artscapeレビュー

原田裕規「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」

2023年08月01日号

会期:2023/06/20~2023/07/09

日本ハワイ移民資料館[山口県]

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本からハワイへ渡り、多くがサトウキビ畑や製糖工場での過酷な労働に従事した移民。半ば忘却された彼らの生と記憶を、「声」としてどう可視化し、継承することが可能か。原田裕規の本個展で発表された映像作品「Shadowing」シリーズは、英語の音声を聞きながら復唱する学習法「シャドーイング」を戦略的に用いて、歴史や主体の多層性と重ね合わせながら、身体行為を通した記憶の継承について考えさせる、非常に秀逸な作品だった。

展示会場の日本ハワイ移民資料館は、かつて5,000人を超える島民がハワイへ渡った、山口県の周防大島にある。渡米後に成功した貿易商が建てた大正期の和洋折衷住宅に、当時の生活道具、農具、衣服、写真などの資料が展示されている。本展の主催は周防大島地人協会で、ハワイのカウアイ島との姉妹島縁組60周年を記念し、山口出身の原田に作品制作を依頼した。キュレーションは高知県立美術館主任学芸員の塚本麻莉。



日本ハワイ移民資料館(旧福元邸) [撮影:松見拓也 ]


映像作品「Shadowing」は4点で構成され、基本的に同じ構造をもつ。少年、女性、壮年期の男性らが一人ずつモニターに映り、子ども時代に寝る前に不思議な体験談を聞かせてくれた祖父の思い出、ハワイ風の鶏すき焼き「チキンヘッカ」の由来や個人的な記憶、移民が生み出した合理的な衣服「カッパダチ」の作り方などを英語で語る。だが、彼らの表情の動きはぎこちなく人工的だ。さらに非実体性を感じさせる演出が、2種類の「声」である。ハワイ在住の日系アメリカ人が読み上げる台本を、原田自身が「シャドーイング(復唱)」した音声が追いかけるように響く。映像の人物は、ハワイの日系アメリカ人をモデルに制作したCG画像であり、フェイストラッキング技術によって原田の口の動きと連動させて表情を動かしている。原田自身の「影」「分身」ともいえるアバターだ。台本は、朗読を担当した日系アメリカ人自身の思い出、周防大島出身の民俗学者・宮本常一のエッセイ、文献資料などを基に再構成されている。



原田裕規「Shadowing」(2023)


一見シンプルな映像に、さらに複雑な奥行きを与えるのが、映像に付された「日英字幕」の仕掛けである。画面に登場する人物は「一人」だが、「祖父の語った体験談」が口調を真似て入れ子構造で語られたり、子ども時代に家族と食べた「チキンヘッカ」の思い出の語りが、「どうやって代用の食材で日本の鍋料理をつくったか」という考案者の語りにスライドし、語りの主体は「私/他者」「現在/過去」の境界を曖昧に揺らぎながら往還する。ここで、「祖父」「チキンヘッカの考案者」といった「他者」「過去」の語り手のパートには、「標準的な英語/日本語」ではない字幕が付けられていることに注意したい。音声を聞きながら字幕をよく見ると、例えば「the」は「da」、「that」は「dat」、「matter」は「matta」と表記され、日本語話者には難しい子音の発音が訛ったり脱落していることに気づく。これらは、移民の母語と英語が接触してできた混成語「ピジン英語」である(対応する日本語字幕は山陽地方の方言になっている)。



[撮影:松見拓也 ]


ここで、「シャドーイング」すなわち「声をなぞる」という行為は、本作を多重的な意味へと拡げていく。まず、「英語の発音を追いかけて反復する学習法」という第一義的な意味は、移民1世たちの英語習得過程そのものを示す。そして、祖父母の代になった彼らが話すピジン英語の訛りが、「子ども時代の記憶」として、3世さらには4世によって語られ直され、「現在語られる正しい英語の発音」のなかに残響のように響き続ける。それは、祖先や先人たちの影を追う「ピジン英語のシャドーイング」という形の記憶の継承だ。実際の日系人の声を通して、ひとつの語りのなかに複数の言語と世代が混じり合う。さらにその語りを、日本語訛りの英語で原田がシャドーイングする。それは、輪郭線が曖昧に重なり合った、聴きとりにくい声だ。だが、現在の日本社会で半ば忘れられて亡霊化した日系移民の記憶を現在に継承することは、こうした複数の声と主体が混じり合う語りによってこそ可能なのではないか。「単一の声」ではないこと。それは、「ハワイ移民の生と記憶」が、ひとつの明確な声に集約できない複雑さとともにあることの示唆でもある。



[撮影:松見拓也 ]


そして、「英語字幕をわざわざ併記する」仕掛けにより、映像を見る私もまた、「注意深く英語音声を聞く」ことを余儀なくされ、「頭の中でのシャドーイング」を始めている。あなたの声もここに重ねてほしい、という要請。もしくは、あなたの声も重ねて良いのだ、という承認。「影としてのアバター」は、移民1世、その子孫たち、原田と無数の他者を受け入れながら「記憶の継承の器」となり、その末端には鑑賞者自身も連なっていくのだ。

「他者の声をなぞることで記憶を継承する」試みは、例えば山城知佳子の映像作品《あなたの声は私の喉を通った》(2009)と共通する。サイパン戦の生存者の老人の証言を、山城がなぞり直すこの作品では、あくまで「老人と山城」という「一対一の関係」に閉じられていた。一方、原田作品では、アバターすなわち実体のない亡霊的存在が、「声の分有を通した記憶の継承」のための装置として効果的に機能する。

「影」はまた、自分自身の身体から切り離せない存在でもある。自分がどこへ行こうとも、身体の後ろにくっついてくる「影」。それは、移民自身が属していた文化、言語、共同体、記憶といったアイデンティティを形づくるもののメタファーでもある。故郷の生活様式を保ちつつ現地の風土に合わせて変容していく「料理」や「衣服」についての語りはその一例を示す。

そして、語りと展示空間の相関性も本展の大きなポイントである。料理の語りはハワイで使用された調理道具やストーブが展示された台所で、衣服の語りはハワイから持ち帰った洋服やトランクが展示された衣裳部屋のような部屋で展開される。生活道具で満ちた空間が、「もう一つの声」として立ち上がる(語りと空間の相関性が立ち上げる磁場は、例えば、出撃前の特攻隊員が泊まった元料理旅館を舞台に、隊員たちの遺書、戦争イデオロギーを思想的に支えた京都学派、文化人が担ったプロパガンダについての重層的な語りが展開するホー・ツーニェンの映像作品《旅館アポリア》[2019]とも共通する)。



[撮影:松見拓也 ]



[撮影:松見拓也 ]


日本ハワイ移民資料館は、モノや文字資料は溢れているが、(シアターコーナーの映像の一部をのぞき)日系移民自身の語る声の展示はない。そうした「肉声の不在」を補完する役割ももつ本展は、「原田裕規というアーティストの個展」ではあるが、常設化がふさわしいと思われる意義をもっていた。

原田はこれまで、収集した膨大なアマチュア写真を素材に、写真それ自体には写らない無数の亡霊的存在──撮影者、現像業者、写真に眼差しを注いだ者、「ファウンドフォト」として作品化するアーティスト、それを展示するキュレーターなど──を示唆するシリーズ「心霊写真」を展開してきた。本展では、「匿名的な無数の亡霊的他者」が「ハワイ移民」としてひとつの焦点を結んだといえる。

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