会期:
2026/02/27〜2026/03/15[アデレード・フェスティバル]
2026/02/20〜2026/03/22[アデレード・フリンジ]
会場:アデレード近郊[オーストラリア]
公式サイト:
https://www.adelaidefestival.com.au/[アデレード・フェスティバル]
https://adelaidefringe.com.au/[アデレード・フリンジ]

[アデレード視察レポート]
①:フェスティバルとフリンジ(2026年3月26日公開)
②:観劇プログラムを概観する(2026年3月27日公開)
③:LGBTQ関連プログラムから考える(前編)(2026年4月7日公開)


正直に言えば、少なくとも私が観た3つのソロパフォーマンスについては、それぞれの固有性はもちろんあったとはいえ、作品として面白かったかと言われると微妙なところだ。『My Grandpa 〜』は語りのみ、『F.A.A.G: Footballers Are A Godsend』と『Takatāpui』は歌と語りで進行するなど、形式には多少の違いがあり、前者はコメディ、後者はシリアス寄りとトーンの違いもあった。しかしそれでもパフォーマーのアイデンティティをベースにした語りであることに変わりはなく、語りの内容以上の差異を見出すことは難しかったのだ。話芸の巧みさという点では『My Grandpa 〜』がもっとも優れていたように思う。満席だった客席の反応や、最終的にThe Sydney Fringe Tour Ready Awardという賞を受賞したことからもその評価の高さは窺える。だが、私は話芸を楽しむために会場に足を運んだわけではない。

そう思っていたのだが、アデレードに滞在しさまざまなプログラムに触れるうちに私の考え方は大きく変わった。重要なのは作品の完成度や語りの巧みさ以前に、舞台が多様な個人が声を発し、自らの物語を語るための場として機能しているということだったのだ。そこでは上演は作品の提示というよりも、個人の存在や経験を観客の前に差し出す行為に近いものとしてあった。そこには個人の生を娯楽として消費するリアリティショーの危うさもあるかもしれない。だが、生身の人間を目の前にしてそれを消費することは難しい。観客は、多様な個人の声に耳を傾け、その姿を見、同じ時空間を共有するために劇場に足を運んでいるのだ。


ゲイのデュオ・サーカス『You & I』宣伝ビジュアル[筆者撮影]

私がそのことに気づいたのは、サーカス系のプログラムを複数観たことも多分に影響している。サーカス系のプログラムにLGBTQのパフォーマーが含まれていることが多いと知ったとき、私の脳裏に浮かんだのは「見世物小屋」という言葉だった。文字通りクィア=奇妙なものとして観客の視線に晒されているのであれば、LGBTQのパフォーマーが多いのは単純に喜べることではない。しかしそれは杞憂だった。繰り返しになるが、まずもってオーストラリアの観客はLGBTQをことさらに特別なものとして見てはいない。パフォーマーが特別であるとすれば、それはサーカスアーティストとしての身体や技巧ゆえなのだ。そのようなかたちで舞台上のLGBTQをまなざすことは、その存在を改めて承認し、あるいは祝福することでもあるだろう。

一方で、アイデンティティがキャラクターとして消費される危うさはサーカス系のプログラムにも付きまとっている。さまざまな制約のなかで技のバリエーションを見せるためか、サーカス系のプログラムには5人前後のグループで、ひとりずつ技を見せていく形式のものが多い。グループの構成も司会兼歌手(多くが女性)、エアリアル、ファイアパフォーマンス、フラフープなど、ある程度定番がある。サーカス系のパフォーマンスをいくつか見ていくと、それらの演目とパフォーマーのアイデンティティの順列組み合わせのようにしてプログラムが構成されていることが見えてくるのだ。

さらに言えば、言わずもがなだがほとんどのパフォーマーの肉体は鍛え上げられていて、その意味での身体的多様性は決して大きくはない。プログラムによってはコメディパートなどで鍛えられたそれとは異なる身体を舞台に乗せているものもあったが、鍛えられた身体がベースであることに変わりはない。ショーの最中にパフォーマーのジェンダーやセクシュアリティが明言されることはそれほど多くないが、それでもマッチョでボウズあるいは短髪(そしてしばしばヒゲ)のゲイというキャラクターには何度も遭遇した。これをある種のステレオタイプ、あるいはその利用と取るか、単にマッチョをベースとしたバリエーションと取るかは難しいところだろう。そもそも多様であることが前提の社会であれば、それらのキャラクターがステレオタイプとして悪い方向に作用することをそれほど心配する必要もないのかもしれない。


『Shake It』宣伝ビジュアル[筆者撮影]



『Shake It』の一幕[筆者撮影]

そう、問題は社会のあり方であり観客のあり方なのだ。日本でLGBTQ関連の舞台芸術と言えば、まずはLGBTQの人物が登場する演劇ということになるだろう。そのとき問われるのはまず第一にフィクションとしての完成度だ。だが一方で、舞台の現実の側に目を向ければ、LGBTQのパフォーマーがそれとわかるかたちでそこにいることはほとんどない。そこに立つ生身の存在を祝福する場としての舞台のあり方は、日本ではほとんど成立していないのだと言えるだろう。

だからこそ私は、2024年に世田谷パブリックシアターで上演された『饗宴/SYMPOSION』(演出・振付:橋本ロマンス)で、クィアなパフォーマーがクィアとして、クィアなままで舞台に立つ姿を見てあれほどに感動したのだ。「オープンリーゲイの劇団」である劇団フライングステージの、特に年末恒例のgaku-GAY-kaiが素晴らしいのも、劇場が舞台と客席の双方を祝福する場となり得ているからだ。あるいは近年のストリップの受容のされ方や、デモやプロテストのあり方の変化に希望を見出すこともできるだろうか。

私はこれまで、日本でもLGBTQが登場する優れた作品がもっと創られ上演されるべきであり、LGBTQの作家や俳優がそのことを隠さずに活動できる環境が実現するべきだと考え、そのための文章をいくつも書いてきた。だが、それだけではおそらく足りないのだ。いや、劇場にはまだ別の可能性があるのだと言った方がいいかもしれない。そのことに今回改めて気づかされた。足りないもの、あるいは別の可能性はクラブやプライドパレードにある。生身のLGBTQの、その存在への祝福を劇場に持ち込むこと。演劇=劇場を、そこにいる誰かの存在そのものが祝福される場として構想し直すこと。だがそのためには劇場に足を運ぶ観客の姿勢までも変革する必要がある。それは一体どうしたら可能なのだろうか。

[筆者撮影]

滞在期間:2026/02/28(土)〜03/06(金)