「荒野のグラフィズム:粟津潔展」関連企画
松本俊夫、浜田剛爾、一柳慧、小杉武久など |
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金沢/鷲田めるろ(金沢21世紀美術館) |
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金沢21世紀美術館では、1750点を展示する過去最大規模の粟津潔の個展を開催中だが、4カ月の会期中に43の関連企画を行なっている。これらは単に展覧会の波及的な行事として行なわれるのではなく、関連企画こそが今回の展覧会の核心を成すとも言える。
例えば一連の展示中、最も大きい展示室を「ワークショップ・ルーム」としている。ここでは粟津の版を使ったシルクスクリーンのワークショップなどを開催し、既に300名を超える人々が参加し、展示の一部をなしている。
関連企画には、ほかに、レクチャー、コンサート、パフォーマンスなどがあり、針生一郎、中原佑介、北川フラム、福田繁雄、勝井三雄、永井一正、松本俊夫、篠田正浩、奈良義巳、一柳慧、小杉武久、Ayuoら、粟津潔に関わりの深いひとたちが、美術・デザイン・映像・音楽等の分野を横断して集まるかたちになった。
粟津潔は、これらのさまざまな人々と、ジャンルや役割分担など未分化のまま、ともに新しい文化の創り手として作品を生み出している。作品は誰かに発注されないまま制作しているものがほとんどで、たとえ発注者のいるポスターであっても、ポスターで伝えるべき内容とは無関係に、指紋や波、等高線など粟津の関心に基づいたモチーフを大きく取り上げた「作品」として仕上げてしまった。その活動は、クライアントの希望に添った商品を提供するという今日的な意味でのデザイナーの域を大きく超えており、雑誌を創刊して人を組織し、クライアントに働きかけてコンサートの資金を調達するなど、さまざまな芸術運動の仕掛人となった。奈良義巳が言うように、「デザイナー」という人と人の間に立つ位置にいたからこそ、できたこととも言える。
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金沢21世紀美術館は、幸運にも、粟津潔のアトリエにあった作品や資料の一括した寄贈を受けることができた。点数にして2,600点以上になる。しかし、美術館とは第一義的に、人の繋がりの結節点であるという当館の立場からすると、制作された物体だけが保管されても意味がない。できるだけ早い時期に一堂に展示する機会をつくり、それと同時に、多くの粟津との恊働者に来てもらい、美術館の利用者と繋ぐことが必要であった。美術館が、人の繋がる場所なのだとしたら、よい展覧会かどうか、よいコレクションかどうかは、面白い人にどれだけ繋がってゆくかで測られる。その判断基準からは、粟津は高いポテンシャルを持っており、展覧会予算の約半分を関連企画に充ててでも、そのポテンシャルを引き出さなければならないというのが、すべての土日祝日にイヴェントを実施した主な理由のひとつである。
各イヴェントを通じて、文献だけでは知り得なかった情報を知ることができたのは大きな収穫であったが、それ以上に、その人と向き合って、話をしたり、演奏してもらったり、物事を決めていったりすることを通じて、その人の価値観や姿勢が感じ取れたことに大きな意味があった。私は、粟津の多様な側面のうち、特に、線や波、印鑑といったモチーフを多用していた60年代の作品が重要であると考えているが、その観点からは、とりわけ、松本俊夫のレクチャー、浜田剛爾のパフォーマンス、一柳慧のコンサート、そして小杉武久のコンサートが興味深かった。粟津のこの時期の作品の今日的な重要性については、展覧会のカタログ『粟津潔 荒野のグラフィズム』(フィルムアート社、2007)や、11月1日号のこのコーナーで述べたので、ここでは詳しくは繰り返さない。簡単に述べると、世界は多くの異なる波で構成されており、その波どうしの干渉から自由を達成すると粟津が考えていた点が重要である。
松本俊夫は、粟津の映像作品《風流》と自身の映像作品《つぶれかかった右眼のために》を上映し、粟津の映像作品を映像史に位置づけた。日本で最初のマルチ・プロジェクション作品と言われる《つぶれかかった右眼のために》は、3つの16mmフィルムを重ねて投影するもので、最初に草月アートセンターで上映したときには3つのプロジェクターをシンクロさせるための機材を使用していたという。しかしその後上映した際には、予算的な事情からその機材を使用できなかったために、ずれによって映像の偶然の重なりが生じ、そのことが面白かったと語った。この発想は、複数のパフォーマーが5分間かけて椅子から倒れ落ちるという、粟津もパフォーマーとして参加していた一柳慧の1966年のハプニング作品と通ずるものがある。この作品も、各自が自分の体で時間を計るために、パフォーマーの間でずれが生じて、そのことが面白さのひとつになっている。
同様の発想は浜田剛爾にもみられる。浜田は1978年に粟津が行なった、石を肩の高さに持ち上げて落とし続けるというパフォーマンスの再現を行なった。そのとき、30分間のそのパフォーマンスを、4方向から同時に映像で撮るということを浜田が言い出した。当時のパフォーマンスに映像の記録はない。「4つの」というところで、私はその真意を測りかねていたが、最終的に上映してみて、面白さが分かった。4つの映像は同じ行為が撮られているが、完全に同時に再生できないため、石が落ちる瞬間に若干の差が生じる。それがリズムを生み出していた。このずれを楽しむ感覚は、粟津の線の反復による作品にも共通している。
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左:パフォーマンスに使う石を多摩川で集める粟津
右:「空間から環境へ」展での一柳慧作品のハプニング |
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一柳慧のコンサートは展示室で行なったが、この展示室は天井も高く、非常に残響が残る。下見にきた一柳は、その残響を活かすためにあえて音を重ねてゆくような曲を選ぶと面白いだろうと語った。寒川晶子が演奏した一柳作曲の「タイム・シークエンス」は、大量の音を重ねてゆくことによって、音のモアレを生じさせるような曲である。前日に客のいない状態でリハーサルを行なったときには、特に残響が大きく、ピアノとは思えない電子音のように聴こえた。同じ場所で翌週、小杉武久が70年代の「マノ・ダルマ・コンサート」の再現を行なった。天井から電波発振器を糸で吊るし、扇風機の風で揺らせる。この発振器の出す波と床に置かれたラジオ受信機の出す高周波の波とが、干渉し合って可聴域にある波を生み出す。世界は波の集合であり、音楽家はその受信機であるという考えに基づく、音の釣り、「キャッチウェーブ」である。
小杉は「発信機」(transmitter)ではなく、「発振器」(oscillator)としている。この違いは重要である。「発信機」と表記した場合、可聴域にある「音波」を「電波」にエンコードして送り、受信側で再び「音波」にデコードするというモデルが想起される。パッケージ化されたデータが、ある通路を通って伝達されるイメージである。しかし、小杉はラジオが原理的にこうしたモデルとは異なった伝達方法をとっていることに注目する。ラジオは、発信側も受信側も共に、波を発振している。その波は可聴域にないために「電波」と呼ばれるが、「電波」も「音波」もともに同じ波であり、周波数の違いがあるだけである。同じ波どおしが干渉し合って新たな波が発生するが、その新しく発生した波が可聴域にあるとき、それは、ラジオの「音」として認知される。このように、ラジオの伝達モデルは、受信側も送信側も双方が発振していること、音も電波も同じ波であること、伝達される波自体が通路でもあることによって特徴づけられる。このことにより、小杉は、ケージがノイズにまで広げた音楽の領域を、耳に聴こえない波の領域にまで拡張した訳だが、今日、小杉が刺激的なのは、むしろ、双方向的なコミュニケーションモデルと、伝達されるコンテンツ自体がメディアであるというモデルを提示している点にあるように思われる。
粟津は、異なる波の干渉する地点に自由を見ていたが、それは小杉も同じであったろう。「扇風機の風が天井から紐につるされている無線の発振器と受信機を動かしているのを眺めていたとき、自由を感じた」とは小杉の言葉である。 |
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