会期:2026/06/18~2026/09/21
会場:東京都写真美術館[東京都]
公式サイト:https://topmuseum.jp/exhibition/5417/

日本におけるビデオアートとフェミニズム・アートの先駆者である出光真子は、娘・妻・母という役割がいかに女性へ割り当てられ、家族やマスメディア、社会制度を通じて差別が内面化されていくかを映像によって解剖してきた作家である。家庭という私的空間に潜む歪みを捉え直し個人の身体や欲望を規定する権力を露出させる映像作品群。東京都写真美術館での大規模回顧展では、出光の映像作家としての活動の軌跡を辿ることができる。


会場風景[筆者撮影]

出光の出発点は1960年代後半のアメリカ生活にある。ニューヨークへ留学し、抽象表現主義のサム・フランシスと結婚して二児の母となった出光は、言語の壁のなかで言葉に代わる自己表現として映像を手にする。UCLAのエクステンション講座で8ミリ映画を学び、同時期にアメリカでウーマン・リブに触れながら、1972年にはジュディ・シカゴやミリアム・シャピロらによるウーマンハウスを撮影している。家庭を創作と政治の双方が交差する場所と捉える視点は、女性を従属的な役割へ閉じ込める社会構造の批判としてその後の実践にも一貫して受け継がれている。

展示の冒頭を飾る《主婦の一日》(1977)は、出光を代表する入れ子状の映像構造が明確に表われた作品である。家事労働に追われる主婦を演じる出光を画面内に置かれたテレビモニターの眼が絶えず見つめる映像は、均質な家族像を流通させるマスメディアによるイメージと外部から女性に向けられてきた規範的な眼差しを物質的に表わし、妻や母としての役割を自身に内面化する、内なる構造的な目線を露呈する。出光興産の創業者一族という特権的かつ家父長制的な環境に生まれた出光にとって、家庭という主題は抽象的な社会問題ではなく、自身の内外を貫く現実そのものである。性別による役割分業が明確な家父長制的環境のなかで、ビデオという新しいメディアを手に取り、家庭を内側から解剖していく。夫から息子へと欲望の対象を移しながら、息子を私物化する母親を描いた《やすしの結婚》(1986)は、抑圧された女性が、自ら家父長制を内面化し、やがて構造を再生産する加害的な主体になり得るというパラドックスを示す。

さらに、長姉・出光孝子の半生を下敷きにした《清子の場合》(1989)や、家事と労働に追われ、自身の創作を男性の権威特権によって妨げられる女性芸術家の不遇を描いた《加恵、女の子でしょ!》(1996)は、ジェンダーによる役割分業が家庭内にとどまらず、芸術という制度の内部にも根を下ろしている事実を露呈している。そこからは著名画家との結婚を経てアーティストになった出光自身の切実な日々が透けて見える。また本作であえて流用されるメロドラマのような過剰な語法——大げなBGM、カットの切り替え、感情的な編集作法——は、マスメディアによって再生産され、均質的に描かれる女性の表象を、映像メディアを通して倒錯的に批判するものである。《アニムス パート 2》(1982)でも、ネオダダの岸本清子の身体的なパフォーマンスを通して、女性の内部に想定された男性的な存在が異質な像として不気味に立ち現われる。

女性差別を痛烈に批判する出光の作品群を辿ると、制度への批判と同じくらい、女性の身体を役割や属性へと還元する記号化に抗う、生々しい身体感覚に目が向けられる。《Baby Variation》(1974)や《Something Within Me》(1975)では、ポップアートのような色彩で着色された生肉や、蠢くカタツムリといった触覚的なイメージが連鎖し、記号化から逸脱しようとする生理感覚や身体が軽快に躍動する。出光にとって最初のビデオ作品となった《おんなのさくひん》(1973)で映される使用済みの生理用品もまた、隠蔽されてきた身体の痕跡を美的対象へと引き上げ、規範化されない視点を差し出すものである。

本展の副題に掲げられた「ある映像作家の自伝」とは、自身を形づくった家族、制度、そしてメディアの統治構造を解体し、そのなかに生きる身体経験を映像を通して編み直すことでもある。私的空間の内部にカメラを持ち込み、娘・妻・母という役割を生み出す視線や欲望を可視化することで、出光は個人的な身体経験を社会的な権力の問題へと開いていく。そうした構造批判を往還する映像のあり方に出光真子の作品がもつ唯一性がある。


会場風景[筆者撮影]

鑑賞日:2026/07/04(土)