日比野克彦 HIGO BY HIBINO
明後日朝顔プロジェクト2007ブログ/くまもと「まち×ひと」チャンネル「HIBINO CHANNNEL」 |
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熊本/坂本顕子(熊本市現代美術館) |
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本サイトの学芸員レポートに、新たに熊本から発信する情報を加えていただくこととなった。今回紹介する「日比野克彦 HIGO BY HIBINO」は、この熊本という地域で、過去最大の規模で行なわれている市民参加型の展覧会である。筆者自身が担当するこの企画を紹介することは心苦しいが、一地方都市の公立美術館が、地域社会を巻き込みながら行なうプロジェクト型の展覧会の、良くも悪くもひとつの臨界がここに示されていると感じる。指定管理者制度時代の美術館のあり方について、他の都市においても共通する問題を孕んでいるという点に免じて、ご容赦いただければと願う。
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「石垣プロジェクト」会場
現在「石」を生産中で、4月の会期終了に向けて築城が待たれる |
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本展は日比野の旧作のほか、会場内外で大きく3つの要素により構成されている。そのひとつは、「石垣プロジェクト」。熊本城築城400年にちなんで4000個(!)の石垣をダンボールでつくって「築城」しようという、極めて壮大なプロジェクトである。会場入口の作業スペースは入場無料で、市民はいつでも「石造り」や「チップ貼り」といった作業に参加できる。その活動の中心となるのが、「(現代版)肥後の石工」と呼ばれる、ボランティアスタッフだ。美術館の近隣の商店街に協力を依頼して、集めていただいた廃棄ダンボールの回収、会場の整備運営や、市民へのインストラクション、段ボール加工の技術開発など、八面六臂の活躍である。ちなみに、1月中旬現在の「石」数は、1500個。関連イヴェントとして、みかんぐみの曽我部昌史氏を迎えて「熊本のまちにどうやって石垣を築くか」と題した、緊急レクチャーを催すなど、「築城」への意欲は高い。
もうひとつの大きな核は、日比野がデザインとコンセプトを監修し、熊本が誇る伝統工芸の職人が制作を行なったコラボレーション作品だ。日比野は近年、「明後日朝顔」と名づけた朝顔を植えるプロジェクトを各地で展開しているが、その発展形として、肥後象眼の技術で、約7mmというサイズの実物と見紛うばかりの朝顔の種の形をした《種象眼(たねぞうがん)》を制作した。また、有田などで使用される、良質の陶石の産地として知られる天草では、収穫された種を次世代へと保存・継承するための《種器(しゅき)》を、日比野自身が窯元の丸尾焼にレジデンスし制作した。そのほかにも、和紙の断面を45度にカットして、のりしろの無い状態で接合するという極めて高度な技巧を駆使した山鹿灯篭による《トーロート》、国内トップのシェアを誇る八代産のい草を利用した茶室《いくさいぐさ》などがある。
いずれも、少ない予算、極めてタイトな制作期間であるにもかかわらず、それぞれの持てる最高の技術を惜しみなく提供していただき、感謝に耐えない。その背景には、い草や陶石などの単なる「原料の産出地」としてではなく、あるいは、従来の伝統工芸の世界だけではない、新たな視点を導入したい、とのそれぞれの職人さん方の強い思いがあることを付け加えておきたい。
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左:《種象眼》《大種象眼》
デザイン=日比野克彦、制作=白木良明
右:《天草陶磁器》
デザイン+制作=日比野克彦、協力=丸尾焼
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左:《トーロート》
デザイン=日比野克彦、制作=中島清
右:《花ござ》
デザイン=日比野克彦、制作=熊本県い業研究所、熊本県くすのき園
*撮影はすべて矢加部咲
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さらに、関連イヴェントとして、美術館と隣接するホテル日航熊本に「HIBINO ROOM」を期間限定でオープン(2007年12月15日〜2008年1月31日)、同時に2階レストランガラス面にも日比野のオリジナルドローイングが施されている(〜2008年3月31日)ほか、老舗地元企業とコラボレートした「チョコレートケーキ」(お菓子の香梅)や「卵かけごはんにかけるしょうゆ」(浜田醤油)、また、先述の《種象眼》《トーロート》も美術館のミュージアムショップで販売している。この「企業との協力関係」や「物品の販売」という、従来の美術館が苦手とする分野にも少しずつ取り組んでいっている。
さて、改めて、冒頭の話に戻れば、「いかにして美術館は地域に開かれるか」、また、「地域社会になぜアートが必要か」という問題は、筆者が学生時代を過ごした90年代後半から00年代前半において、TAM(トヨタアートマネジメント講座)などがリードするかたちで、繰り返し議論が行なわれてきた。筆者を含め、そこで学んだいわば「チルドレン」世代が、美術館やアートマネジメントの現場に入り、活動を始めている。そこに、猛烈なハリケーンのように現われたのが「指定管理者制度」。地方公立美術館の存在意義の根本からの問い直しを図るこの制度は、「美術館の死」への不吉な序曲にも聞こえてくる。しかし、恐れることなくやるしかない、と思うのだ。なぜなら、日本の美術館が、70年代の教育普及活動の誕生をその端緒として以来、ずっと思い描いてきた「市民とつながりたい」といういわば「悲願」ともいえる「願い」の機が熟し、それを徹底的に追及するための最大の(もしかすると最後の)チャンスが、今まさに目の前にあるからだ。 |
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