者)。アイディアは共有すべきものとされているので著作権が発生しないのに対して、そのアイディアを実現する表現は、さまざまな実現の形態がありえるため、著作権が発生します。しかし、そのアイディアと表現の区別がほぼ意味をなさない作品も数多くあります。2001年のターナー賞を受賞したマーティン・クリードの《作品227 点滅する照明》[展示室の照明が点滅する作品]は、その一例と言ってよいでしょう。

研究においても、著作権の範囲がグレーゾーンになっている印象を受ける場合があります。以前学術論文を書いたときにこんなことがありました。論文の参考図版として、アンディ・ウォーホルの《ゴールド・マリリン・モンロー》(1962年)の図像を利用しようと思って、所蔵先のニューヨーク近代美術館に問い合わせたら、権利を管理しているイタリアの会社に問い合わせるように言われました。そこに問い合わせたらある金額を請求されたのですが、さらにウォーホル財団に問い合わせたほうがいいだろうと言われて問い合わせたら、そこでまたある金額を請求されました。さらに今度はモンロー財団にも問い合わせたほうがいいだろうと言われて、結局利用を諦めてしまいました。よく考えてみると、それぞれの財団の言い分は「別の財団にも権利があるかもしれない」というもので、私もよく分からずにそのまま問い合わせを続けてしまったわけですが、本当に著作権がこのように何重にもかかっているかどうかは分からないことに後で気がつきました。

現代美術の分野では、著作権の及ぶ範囲はますます曖昧になっているように見えます。それは上記のようにある種の混乱や不都合をもたらしているのも事実ですし、そうした事態を受けて、特に音楽の分野では管理の厳密化が進行しているようにも思えます。しかし、そうした混乱や不都合にも拘らず、著作権の不確定性の中に創造の可能性があるようにも思えてなりません。もしフェアリーが既存の写真を用いずにオバマのポスターを制作したとしたら、全く別のものになっていたかもしれません。また、グレーゾーンの中でポスターが制作されたことによって、あのポスターの創作性とは何なのかについても議論が興ってきます。日本の著作権法は、著作権の権利が及ばない対象を、制限規定(「引用」など)として具体的に列挙しているのに対して、アメリカの著作権法は、フェアユース(公正使用)ならば許されるとして、包括的に規定しています。フェアリーの弁護には、フェアユースによる創造的自由の向上を目指すスタンフォード大学のフェアユース・プロジェクトも関わっているようです。何がフェアユースなのかということについて、フェアリーの訴訟をきっかけに議論が興ってくることを楽しみに見ていきたいと思います。

ここ2週間ほど、マサチューセッツ州ボストン市郊外にあるブランダイス大学の理事会が、付属美術館のローズ美術館を売却する方針を決定したことが、アメリカの美術界で話題となっています。

ローズ美術館は1961年に開館した大学付属美術館で、批評家であり美術史家であった初代館長のサム・ハンターが集めたロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタインなどの重要作品を含む、約6000点のコレクションを所蔵しています。コレクションの評価額は3億5000万ドルと言われています。

美術館は、もはやアドルノが言ったような作品が死蔵される墓所ではなく、作品売却(de-accession)を通してコレクションを絶えず更新する組織となっています。この作品売却は、新たな作品を購入するための資金とする限りにおいて行われるものという共通理解があるため(アメリカ美術館・博物館協会の「美術館・博物館倫理規約」にもそう定められています[第6.13項])、美術館が財政目的で作品を売却することは倫理的に問題だとされています。

今回のケースは、最近の景気後退で寄付金が減少したために、大学が付属美術館の資産そのものを転用することにしたというもので、作品売却の問題とは異なるという意見もあります。いずれにしても、ローズ美術館の経営はうまくいっており、大学は美術館の光熱費しか負担しておらず、職員の給料や展覧会の経費などは、美術館が独自に寄付金を集めることで確保していたそうです。そうした美術館の経営努力を顧みることなく、美術館とその資産の処分を一方的に決めてしまったのは、明らかに問題があります。

この理事会の決定に対する反発はかなり大きく、翌日にはボストン・グローブ紙が記事にして、その翌日にはCAA(アメリカの美術史学会)が会長名で声明を出しました。美術館を支援するウェブサイトが登場し、Facebookにグループができ、ニューヨーク・タイムズ紙の社説にも取り上げられました。2月末にLAで開かれるCAAの大会でも話題になるでしょう。アメリカの美術界は、ビジネス志向の考えに支配されていると思われがちですが、文化芸術を大切に思う信念とそれに基づく行動もまた、同じくらい力強くあります。

日本の場合は、ここまで資産的価値のある大学美術館が少ないので、公立美術館や企業美術館の売却のほうがあり得ますし、実際、長岡現代美術館の閉館時に同様の問題が起こりました。経済不況のなか、美術館が売りに出されるとき、日本でどのような議論や行動が起こるのか、あるいは起こせるのか、考えさせられる出来事でした。
このたびartscapeで藤川哲さんと一緒にブログを書くことになった加治屋健司です。これから3ヶ月間、どうぞよろしくお願いします。

このブログのことは、以前より森司さんから伺っていて、窪田研二さんや竹久侑さんのエントリーを興味深く拝見していました。今回、このすばらしい場に書くことになって、とてもうれしく思います。

私は、2007年から広島市立大学芸術学部で現代美術史を教えています。広島に来るまでは、東京、ニューヨーク、ワシントンDCなどで研究活動をしてきました。主な研究分野は、アメリカを中心とする現代美術史、美術批評史ですが、最近は日本やアジアの現代美術についても書く機会が増えてきました。日本の現代美術に関して行っている共同研究については、いずれこのブログでも紹介できればと思っています。

広島では、2007年より毎年開催されている広島アートプロジェクトに携わっています。この地域展開型のアートプロジェクトを通して、森さんをはじめ、学芸員や批評家の方々とお会いする機会ができました。折にふれてこのアートプロジェクトについても書きたいと思っていますが、ブログを担当する4月末までの間、主だった活動がないのが残念です。

これまでキュレーターの方が担当していたartscape BLOG2を藤川さんと私が引き継ぐことになったのは、少しアカデミックな視点を入れようということだと伺っています。現代美術の分野では、キュレーターや批評家、美術家の言説のほうがよく知られていて、研究者的な議論は見えにくいかと思いますが、これから3ヶ月間、このブログを通して、そうした議論を少しでも共有できればと思っています。

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