折笠良(おりかさ・りょう)、大城夏紀(おおしろ・なつき)、松元悠(まつもと・はるか)の3名による「なぞる。」をテーマにした展覧会が太田市美術館・図書館で開催されている。作家に共通するのは、言葉や文字などの情報をもとに表現していること。それぞれの展示について、企画を担当した矢ヶ﨑結花氏が解説する。(artscape編集部)
太田市美術館・図書館では、2026年7月18日〜9月6日の会期で「本と美術の展覧会vol.6 なぞる。」を開催中だ。「本と美術の展覧会」は、当館が図書館と美術館の複合施設であることにちなみ、本と美術、言葉とイメージとの関係に焦点を当てた展覧会シリーズで、開館当初から開催し今回で6回目となる。これまで、絵本原画、絵画と文学、詩とデザイン、絵画とエディトリアルデザイン、本の形状をした作品と版画、絵本作家による絵本原画と美術作品の併置などを展覧会にしてきた。その第6回目のテーマは「なぞる。」だ。具体的には、3名の作家による「言葉を読むことで生み出された作品」の展覧会と説明している。
展覧会冒頭[写真:吉江淳]
「なぞる。」について
「言葉を読むことで生み出された作品」による展覧会を、なぜ「なぞる。」と名付けたのか。本稿では最初にこのことに触れたのち、展示作品をご紹介したい。
冒頭でも触れたように「本と美術の展覧会」シリーズは、今回で6回目である。各展覧会では、例えば、言葉と絵との相互作用による絵本の世界であったり、詩を空間に住まわせる文学とデザインとの展開であったり、文字の居場所である本の形状をした美術作品に着目したりしてきた。これらの例において、最後の本の形状をした美術作品への着目は言葉との関係を直接的に示すことがなかったが、それ以外は基本的には言葉とイメージとのまじわりを空間に展(ひろ)げることが展覧会の主軸になっていたといえるだろう。本展でも、この両者の関係性に眼差しを向けている。ではそれがなぜ「なぞる。」なのか。
言葉とイメージとの関係性のなかでも、今回の展覧会は、作家が言葉と出会い、解釈することによりイメージを生み出した作品で構成している。それは、機能面だけで見たときの狭義の「デザイン」のような、言葉と形態が主従関係にあると考えられるものではなく、言葉と形態的な表現が対等な関係にある作品である。
そのような作品を紹介するための言葉を探していたときに考えついたのが「なぞる。」だ。人がある言葉、文字列に出会い、解釈し、異なるメディアで表現すること、再び語ることを「なぞる。」と言い表わすことができるのではないか、と考えた。

本展メインビジュアル [デザイン:斉藤紀久美]
まずこの「なぞる」という言葉がどのような意味をもつのかを見てみよう。「なぞる」とは、辞書では「①すでに書いてある文字や図形などの上をたどって書く。なする。などる。②そっくりまねる」★1とされている。この定義から連想される身近な事例は、子ども用語学ドリルだろう。ひらがな、カタカナ、アルファベット、漢字……。うすく書かれたお手本をなぞることで文字の書き順や形を習い、その構成を身体で覚える。
しかしその一方で、人が手でなぞる行為には、個人差はあれど、そこにはずれが生じる。語学ドリルの学習において、お手本をきれいになぞる場合もあれば、大幅にずれつつも形を維持する場合もある。人がものをなぞるとき、そこにはそっくりまねても同一にはならない、むしろ、なぞることによって“ずれ”=二重性を顕在化させることができる、という逆説が内包されている。
具体的に言ってみれば、「あ」あるいは「山」という文字を学ぶとき、その形をなぞりながら体得しつつ、読み方、意味、活用方法をも身につける。そうして身につけた文字や言葉は、お手本の形から微妙に、もしくは大幅にずれ、個々人特有の形になりながらも、「あ」あるいは「山」であり続けて人々に活用されていく。この、「なぞる」の延長線上にある、対象を自身に落とし込み、活用・展開していくさまと、各作家の制作行為を併せ見て、本展出品作品を包括する言葉に採用した。
本展は3名の作家による作品で構成されている。展示室1に折笠良と大城夏紀、展示室1から展示室2をつなぐスロープ壁面に大城夏紀、展示室2に松元悠の作品をそれぞれ展示し、展示室3では大城夏紀によるセルフ・ワークショップに会期中だれでも参加できるようになっている。
言葉をなぞる──折笠良のアニメーション《落書》
折笠良《落書》展示風景[写真:吉江淳]
折笠良(1986–)は、文学作品や音楽を題材に、多様な表現技法でアニメーション作品を発表している。書かれた文字とその表情、単語のもつ意味やそこから想起されるイメージ、声に出したときのリズムや抑揚、言葉の背景などを丹念に読み込み、作品ごとに技法を選択、考案して映像に結実させてきた。2011年に発表した《Scripta volant》以降、これまで8本のアニメーションを発表している。ラテン語で「書かれた言葉が飛び去る」を意味する《Scripta volant》はオスカー・ワイルドの童話「幸福な王子」を題材にしており、以後、石原吉郎や萩原朔太郎の詩、ロラン・バルトやアンリ・ミショーの文章、環ROYやコーネリアスの音楽に対して、言葉や文字を主題としたアニメーション表現を実践してきた。
本展の出品作で、柳井イニシアティブによる現代日本文学とアニメーションのコラボレーション企画「文学ビデオ」のひとつである《落書》は、高柳誠の詩「落書」(1999)を著者本人が朗読、折笠がアニメーションを制作し、滝野ますみが音響を担当している。ボードや立体造形物に、ジェッソと呼ばれる絵画の地塗り剤(画面の下地を作る画材)を用いた立体的な表現と、紙に鉛筆、ペン、ジェッソを用いた平面的な表現を併用し、ストップモーション技法で作品化している。
本展では、構想段階のドローイングと、実際に撮影で使用された原画やオブジェが展示され、折笠の手による仕事を間近で見ることができる。アニメーション冒頭付近で登場する、発生したばかりの落書の原画は、何度も塗り重ねられた痕跡が起伏のある厚みとなって現われ、朗読される詩にあるように「つやつやと光っている」のも見てとれる。また、詩の各章を正方形にレイアウトし、漢字周辺と句読点の部分を立体造形にして町に見立てたオブジェは、流れを追って見ていくと文字が徐々に変化していく様子がわかる。アニメーションのなかで動いていく落書と、空間に位置を得た落書の双方を、ぜひじっくりと時間をかけて見ていただきたい。
折笠良《『落書』オブジェ(1)》(部分)[写真:吉江淳]
情景を形、模様、色でなぞる──大城夏紀が古典文学から見る景色

大城夏紀《あかねさす 1》《あかねさす 3》展示風景[写真:西山功一]
大城夏紀(1985–)は、古典文学などから積極的に情景(=風景とそれを見た人の心の動き)を読み取り、その情景に焦点を当てて作品に仕立てる。大城がこれまでに手掛けてきた作品には、日本およびヨーロッパの庭園に関係する作品、東西の古典文学に想を得て制作された作品があるが、今回は、『万葉集』(8世紀ごろ成立)の和歌および古代ギリシアの詩人サッポー(Sappho、紀元前610頃–580頃)の詩の断片を題材にした新作により構成されている。
制作は次のような過程で進められる。まず、千年以上前のはるか昔の人々が作った詩歌とそれに関連する論文などを読み、詩歌にどのような情景が託されているのかを想像する。その想像を最初に抽象的なイメージドローイングにし、さらに具象的な図像(鳥や鹿などの動物、花や竹などの植物など)による模様にする。鉛筆などで図像を描き、それをパソコンに取り込み、組み合わせて模様のパターンが作られる。この模様が、題材である詩歌の型となるのだ。続いて、その情景の空間的な側面を想像していく。広いのか狭いのか、あるいは動的なのか静的なのか、直線的なのか曲線的なのか……。こうした多視点的な想像をしながら、型である模様に加えて、形、色の選択が行なわれる。そうして選択された要素によって、作品は、1個にとどまらず、複数個にわたって展開され、要素がつながり合いながら空間を構成していく。
具体的に作品を見ていこう。上の写真にある「あかねさす」シリーズは額田王の和歌「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(『万葉集』、巻1〜20)を題材としている。手前の2段重ねのオブジェにある、途中でクロスするラインが最初のイメージドローイングで生まれた、和歌における野の広がりなどを抽象化した図形。その隣の壁状のオブジェにある模様が「あかねさす」シリーズの型。ほととぎすや松の枝により模様が構成されている。奥の壁面に掛かっているのが、同シリーズの《あかねさす 3》だ。
作品は、展開していくことで観る人のイメージを揺さぶっていく。大城はこのような制作行為を、日本庭園における枯山水のように、水を用いずに水のある風景を見立てて表現することと共通性があると語る。詩歌を読み、そこに見た情景を、形や模様、色でなぞり、見立てるのだ。
本展ではそうした大城の制作方法を、ごく簡易的にではあるが、体験を通して知ることができる。大城がこれまでに制作してきた模様を彫刻した木型と、詩歌、そして色鉛筆を使って、詩歌に読み取ったイメージをフロッタージュ(擦り出し)で作品にするセルフ・ワークショップだ。書かれた文字を読み、そこに何を見るのか、実際に体験しながら考えてみていただきたい。
大城夏紀 セルフ・ワークショップ「詩歌をよむ 色とことばのフロッタージュ」[写真:吉江淳]
なぞって結ぶ、出来事との関係──松元悠の報道との向き合い方
松元悠 展示風景。壁面にリトグラフ、その向かい側に1〜3ページの短編漫画が展示されている。漫画の下部には松元による日記のようなメモも付属されている[写真:吉江淳]
折笠や大城が文学作品を題材にしているのに対して、松元悠(1993–)が題材とするのは、主に出来事の報道だ。松元は2021年より関西をベースに法廷画家としても活動しつつ、実際にあった事件や出来事の顛末をたどることでイメージを生み出し、そこに出来事の当事者の代わりに自画像を挿入したリトグラフなどを発表している。情報を自らの身体を通してなぞり、現実と非現実(妄想)とが混在する作品は、一見不可解に思えるかもしれない。しかし、彼女の制作の道程を知ることで、一部の言葉や映像を切り取られ、センセーショナルに社会に流布される報道の刹那性、消費性から一歩踏み出し、一個人として出来事と関係を結ぶ態度が、その不可解に思えるリトグラフに結晶化されていることに気づくだろう。
本展での展示は、リトグラフ、短編漫画、そして日記のようなメモによって構成されている。筆者は先に、松元は制作において「情報を自らの身体を通してなぞる」と書いた。これを具体的に言えば、本展展示作品のすべてではないが、報道された情報を手掛かりに事件現場に行き、現地の風景とそこでめぐらせた妄想とをミックスしてリトグラフの絵を作る、ということだ。現場では、当事者が見ていたであろう日常風景を「見て」、そこでの当事者たちの姿を妄想して「みる」。リトグラフの制作に至るまでに“みたもの”が、短編漫画にまとめられている。
松元悠《アウトリーチ(長浜市)》短編漫画[写真:吉江淳]
例えば、《アウトリーチ(長浜市)》というリトグラフの漫画は3ページで構成されている。ある成人式の日、松元は事件現場に足を運ぶ。白くて丸々としたキャラクターは松元自身だ。晴れ着姿の新成人や、小さな二つの雪だるま。松元が道中で見たものが描かれていくなかで、足元に髪の毛の束が雪にまみれて落ちている。ページが変わって、自転車に乗って移動する男性の姿が描かれていく。同じく雪が積もっているようであり、雪かきをする人もいる。3ページ目の冒頭には「おかえり 〇〇さん」と呼びかけられていることから、男性が自宅付近に到着したことが想像される。
この男性は事件の犯人なのか、そもそもこの事件はどんな事件なのか、漫画にも漫画の下部についている日記のようなメモにも明記されていない。タイトルは《アウトリーチ(長浜市)》。この地名を検索したら、事件の手掛かりがつかめるかもしれない。しかし、作品それ自体においては、どのような事件であり、描かれている人たちがどのような立場なのかは、私たち見る人に委ねられている。
松元は、作品のタイトルに具体的な事件の名称を示さない。倫理的な観点はもちろんあるが、事件や出来事を簡潔に言い表わして、わかった気になるということを避けているようにも見える。報道されるのは耳目を引く事件のごく一部であるが、その背景には当事者の人生があり、生活がある。報道されたその情報に隠れた部分を、作家は現地に行き、自身の目で見て考える。その過程が、漫画にまとめられているのだ。
本作で言えば、3ページの漫画の中で、松元が実際に見た光景で構成されているのは、1ページ目だけで、2、3ページ目は松元が現場で見た風景と自身の妄想とを混在させて描いている。B1サイズに拡大された漫画のコマをよく見てみてほしい。コマを区画する枠線に違いがあるのだ。くっきりとした線で描かれたコマには松元が実際に見た光景が、焦点が合っていないようなぼんやりとした線で描かれたコマには、松元の妄想が織り交ぜられて描かれている。漫画に描かれたこうした過程を経て、最終的に、出来事と松元の視点とが重ねられ、版画に結実するのだ。
情報の受け手である私たちは、事件の全貌を知ることはできない。けれど、報道される断片的な言葉やイメージをなぞるだけでなく、その先にいる当事者を思うこともできる、ということを松元の作品は示している。
終わりに──言葉を読むことで見えるものとは
読まれた言葉は、どんな色で身を包み、どんな姿に変身するだろうか。人は読書をしているとき、頭にどのようなイメージが浮かんでいるだろうか。言葉や文字に託された何かが受け取られ、展開されているさまを本展にてご覧いただき、言葉のもつ想像/創造性に思いを寄せていただければ幸いである。
★1──『広辞苑 第7版』岩波書店、2018年、2173頁。
「本と美術の展覧会vol.6 なぞる。」
会期:2026年07月18日(土)~2026年09月06日(日)
会場:太田市美術館・図書館(群馬県太田市東本町16番地30)
公式サイト:https://www.artmuseumlibraryota.jp/post_artmuseum/193199.html