会期:2026/07/15~07/26
会場:HAGISO[東京都]
公式サイト:https://hagiso.com/hagiart_202607_nishimura/

 

推しが結婚して離婚して、我々も人生重ねたなーって思ったんだよね ★1

三宅香帆は『推したちとどう生きるか』(新潮社、2026)の書き出しを、このような何気ない友人との会話から始めている。「推し」とは当人にとって特別に支持したいアイドルやフィクションのキャラクターなどのことを指し、それが実際の行為として表現された場合、「推し活」とも呼ばれる。これは握手会のためにCDを大量に購入するAKB48のファンたちの行動などに関連付けられ、「推し」は消費社会論や若者論の観点から、今日までさまざまな言説が紡がれてきた。

この7月に出版された三宅の著作は、そのような「推し」がいまや「一緒に生きていく」存在であると同時に、現代人のメンタルヘルスを司る存在であるからこそ書かれたものだ。もちろん人によって依存度の濃淡はあるし、「推し」をめぐってネガティブな指摘が行なわれることもある。しかし一時の消費ではなく、今や「推し」は私たちの人生や社会を説明するためのキーワードとしてすっかり定着しているのだ。

そんな時勢のなか開催されたのが、西村梨緒葉の個展「推せうるきみよ ose uru kimi yo」である。会場構成はシンプルなインスタレーションだ。壁にはクロスが貼られ、そのうちひとつの面にはワインレッドのカーテンが掛けられている。そのはざまの床に接する部分に小さな穴があけられており、そこから動物の手を思わせる物体がはみ出している。西村は個展に先駆けてSNS上で「着ぐるみ(腕のみ)のキャスト★2」を募集しており、それを事前に目にしていた私は、このファーのなかに人の手が入っていることはすぐに理解できた。会場内にはおよそ1時間ごとに分けられたシフトの割り振りが出勤表として掲示されている。床面はカーペットが敷かれており、靴を脱いでこの「着ぐるみ」に触れたり、「接客」に勤しむ西村と会話をしながら私はこの作品を体験した。

西村梨緒葉「推せうるきみよ ose uru kimi yo」[筆者撮影]

そもそも私たちが何かを「推す」とはどのようなことなのだろうか。ベン・パーは『アテンション 「注目」で人を動かす7つの新戦略』(飛鳥新社、2016)において、アテンションを「即時」「短期」「長期」の3段階に分けているが、「長期」のアテンションを獲得した例として、AKB48のメンバーとファンの「パラソーシャル関係」をあげている。これは疑似的な社交関係のことで一方通行ではあるものの、アイドルの振る舞いからファンに親しみを感じさせることにより生じるものとして説明されている。そしてそれを確固たるものにするのが、物品などの「外的報酬」と、満足感や感情などの「内的報酬」である。パーは同書において、これらふたつに大別される「報酬トリガー」の重要性を指摘している。

AKB48のこうした関係性構築は「推し」を解説する言説の中でも必ずといっていいほど参照されており、その意味でこのパラソーシャル関係と報酬トリガーは、「推す」という行為においてなくてはならない重要な要件だと見なせる。では今回西村が制作した「着ぐるみ」は、果たしてそれを満たしているのであろうか。この点を掘り下げるために考えてみたいのは、作者が今回の展示におけるファーの作り物を「着ぐるみ」と称していることである。

鑑賞者からは数十センチ分しか見ることができないが、西村によるとこの「着ぐるみ」は、キャストが腕を入れる部分しか制作されていないとのことだ。ゆえにこの制作物は正確には「ギニョール」と言うべきものだろう。ギニョールとはフランスの伝統的な手袋人形のことで、意味としてはパペットとほぼ同義である。しかしここであえてギニョールというのは、この言葉が日本の特撮映画において慣例的に使われていた用語であることに注目したいからである。

映画はモンタージュによってカットとカットをつなぐことで、私たちの意識のなかに統一的なキャラクターを認識させる。現実に生きている人間の場合は、通常同一人物が演技を行なうことでそれは達成される。しかし特撮映画における怪獣などの場合においては、その制約は当てはまらない。例えば本多猪四郎が監督した『ゴジラ』(1954)に登場するゴジラは、着ぐるみの他に上半身、下半身、尻尾それぞれに分割されたギニョールが用いられ、場面ごとに効果的に使い分けられている★3。つまり私たちは同作において、着ぐるみとギニョールが綜合された表象をゴジラというキャラクターとして認識しているのだ。

このようにゴジラはショットの連続性に依拠することで全体性を仮構するが、西村はファーに覆われた形象と、ステイトメントにおける言葉を対置させることによって、その全体を成立させようとする。ギニョールの身体的欠落は「着ぐるみ」と称されることによって充填され、キャラクターとして「推せうるきみ」の輪郭が浮かび上がってくるのだ。作家が実態とは異なる言葉を選択しているのは、このレトリックを成立させるために他ならない。

だがそのシルエットは、明瞭なものではあり得ないだろう。なぜなら「着ぐるみ」の中には人が入っていることが明言され、追い打ちをかけるようにキャストの名前が会場に掲示されているからだ。つまり、その身体は透けている・・・・・。しかもその滑らかな毛並みに触れても、反応が返ってくることはない。在廊する作家は着ぐるみにしばしば随伴する通訳のような役割を果たしてもてもいいはずだが、「推せうるきみ」の意志を告げることはない。いわばこれは失敗が運命づけられたキャラクターグリーティングであり、その点だけ取り出すと露悪的ですらある。しかし、その想像的な存在感はパラソーシャル関係を結ぶことは断たれていないし、実際に触れると心地よい毛並みやファーの向こう側から伝わる体温は、安心感という報酬トリガーにもなり得るだろう。そのような意味においてこの「着ぐるみ」は、「推せうる」可能性を温存し続けるのだ。

★1──三宅香帆『推したちとどう生きるか』(新潮社、2026、3ページ)
★2──URL=https://x.com/rioha_nishimura/status/2054791557560377347
★3──菊地浩平『人形メディア学講義』(河出書房新社、2018、113~115ページ)

(後編へ)※9/7公開予定

鑑賞日:2026/07/19(日)