コンビニや銭湯、公園や空き地、人が行き交う通り(ストリート)といった日常の空間をライブやイベント、表現の場としても活用したり、より広い世代が親しめる地域の祭りや盆踊りのかたちを模索したり──。墨田区を中心に、盆踊りのプロデュースや半公共空間でのDJイベントの企画など、音楽を軸としながら地域との関係性づくりに尽力してきたスタディスト(勉強家)の岸野雄一氏と、「片手袋研究家」として路上観察の目線から研究・執筆活動を行なうかたわら、地元の谷中・根津・千駄木エリアでの地域づくりにも積極的に携わる石井公二氏。今回の「地域にアートは必要か?」ではこのお二人をゲストに、地域のなかで蓄積されてきた伝統や人のつながりを継承しながら、それらをアップデートするための方法や、継続していくために必要なものを巡る対話の記録をお届けします。
聞き手を務めるのは、地域芸術祭やまちづくりの領域で活動しながら著書『ローカルメディアのつくりかた』(学芸出版社、2016)や『危機の時代を生き延びるアートプロジェクト』(千十一編集室、2021)など地域とアートに関わる出版物を手がける編集者の影山裕樹氏です。(artscape編集部)


※本記事は、2026年2月に浅草KAMINARIで開催されたトークイベント「地域にアートは何をもたらすのか?」を一部採録・編集したものです。
※シリーズ「地域にアートは必要か?」過去記事一覧はこちら

企画・聞き手:影山裕樹(千十一編集室)
構成:芳賀真美


前編より)


「地域」ならではの柔軟性と、定義のできなさ

──先ほど「アートイベントなどを行なうときに、参加していない人のことも考える」という話が出ましたが、僕は地域において、一緒に何かを取り組む人々だけで合意を取るようなやりかたではなく、その取り組みに対し外から批判的な意見を言ってくる人の価値に気づく必要もあるんじゃないかと思っています。ズバッと客観的に言ってくれる人がいないと、内輪ノリで地域内で排除を生んだり、経済合理性に引っ張られて開発が先行してしまう問題もある。そのあたりはいかがですか。

左から、影山氏、石井氏

石井──地域のコミュニティがすでにあるなかで、批判の声を上げると周囲から疎まれるときもあるでしょう。でもそういう「“やかましい人”が持っている正しさ」もあると僕は考えています。実際に歴史を調べていくと、あのときに、あの人が声を上げてくれたからこそ、この地域が守られたんだ、という事例もたくさんあります。でもストレートに言うと若い世代の人たちは引いてしまうので、表現に工夫しながら伝えていく必要はあるのかなと思っています。

あとは、地域外の人たちからの意見も大事だと思います。以前、大学の研究で東京中の歩行者天国を調べていた学生が、僕らの町会にある藍染大通りに注目して調査に来たことがありました。うちの地域の歴史を調べたり、町会長にインタビューしたりして、最終的には歩行者天国50周年冊子作成の音頭をとるまでになりました。そのときに記念だからと、文京区長を呼んで大々的にセレモニーも開催しました。後にその学生はこの地域の住人になりましたが、当時はいわゆる外部の人でした。

でもこのときに、彼が中心となって網羅的に調査してくれたことによって、それまで町会のなかにあった古い認識が変化したりして、ある意味、革命が起きましたよね。だから、定期的に入ってくる若い人たちが、地域におけるキーパーソンになったりもしています。

岸野──それはほかの地域でもありますね。例えば僕が「地域のお祭りのリサーチをしたいです」と突然話をしに行ってもそのコミュニティに入るのは難しい。でも学生であれば、どうぞどうぞと受け入れてくれる地域は多いように思います。また、地方の話になりますが、似た傾向を持つ民俗芸能の団体が、昔、田んぼの水取り(上流から水源を引く順番)で揉めた経緯を持っていて、近くの村でいくつもの保存会に分化しているそんなときに、協働して保存に努めていきませんか? とお声がけできるのは外部の人間だけです。中の人は、相手の心中を察する手立てもないので、逆に関係が硬直してしまっている。ただし、これもお節介になってしまっては元も子もないので、まずは双方との関係作りから始め、双方のご意向をよく聞いたうえで慎重に進めなくてはなりません。こちらの思惑で勝手にはできない。

石井──それから地域とアートの話をするときに、地域の頑なさをアートがどう打ち破っていくのか、という話になりがちですが、地域ならではの柔軟性もありますよ。もちろん閉鎖性もありますが、さっきのようなイベントを面白がってすぐに実行に移せる連携の良さもある。

それから僕のなかでは、そもそも「地域」を簡単に定義できないという考えもあります。僕は片手袋の研究をしていますが、それも地域のレイヤーを可視化する存在だと思っているからです。

例えば、東京大学の構内に落ちていた片手袋。東大といえば、学生と教授の研究機関と定義されがちですが、落ちていたのは子ども用の手袋でした。これは何かと言ったら、東大構内は、学業の場であると同時に近所の人たちの憩いの場でもあるからです。こうやってひとつの場所にいろんな側面があるように、地域にも年齢や価値観、居住年数などの違いによってさまざまなレイヤーが存在しているということは、前提として知ってほしいですね。


東大構内に落ちていた片手袋[撮影:石井公二]

わかりやすく解説すれば、大抵は理解してもらえる

──そのような地域ならではの合理性や柔軟性を理解したうえで、アートはどうやって地域と融合していくのか。残念なことに(この連載でも)毎回のように同じ問題が上がってくるんですが、それは、アート側の人たちが、地域の人たちと一緒にアートを考えるのではなく、「自分たちのアートが正しい」という前提で地域に入っていくことが多いということで。この点について、お二人はどのように受け止めていますか。

石井──芸術やアートが結果的に上段から庶民の暮らしを見るスタンスに陥っている、という現状もあると思います。正直なところ、自分がやっている片手袋研究も、ともすると、日常のシーンを客観的に見て茶化しているように受け取られる可能性があるので、そこは自分でも気をつけるようにしています。

岸野さんは、いま地域でやっている活動を「アート」だと評価されることについては、どう感じていますか?

岸野──僕は自分でやっていることは、まったくアートだと思っていないです。単なる社会活動ですね。でも、アートの関係者と話すときには、「アート活動」として説明しないと伝わらないと感じるときがある。便利な言葉として「社会実装実験」などと言うときもあります。

それから、確かにアートにおける審美の基準は(一理)あると思うんですよね。それがないと、美が衰えていくという側面もあるので。これは音楽でも同じことが言えるのですが、中学生がラップトップでバックトラックを鳴らしてラップするとか、すごくいいと思う一方で、絶対的な音楽の美が存在しているのも事実です。でも、これはどちらの方がいいという話ではない。その部分を個々が自分のなかでどう考えていくか、なんですよね。

──岸野さんの活動には、個人のなかで固定化された美への評価軸を解体していく側面があると感じています。先日、2025年日本民間放送連盟賞(ラジオエンターテインメント部門)の最優秀を受賞した「岸野雄一の~民謡でヨイショ!~」は、まさにそうで。民謡の音楽的な面白さに注目して、解説されていますよね。これまでも岸野さんは幅広い音楽の解説をすることによって、多くの人の音楽に対する固定観念を変えたと思います。

★──KBS京都ラジオ「岸野雄一の地球が奏でる音めぐり」のスピンオフとして2025年5月に放送された特別番組。その後、2026年6月には第52回放送文化基金賞(ラジオ部門 奨励賞)も受賞している。

岸野──実際に、どんなこともわかりやすく解説すれば、大抵は理解してもらえると感じています。例えば、雅楽も一見難しそうに感じると思いますが、「笙の持続音は天空の動きを表わしています」、「鼓でポンとこれを断ち切ることによって、ここから景色が変わるんですよ」と聞くとなんとなく、イメージできるようになると思うんです。

石井──確かに、説明してもらうと最初は難しいと思っていたことも、案外すんなりと理解できるようになりますよね。一方、現代アートの世界は、あえて解説しない方がいいとか、好きなように受け取ってもらえばいい、という風潮もある気がします。一見、自由なようで、それでは互いへの理解は深まらない。

左から、石井氏、岸野氏

岸野──墨田区に「どんどこ! 巨大紙相撲」という、ダンボールで作った等身大の力士を土俵で戦わせるイベントがあるんですが、その主催者の方は、土俵を作ろう! となったときに、地元の大工さんを呼んで「アートとは何か」という解説を3日間かけてやっていましたね。スライドとかを使って、美術の歴史を時代を追ってすごく丁寧に説明されていました。すごく面白かったですよ。例えば「この絵に描かれてるのは、ナポレオン、キリストといった、名前が知られた人たちですね。それがこの時代からは、名もない農夫の女性が落ち葉を拾っています」から始まり「おやおや、写真のような正確な描写から、表現方法が変わってきましたね。今度は広告の絵のような表現に変わっていきました」などなど、解説していったんです。そしたら、大工さんたちが「なるほど、なんとなくアートの人たちが何を考えてるかわかった。それなら土俵作るわ」ってやってくれたんですよ。やはり、そういうことが必要なんじゃないかと思いましたね。

──それはすごく大事ですね。やはりアート側は、地域に自分たちのアートの価値観を受け入れてほしいのであれば、彼らの立場に立って丁寧に説明する責任があると感じています。でも、「じゃあ、教えてあげます。これでわかるでしょ」と上からではなく、一人ひとりと向き合って、丁寧に説明することに意味があると思います。

岸野──僕も主催者側には説明する責任があると思っています。もちろん、ざっとした概要しか説明できませんけどね。ただし、間違えてはいけないのは、地域の芸術祭で説明するときに「このアーティストはテレビでも紹介された有名なアーティストで……」とか言ってしまうこと。よくあるんですが、あれは絶対ダメです、そんなことは(目下の取り組みには)まったく関係ないですから。

石井──あとは、アート側に「わかってもらえなくてもいい」という傲慢さを感じることもあります。僕があるアーティスト・イン・レジデンスの報告会を見に行ったときに、「地域の方がアーティスト・イン・レジデンスの意味を全然理解していなくても、アーティストと仲良くしてくれたから、もうそれでいいです。達成感がありました」と話していた人がいて。いや、理解してなくてもいいんじゃなくて、最初にわかるように説明しようよ、と強く思ったんですよね。

とはいえ、僕はいつもアートと地域の中間の立場にいるので、それが一概に悪いとも言い切れない面もあります。アートにおいて、誰にもわからない自分だけの美や表現欲求を追求する自由は保証されなければいけない。だから、その表現衝動を否定したいわけではないということも、言っておきたいですね。あくまで地域との関わりにおいての話です。

丁寧に関係を結ぶことからしか始まらない

──もちろん、既存の地域コミュニティの慣習や暗黙知って、絶対ではない。少しづつ外部性を孕みながら、柔軟に変わっていくこともできる。なぜなら成功裡に安定し、長年維持されてきたシステムにはそれなりの理由があるからです。
岸野さんがこれまで地域でさまざまなプロジェクトを実践することができている理由は、何だと思いますか。実際に現場で体験してみて、地域とアートが融合するために必要なものは何でしょうか。

岸野──やはり一番大事なのは、地域との関係性の構築だと思います。どこの地域にも、それまで積み上げてきた歴史や文化がありますから、そう簡単に介入できるものではない。僕も、盆踊りのアップデートをするまでに40年かかってますから……。でも先ほど話した通り(前編参照)、地元で「コンビニDJ」を続けていたら、盆踊りのアップデートへとつながっていった。そして盆踊りを続けていたら、今度は「神社の縁日を仕切ってほしい」という話も来るようになりました。

でもこれは、単に盆踊りに有名なDJを呼んで成功させた、とかそういうことではないんですよ。旧態依然だったものを、洋楽や流行曲を使って新しくすることが目的ではないし、正直、そこを目指すと失敗すると思う。では僕たちは何をしてきたかというと、自分たちが地域でイベントを行なうときにも、地元の獅子舞やお囃子を呼んで一緒に活動してきたんです。

地域のコミュニティのなかには、まったく考え方が異なる人たちがいて、つねに何かしらの問題は起こり得ます。だけど、その解決の糸口のひとつとして、こういった地域の行事のなかで、地道な調整や共同作業をしなければならない局面があるということが大事であり、僕はそこに尊さを感じています。「地縁」と呼ばれるような、こういった地域に基づく人との連帯のしかたや、非言語的なノウハウの継承は、SNSなどでは絶対に生まれ得ない。

神社から声をかけてもらえたのも、そういう地域の文化を尊重して、共に活動してきた部分を認めてもらえたんじゃないかと感じています。そうやって普段から関係構築をしておかないと、やはり地域での活動は難しい。そういう過程があってこそ、初めて既存の方法に対して意見を出せる回路ができるんです。

それは結局、その土地に住んでいる人にしかできないのではないか、と思うかもしれませんが、そういうわけではない。地元は生活圏ですから、逆にしがらみがあって難しかったり、ほかの地域の方が行動しやすい場合もあります。

つまりは、どんな地域においても、丁寧に関係を構築することが大切だと考えています。何の関係性もできていないところに、急に「アートを持ってきました」と言っても、何の意味もないと思います。

──しっかりとした関係性を作れたところに、地域とアートが文字通り掛け算となったクリエイションは生まれてくるんだと僕も思います。岸野さんが手がけたDJの曲に合わせて自然発生的にできた盆踊りの輪は、まさにひとつの「作品」とも言えますよね。

では、最後に石井さんに片手袋研究家、そして町会のメンバーの二つの視点から、今後、地域とアートはどうあるべきか、お考えを伺えたら。

石井──僕はアート側の人間が考えている矢印が逆なんじゃないか? と思うことがあります。「アートの概念をいろんなやり方で地域の人々に知らせよう」じゃない。先ほどの岸野さんの自然発生的に起きた盆踊りからもわかるように、むしろ地域の人たちのなかにすでにある表現を「アート」という枠組みでしか理解できていないのではないか? もしかしたら、それを「アート」と呼ぶ必要すらないのかもしれない。

以前読んだ、ランドスケープ・アーキテクトの石川初さんの著書(『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い』LIXIL出版、2018)では、街の中にある植物を「造園(計画されて植えられた緑)」「園芸(個人が育てる緑)」「雑草(勝手に生えている緑)」と分類されていました。僕はこの考えを地域のアートに応用できるんじゃないかと考えていて……つまり、「計画されたアート」「個人が育むアート」「勝手に行なわれるアート」の三つです。

「計画されたアート」というのは、予算がついて、行政が設置していくパブリックアートや展覧会。「個人が育むアート」は、「芸工展」における住民の方が日々作っている巾着袋のような作品。そして「勝手に行なわれるアート」とは、意図せずに生み出されたものです。普段、片手袋研究家として路上観察をしていると、この三つ目を結構発見します。例えば、谷中から鶯谷に抜けていく道にカーブがあるんですが、そこに「鈴鹿サーキット」というステッカーが1枚貼ってあったんですよ。誰かがこのカーブをサーキットに見立てて、貼ったんでしょうね。厳密に言えば、ここに貼ってはいけないんだけれど、こんな「見立て」も含めたら、地域におけるアートの幅は思いのほか広いんじゃないかと思うんです。

でも、現状として地域の芸術祭やアートイベントを行なうときにアートの関係者が考えるのは、まだまだ「計画されたアート」がほとんどだと思います。だからもっと視野を広げて、いま挙げた三つを包括したものをアートとして捉え直していくことが、今後の地域におけるアートのあり方なんじゃないかと思います。

──アートとしての視点を持ちながら、地域に入って地元の人と一緒に取り組んでいるお二人だからこそ、気づいた視点をたくさん共有していただけたと思います。アート側はよく、「わかりえないものを知ること」の重要さを語りますが、地域側のわかりえないもの(暗黙知など)を認識しようとしていない節がある。お互いに対等に理解しあう姿勢が根づけば、もっと地域にアートが活かされる新しい時代の芸術祭や、日常的な文化芸術活動が芽吹くと思います。今日はありがとうございました。


(2026年2月収録)