展覧会を見るにはいい季節だ。KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2025に出かけて、ついでに二条城の「アンゼルム・キーファー、ソラリス」展まで足を運んだりと、ここ1カ月余りは、けっこうあちこちと動き回っていた。一緒にKYOTOGRAPHIEを見にいった人の万歩計が1日で2万5千歩のカウントになっていてちょっと驚いた。もうじき梅雨の季節に入るので、いまのうちという気分もある。いい展示を見たあとはビールがうまい。その一杯のビールのために歩き回っているのではないかと思うこともある。
2025年3月22日(土)
1990年代から写真家/アーティストとしての活動を続けてきた花代の、集大成ともいえる展示だった。東京・恵比寿のGalerie LIBRARIE 6で開催された「箱人生」展(2025/03/08-03/23)には、「箱」がたくさん並んでいる。「箱」の中には写真とオブジェがセットされており、それぞれの物語が封じ込められていた。どの「箱」にもバックグラウンドがあり、それらはそのまま花代の「人生」のメタファーとなっているようだ。たとえば、彼女は2010年までドイツ・ベルリンに滞在していたのだが、「Ziklon B」という作品には、そこで生まれた娘とアウシュビッツで使用されたという毒薬の写真、日付入りのカレンダーなどが入っていた。「表現の自由に規制がかかっている」現在のドイツの社会状況が、そこから浮かび上がってくる。「私は箱/ただの空っぽの箱/みんなが色々詰めてくれた」というメッセージが会場に掲げられていたが、その「箱」の中身を、ひとつひとつ取り出して、もう一度見直してみようという強い思いが伝わってきた。「箱」の中身は、気持ちのいいものだけではない。だが、それこそが「人生」であり「世界」であるという実感がある。
「箱人生」展での花代[筆者撮影]
2025年3月29日(土)
福島県郡山市の希望ヶ丘プロジェクト内で、3年前からトトノエルというカフェ・ギャラリーが展示活動を続けている。東京でもギャラリー運営にかかわっていた芳賀沼智香子さんが、森山大道、村越としや、今道子らの写真展を開催してきた。今回は、1986年に閉山した宮城県の細倉鉱山と、その周辺の地域を撮影した寺崎英子の写真による「細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム」展(2025/03/23-04/30)が開催された。1941年、旧満洲生まれの寺崎は、戦後鴬沢町細倉(現・栗原市)に移り住み、父の店の手伝いをしながら暮らしていた。日本有数の鉛や亜鉛の鉱山であった細倉鉱山が閉山するにあたって、独学で写真を学び、1万1千カットに及ぶ写真を撮影する。仙台在住の写真家、小岩勉に預けられたそれらのフィルムは、2016年の寺崎の没後も整理作業が続けられ、2023年に写真文集『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』(寺崎英子写真集刊行委員会)にまとまった。顔馴染みの近所の人たちを含めて、住人たちの姿を細やかに撮影し続け、鉱山の閉山前後の状況、その後に取り壊されていく住宅地の光景なども、しっかりと捉えている。写真としてのクオリティも高く、記憶を定着するという、写真記録の意味をあらためて確認することができた。
「細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム」展示風景[筆者撮影]
2025年4月3日(木)
藤原更の花をテーマにした写真には、彼女自身のセルフポートレートという要素が含まれている。花の美しさやはかなさを捉えるだけでなく、その色彩やフォルムに託して、自らの思考や感情のうごめきを形にしようとしているのだ。今回、東京・目黒のギャラリー、ふげん社で開催された展覧会「記憶の花」(2025/03/28-04/20)では、その側面がより強調されているように感じた。本展は昨年4月~6月に名古屋のヤマザキマザック美術館で開催された大規模展の記録作品集『記憶の花』(スタンダードワークス、発売=ふげん社)の刊行に合わせたものだが、展示の中心になっていたのは、近作の「Uncovered Present」である。これまでも使ってきた顔料の剥離、ぼかしといった技法をより大胆に用いて、画像の物質性を強調している。抽象性の強いシリーズだが、逆に生々しい生命感を感じさせる作品に仕上がっている。この方向性は間違っていないと思うが、こうなると、花以外のテーマも視野に入ってきてもいいのではないだろうか。
「記憶の花」展示風景[写真提供:ふげん社]
2025年4月4日(金)
伊藤義彦が1980~90年代に発表した、コンタクトシートの一コマごとに少しずつ変化するモノや風景を写し込む写真シリーズは、コンセプチュアルな思考力と遊び心とが合体した印象深い作品だった。その彼が、前回の2022年のPGIでの個展から、写真ではなくフロッタージュによる作品を発表するようになった。フロッタージュとは、鉛筆や木炭のような筆記用具で、紙の下に置いた物体の凹凸を擦り出す技法である。今回PGIで開催された「フロッタージュ─暗室讃歌─」(2025/03/19-04/30)も、その延長上にある展示だった。モノの形や陰影を写しとるという意味では、フロッタージュも写真に通じる。だがフロッタージュには、光の明暗を印画紙のグラデーションに置き換える写真とは違った味わいがある。それでも伊藤の作品を見ていると、やはり写真家の仕事という気がしてくる。特に今回は、フィルムの切れ端のような暗室内の材料に目を向けているので、写真家の視覚体験へのオマージュという側面が強くなった。他の追随を許さないユニークな作品だ。
「フロッタージュ─暗室讃歌─」展示風景[筆者撮影]
2025年4月10日(木)
残間奈津子は2023年のPOETIC SCAPEでの個展「infinity」で、明確な中心を持たず、すべてが等価に見えるような画面構成を探求した。今回の同ギャラリーでの個展「fluctuation」(2025/03/15-04/20)では、ピントを合わせるという行為に目を向けている。ピントを合わせることによって、被写体の一部が特権化されるのだが、その背後に広がる場所はピンボケになる。だが、実際に写真をプリントしてみると、ボケの領域の方がより気になってくる。着眼点は面白いし、写真もよく撮れているのだが、花というテーマにやや問題がある気がする。ピンボケの花の写真が、どうしてもどこかで見たような既視感を引き起こしてしまうからだ。写真表現の基本条件を問い直すという実験意欲は保ちつつ、もう少し、被写体の選択の幅を広げてみてはどうだろうか。
「fluctuation」展示風景[筆者撮影]
2025年4月18日(金)
「不易流行」展(東京都写真美術館 3階展示室、2025/04/05-06/22)のような、美術館の収蔵作品を元にしたコレクション展はなかなか難しいなと思う。作品の選定に制限があるし、テーマの設定もうまくいくときとそうでもないときがある。毎年開催される東京都写真美術館のコレクション展も、回を重ねる難しさが増しているのだろうか。今回の「不易流行」展は、インターセクションという繋ぎのパートを間に挟んで、「第1室 写された女性たち 初期写真を中心に」「第2室 寄り添う」「第3室 移動の時代」「第4室 写真からきこえる音」「第5室 うつろい/昭和から平成へ」の5部で構成され、それぞれのセクションを別々の学芸員が担当していた。企画にバラエティを持たせようという意図は成功していたが、逆にセクションごとのつながりは希薄になった。むろん、東京都写真美術館のコレクションからピックアップした名作写真はたくさん展示されているのだが、作家ごとの展示点数が少なく物足りない気持ちが残る。そのなかで特に印象に残ったのは、「第2室 寄り添う」のパートに出品されていた、ウクライナ人の女性を撮影した塩崎由美子の作品「Una」である。点数も15点と多く、まさに一人の女性の生と「寄り添う」写真家の姿勢がしっかりと伝わってきた。
「不易流行」展示風景(左2点は石内都、右2点が塩崎由美子の作品)[筆者撮影]
2025年4月19日(土)
中里和人は東京・銀座のギャラリー巷房で、2~3年に一度のペースで個展を開催してきた。回を重ねるたびに、彼の写真家としての引出しの多さに驚かされる。今回の「Grey in land」(2025/04/14-04/26)は、北海道から沖縄まで、日本各地を旅するなかで見出した、灰色(グレー)の色調の建物、風景を撮影した写真の連作である。たしかに、日本の風景はグレーが基調となっていることが多い。特に沖縄でよく見られる、コンクリートのブロックを主材料とした建物などは、その灰色のグラデーションが、目に心地よく飛び込んでくる。色調だけでなく、光や気象条件によって微妙に変化していく、その物質感が丁寧に押さえられていた。一見、モノクロームの写真に見えるが、展示作品はすべてカラー写真だという。灰色もまた固有色であることに、あらためて気づかされた。
「Grey in land」展での中里和人[筆者撮影]
2025年4月24日(木)
今年も KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2025に足を運んだ。2013年にスタートした同企画は、国際的な写真フェスティバルとしての評価が年々高まりつつある。ただ、このところ企画内容にややマンネリ化のきざしが見えるようになった。今回も全体的には盛り上がりに欠けているように感じたのだが、そのなかで、京都市美術館別館で開催されていた「グラシエラ・イトゥルビデ」展(2025/04/12-05/11)が素晴らしい内容で、強く印象に残った。イトゥルビデは1942年生まれのメキシコの女性写真家で、マニュエル・アルバレス・ブラヴォに師事し、伝統と現代性とが交錯するメキシコの社会・文化の状況にカメラを向けてきた。隣り合う生の世界と死の世界、聖なるものと俗なるものの共存、男性中心の社会における女性の役割などを、直裁に描き出していくイトゥルビデの写真は、力強く、威厳に満ち、しかも被写体となる現実の細部にまで目が届いている。日本では、それほど名前が知られている写真家ではないが、以前からその仕事には個人的に注目しており、彼女の写真世界の全体像を見ることができてとても嬉しかった。ほかにも、甲斐啓二郎「骨の髄/Down to the Bone」(くろちく万蔵ビル)、リー・シェルマン&オマー・ヴィクター・ディオプ「The Anonymous Project presents Being There」(嶋䑓ギャラリー東館)など、よく練り上げられ、インスタレーションに気を配ったいい展示があった。
「グラシエラ・イトゥルビデ」展示風景[筆者撮影]
2025年4月25日(金)
KYOTOGRAPHIEの企画のなかで、この所、毎年楽しみにしているのは、堀川御池ギャラリーで開催されている「KG+SELECT」である。世界中からエントリーされた作品から、KYOTOGRAPHIEを主宰する仲西祐介とルシール・レイボーズ、さらにキュレーターの綾智佳(日本)とエレナ・ナヴァロ(メキシコ)の4人が審査して、10組の写真家を選び、サテライト展のKG +の枠で展示する。今回はフェデリコ・エストル(ウルグアイ)、リティ・セングプタ(インド)、西岡潔(日本)、ヴィノット・ヴェンカパリ(インド)、何兆南[サウス・ホー・シウナム](香港)、南川恵利(日本)、ソン・サンヒョン(韓国)、牟禮朱美(日本)、時津剛(日本)、奥田正治(日本)の10人が選ばれていた。しっかりしたコンセプトの作品が多く、展示・構成にも力が入っている。靴磨きの集団を撮影したフェデリコ・エストルの「SHINE HEROES」、パンデミックによって変容する家族関係を追ったリティ・セングプタの「Things I Can’t Say Out Loud」、子供と夫との日常をクールな視点で捉えた南川恵利の「今日も」など、見応えのある作品が目についた。この企画、今後も若手作家の表現の場として、大いに期待できそうだ。
フェデリコ・エストル「SHINE HEROES」展示風景[筆者撮影]
2025年4月29日(火・祝)
ニコンサロンで開催された小林紀晴の個展が面白かった。小林は言うまでもなく『アジアン・ジャパニーズ』(情報センター出版局、1995)の写真家である。アジアの各都市を放浪する若者たちの姿を、同世代の小林が共感をこめて描き出した写真・エッセイ集は、版を重ねてロングセラーとなった。その旅から30年以上を経て、小林は上海、重慶、バンコク、ホーチミンの4都市を訪れ「Cyber Modernity -Shanghai, Chongquing, Bangkok, Ho Chi Minh-」展(2025/04/22-05/02)を開催した。彼の前に広がる眺めは、以前とは様変わりしていた。都市の建造物からは、物質感が完全に失われ、色面がモザイク状に並置されているように見える。特に印象深いのは、巨大看板のディスプレイで、フルカラーのLEDライトに照らし出された広告群は、非現実的としか言いようがない。デジタルカメラで撮影された、のっぺりとした光景には、かつて小林がアジアの諸都市を撮影した写真から立ち上がっていた、五官を撹拌するノイズをまったく感じることができない。むしろ、その徹底した表層化が写真にうまく働いていた。この互いに似通って、区別がつかない都市の眺めは、いまや世界中に広がっているはずだ。ドキュメンタリー写真家にとって、刺激的な題材となるのではないだろうか。
「Cyber Modernity -Shanghai, Chongquing, Bangkok, Ho Chi Minh-」展での小林紀晴[筆者撮影]
2025年5月3日(土・祝)
安藤瑠美は東京藝術大学先端芸術表現科を卒業後、主に都市の建築物をテーマにした写真作品の制作・発表を続けてきた。今回、東京・駒沢大学前のe2 galleryで開催された「TOKYO NUDE」展(2025/04/19-05/04)は、同名の写真集(トゥーヴァージンズ)の出版に合わせた展覧会である。安藤のアプローチは明解で、東京を中心に都市風景を撮影し、レタッチの操作を加えて、虚構の空間として再構築していく。とはいえ、元の風景の建物や街路の質感が、かなりそのまま残っている部分もあり、小林紀晴のアジアの都市の眺めとは違って、リアル感と抽象感が絶妙にブレンドされた画面が成立していた。特徴的なのは、その色彩感覚で、相当に手を加えているにもかかわらず、全体的には、現在の東京のカラーリングが、かなり正確に再現されているように感じる。もし、ほかの都市をテーマに制作したら、かなり違った色味や質感になるのではないだろうか。タイトルの通り、むしろ手を加えたことで、東京の裸形の姿が露わになってきている。
「TOKYO NUDE」展での安藤瑠美[筆者撮影]
2025年5月8日(木)
統括アドヴァイザーとしてかかわっている雑誌『写真』(ふげん社)の第7号が刊行された、年2回発行のペースで、3年間6号まで発行した時点で、リニューアルを図ることになり準備を進めてきたのだが、それがようやく形をとったのだ。特集形式をやめ、ヴィジュアルとテキストとの関係を見直すなどによって、だいぶすっきりした誌面になったと思う。その刊行記念として、東京・目黒のふげん社のギャラリー・スペースでは、川島小鳥「サランラン/사란란」展(2025年5月8日~6月1日)(2025/05/08-06/01)が開催された。川島はこのところ、『未来ちゃん』(ナナロク社、2011)などで定着した、明るく、カワイイ写真を撮る写真家というイメージと、自分が進むべき方向とのギャップで悩んでいたという。そんな時に、韓国・ソウルに足を運ぶようになり、当地で出会った若者たちや、日本から来た女優らを街中で撮影することで、新たな方向性が見えてきた。そこで形をとった写真群が、今回展示された「サランラン」である。光と影が交錯しつつ、安らぎに包み込まれていくような展示構成に、彼の再生の思いが込められているように感じた、なお、青幻舎から同名の写真集が刊行されている。
「サランラン/사란란」展示風景[筆者撮影]
関連レビュー
藤原更『Melting Petals』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年11月15日号)
伊藤義彦「フロッタージュ─フィルムの中─」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年04月15日号)
残間奈津子「infinity」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2023年07月15日号)
中里和人写真展「光ノ漂着」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年07月01日号)