
会期:2026/07/02~2026/07/05
会場:一心寺 南会所[大阪府]
公式サイト:https://hmp-theater.com/work/kanidenka/
リーディング公演は、「本公演のための試演会」「低予算でも可能な簡易版」と思われがちだ。だが、大がかりな舞台セットや音響、照明、衣装などの演出で色を付けられない分、「声に出して読む」という戯曲の本質が抽出され、戯曲自体の構造がクリアに浮かび上がる。とりわけ、リフレインのリズム感、アンサンブルによる音楽的リズムの増幅、居酒屋のメニューや街中の看板など「演劇の台詞として書かれたものではない言葉」を戯曲に取り込む手法が駆使されている場合、「リーディング」という形式の意義や魅力が際立つ。
リーディング公演『KANIDENKA』は、維新派を主宰した松本雄吉の没後10年を契機とし、大阪を拠点とする劇団、エイチエムピー・シアターカンパニーが企画した。構成・演出は、同カンパニーの俳優で、維新派に一時在籍していた髙安美帆。松本は1970年に「日本維新派」を結成し、1987年に「維新派」と改称した後、1991年の『少年街』にて「ヂャンヂャン☆オペラ」という独自のスタイルを確立した。劇団員自らが巨大な野外劇場を建設・解体し、5拍子や7拍子のリズムに乗せて大阪弁で語るのが特徴である。名称は、活動拠点の大阪にある、通天閣で知られる下町「新世界」にあるジャンジャン横丁から取られている。
1984年初演の『蟹殿下』は、初期の日本維新派時代から独自のスタイルを確立するまでの過渡期にある作品だが、原点といえる要素が多く詰まっている。例えば、「淡路島」「小豆島」「豊島」「直島」と羅列される島の名前が、瀬戸内海から九州南端へと抜け、奄美大島、沖縄島、宮古島、そしてパラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島など大日本帝国時代に委任統治領となった南洋諸島を含む島々へと続いていくシーンは、後の代表作『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』(2010)を既に内包している。戯曲は『維新派・松本雄吉 1946~1970~2016』(リトルモア、2018)に収録。
「蟹殿下」と宛名が書かれた巨大な封筒が地面から出現して始まる『蟹殿下』には、明確なストーリーはない。ジャンジャン横丁に迷い込んだ蟹(=酔っ払った放浪の男)が、「親愛なる路地の殿下へ……」と呼びかける女たちの声に誘われ、飲み屋街から路地を抜けて南港の海まで歩いていく旅が、さまざまな情景や言葉のコラージュとして描かれる。南港フェリーターミナル広場での初演時には、更地に碁盤の目の溝を掘り、その上に板と土をかぶせて再び更地に見えるようにした仮設劇場を建設。作中に頻出する「穴」「マンホール」のように出演者が地中から出入りし、クライマックスではクレーンに吊り下げた巨大な月が昇る演出がなされた。また、ト書きでの情景描写に加え、記録写真を見ると、ふんどし一丁の出演者が金粉ショーを披露するなど、ビジュアル要素の強い上演であったことがわかる。この戯曲を、ビジュアルに頼らずに、俳優の声によってどう立ち上げることができるか。

[撮影:井上和嘉]
リーディング公演で強く感じたのは、演劇として都市の路上へ眼差しを向けること、そして異なるレンズの使用によって視野や解像度の違いが浮かび上がる点だ。本作では、鳥の目のように俯瞰する視線と、虫のように地べたを這う視線が同居する。「通天閣の向こうがわは?」「ジャンジャン横丁」「ジャンジャン横丁の向こうがわは?」「まちだ胃腸病院」「まちだ胃腸病院の向こうがわは?」「てんのじ村」と続く問答は、娯楽施設、学校、橋、変電所、貯木場と街中のランドマークを点と点でつなぎながら飛び越え、南港フェリー埠頭に着地する。そこから先に広がるのは、淡路島から瀬戸内海を越え、太平洋へと果てしなくつながる島の数々だ。一方、本作のキーワードのひとつが、「蟹」と「亀」という、海を生まれ故郷とし、地べたをのろのろと這う生き物だ。ジャンジャン横丁で酔っ払った男は、路地に迷い込んだ亀を見つけ、「かわいそうになあ、よーし、俺が連れて帰ったる、海まで連れて行ったる、まかしとけ、ジャンジャン横丁案内して、海まで連れて行ったる、(略)ちょっと酔うてはおるけどなあ、海まで行く道はよう知っとんのや」と掌に載せる。社会から「虫けら」のように踏み潰され、除け者にされる存在どうしの人情と、頼りなさや情けなさ。また、ト書きでは終盤、路地を放浪する男たちが体を寄せ合うと、頭の被り物が亀の甲羅に変容し、吹き上がる水しぶきのなか、ゆっくりと海へ向かって歩いていく。
また、路地の点描のシーンでは、「ビール大三八〇エン」「エビフライ三八〇エン」「冷ヤッコ一〇〇エン」といった壁のメニュー、「権利金保証金なし」のアパートの張り紙や街中の看板の文字が読み上げられる。「演劇の台詞」として書かれたものではないが、注文の際、声に出して読まれる言葉。酒や娯楽、宿を探し求めて路上を歩く人々に呼びかける看板の文字。街中には潜在的な演劇の台詞が膨大に存在している。松本の視線は、街を歩きながらそれらを収集し、コラージュする。再開発や観光地化でもう存在しない街並みを、断片的な言葉として収集・保存する、アーカイブとしての戯曲がここに立ち上がる。複数の道が交差する都市の路上はまた、直線的な一筋の道で物語化することへの抵抗ともなる。また、本作は、ヴァルター・ベンヤミンが『パサージュ論』で提示した、近代都市の消費空間をそぞろ歩く「遊歩者」のバリエーション(大阪の下町バージョン)ともいえるだろう。

[撮影:井上和嘉]
戯曲ではただの情報や文字の羅列だったものが、複数の声で読まれ、時にアンサンブルとして共鳴することで、立体的な音響として世界が実体的に立ち上がる。円環状に並ぶ俳優たちの間を、リフレインの台詞が順番に連なることで、言葉が渦を巻くようなループ構造が出現する。特に、クライマックスに配置された「スズメ啼ケ啼ケ、スズメ啼ケ啼ケ、千匹啼ケ万匹啼ケ、千匹啼ケ万匹啼ケ」「セミ啼ケ啼ケ、セミ啼ケ啼ケ、千匹啼ケ万匹啼ケ、千匹啼ケ万匹啼ケ」「カモメ啼ケ啼ケ、カモメ啼ケ啼ケ、千匹啼ケ万匹啼ケ、千匹啼ケ万匹啼ケ」というリフレインは、複数人で同じリズムを刻んで読むことで、身体運動を伴った集団的な祝祭へと高揚していく。海へ向かう行進から、ビートに乗るように体を揺らす集団へ。マラソンランナーや暴走族といった都市の通過者がそこに交差する。「夜明ケマデ、アト何時間? ドウゾ」「夜明ケマデ、アト三〇分、ドウゾ」、「夜明ケマデ、アト何分? ドウゾ」「夜明ケマデ、アト三分、ドウゾ」、「夜明ケマデ、アト何分? ドウゾ」「夜明ケマデ、アト五〇秒、ドウゾ」という通信兵たちが執拗に繰り返すリフレインは、終幕までの時間、「遊び」の時間の終わりを告げるカウントダウンでもある。

[撮影:井上和嘉]
一方、本作では、ジェンダーの対称性が(「男たち」「女たち」という集団性と匿名化によっても)極めて明瞭に引かれている構造も浮かび上がる。男たちは、野良犬のように路地を放浪するが、女たちは、「赤いカフェ」「青いカフェ」「桃色のカフェ」と色とりどりのネオンで名指された場所(風俗街)に固定されて動けない。また、「青いカフェの女」は、「あなた、ゲイジュツはもうやめてください」と繰り返し懇願する。「自分を慕って待ち続ける女を振り切ってこそ、男は世俗と隔絶した芸術家になれる」という特権的な芸術家像がここに露呈する。さらには、「女」は芸術家にはなれず、「男=孤独にさすらう芸術家」をいつまでも待ち続け、優しく抱きしめてくれる存在として描写するジェンダー観も明らかだ。
ビジュアルの要素が強い舞台だからこそ、俳優の声によって戯曲の構造に解像度を上げて迫ることができる。リーディング公演の可能性を提示してくれる機会だった。
鑑賞日:2026/07/05(日)
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