会場:国立国際美術館[大阪府]
会期:2026/07/19〜2026/11/03
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/20260719_sasamoto-aki/
そこにいながら感じたのは、私はここにはいられない、という落ち着かなさだった。
遡ること1年前、東京都現代美術館で開催された、笹本晃個展「ラボラトリー」でパフォーマンスに居合わせたときのことだった。
笹本の作品では、数学の計算式やグラフ、図によって示される概念が、ミクストメディア──文字も発話も、ドローイングも、さまざまな材質の物体も──を介してその場に立ち現われようとする。物体の配置じたいがある図式や構造を思わせることに加えて、英語で語られるナンセンスな日常の話題、運んだりずらしたりといった動作の連続によって、日々生きるなかで感じる小さな疑問や困惑は、気づけば世界を覆う大きさにまで延び、そして突然萎む。笹本の作品を介して、何かがそのように経験されるのだ。
経験されるのだ、とは言ったものの、まずそのように手触りを確かめる経験をしているのは作家である笹本本人だ。よく通る笹本の発声だが、語りはそれ単体で意味を伝達しようとするものではないように思われる。モノローグは聞き手の存在を意識しているような、していないような……。無論、動作も語りの内容と不可分なものだ。
笹本の展示はパフォーマンスの舞台であり、取り扱う事象の(部分的な)物質化であり、しかし笹本によって語られる笹本にしか読み上げられないテキストでもある。世のイマーシブシアターが謳う「没入感」とは異なる実感が、展示室にはある。この部屋にいるだけでは経験できないし、この部屋で笹本だけを観ていても経験できない。この部屋と笹本を同時に観ていなければ、わからないことがある。だが空間として、鑑賞(者)の位置が用意されているとは限らない。近年は内部機構によって自動化されたインスタレーションも散見され、作品は鑑賞者の在不在にかかわらず駆動し続ける。あるいは、パフォーマンスを納めた映像(上演の記録ではなく、きちんと編集されたそれじたいが作品たるもの)ならば、鑑賞者は画面の手前にいて向こうには存在しない。
《スピリッツの3乗》(2020)の再演は、展示室のひとつが黒塗りにされ、さまざまな作品要素が配置されたなかで行なわれた。笹本がとめどなくしゃべりながらチューブを引きずり駆け抜ける空間で、私たちは時に壁に身を寄せた。空間の方々に首を向けた。死角が多く、何が起きているかは見えないこともある。プロジェクターで投影されたビデオを見ていたときはあんなにも鮮やかに立ち上がってきた手触りが、同じ部屋の内にいると現われない。私たちは、ここに居並ぶ物体にも笹本にも考慮されないままそこにいた。部屋のうちにいて笹本だけを観ていては手触りもえられない。だから、この状況の全体を捉えようとする身体が求められるが、笹本のように動き回らなければそれは達成できない。観客でいることの制約を、作家が経験したことを容易には経験しえないことを再認識させられる。
笹本のいるとき、ここにはいられない。笹本がいるこの部屋を違う方法で観測するか、あるいは笹本のいないときに動き回るか。
少なくとも、《スピリッツの3乗》のパフォーマンスについてそう感じられた。私が特に好きな作品は《Wrong Happy Hour[誤りハッピーアワー]》(2014)なのだが、このパフォーマンスには立ち会えず、映像でしか観たことがない。細長いバー空間の中で笹本は動き回り、スイッチをオン/オフし、風を吹かせ、声を吹き込み、最後には奥の壁をこちらへ押し込んでくる。正面舞台/正面客席の形式として観ることも可能な本作のパフォーマンスは、おそらくそこにいられただろう。ただし、それは笹本の取り扱う概念の外側で、である。同じ室内で、ではない。《Wrong Happy Hour》がそもそもガラス張りのワンルームのギャラリー空間全体を用いた作品で、ライブで観ようにも外から眺めるしかなかっただろうことも、鑑賞(者)の位置づけを思わせる。ゆえに、《スピリッツの3乗》を鑑賞する困難は際立つ★1。
東京都現代美術館の展示においては、通路状の空間でほぼ時系列に笹本のキャリアを辿る展示構成だったこともあり、作品の空間構成に正面性のある《Wrong Happy Hour》や《Skewed Lies[ねじれた嘘]》(2010)を除いては、各作品を次々と通り抜けるような経験であった。室と室は区切られており、ある室に入れば室の出口に着くまでは出られず、室外は見えることもない。それが、最初に経験したラボラトリーだった。
国立国際美術館地下2階。左側のエスカレーター/階段から降りてきて、右の廊下を進んだ先で展示が始まる。エレベーター動線は廊下を進んだ先の突き当たり。展示室の入口は廊下の途中にあるので、どこから降りてきても、この廊下を通ることになる[筆者撮影]
巡回先の国立国際美術館では、エスカレーターで地下に降りた後、黄色く照らされた壁がゆるやかにカーブした廊下に私たちは導かれる。向こうからジャズナンバーが少し聞こえている。笹本不在の《Wrong Happy Hour》だ。それを横目に展示室内へ入るのだが、巡回展とはいえ、作品の追加や変更が行なわれ、展示室の規模や会場構成も大きく異なる。国立国際美術館では大きな空間に作品が居並びそれぞれの領域がわずかに干渉し合うような構成となっていた。展示室は十分な広さなので作品領域は分かれているが、ミクストメディアな物体の端々──伸びたパイプやバネ、貼られたブルーシート──なり、漏れる音や大きすぎて視野から外れようのない映像など、鑑賞にあたってほかの作品の要素が流入してくる。
ガランとした空間で、笹本を待つ物たち、あるいは笹本が待つ物たちが並んでいる。原点(0)に向かって漸近してきて交差せずに離れていくグラフ線のような曲げパイプ★2は、そこから想起される四象限の先にほかの作品も含んでいる。パフォーマンスは観られなかったが、ここでなら室内/外のどちらでもない位置から、離れて眺めることもできただろうと想像できる。そして、笹本が去ったあと、そそくさとここへ戻り、同じように動けたかもしれない。笹本の作品構造が持つ(必要な)疎外を乗り越えられる予感がする。会場構成の話であり、また、鑑賞(者)が作品に対してどう位置づけられるのかという試行の話でもある。
自分で同じように動いてみても、やっぱりここにはいられないと思うのかもしれない。ビデオで、明らかな外から観るくらいがいいのかもしれない。しかし、なんにせよ、もう一度ここに来られたことを嬉しく思う。
★1──同様に、《Sounding Lines[測深線]》(2024)《catch or be caught[とるかとられるか]》(2025)も大きな展示室全体にインスタレーションが展開しており、パフォーマンスも同室内で行なわれる。こちらは未見だが、鑑賞者の所在については同様の論点がありえよう。
★2──《Secrets of My Mother’s Child[母の娘の事実]》(2009)の一部。
鑑賞日:2026/10/18(日)