最近は展覧会を見たり、アーティストと会ったり、レクチャーがあったりと、横浜に出かける機会が増えている。都内からは電車でも車でもすぐなのだが、せっかく足を運ぶならほかの用事も済ませたいと考えてしまう貧乏性にとっては、いろいろなイヴェントがあちこちで行なわれるようになって、かなり身近に感じられるようになった気がする。
中心的な役割を果たしている横浜美術館も「アーティスト・イン・ミュージアム横浜」や「New Artist Picks」などの新しい試みを次々に実施している。私が訪れた日は、淺井裕介がエントランスホール中央の空間を使って公開制作をしていた。まるでツタ系の植物が床や壁を這うようにして2階の展示室の壁にまで彼の描いた線が延びていて、あの重々しい空間に軽やかな介入を試みているのが気持ちよかった。
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シュルレアリスムと美術──イメージとリアリティーをめぐって |
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企画展示室で行なわれていた「シュルレアリスムと美術──イメージとリアリティーをめぐって」展も面白かった。同美術館のコレクションにおいても重要な役割を担ってきたうえに、すでに多くの言説が費やされてきたこの芸術運動であれば、あらためて企画展に仕立て上げるのに、どのような視点が導入されているかが関心をそそる。はたして会場を歩いてみると、けっして奇をてらうこともなく、はじめてシュルレアリスムに接する人にも必要な情報を提供しながら、なおかつそれが持つ影響力の範囲を現代にまで拡大させるというメッセージが色濃い点が特徴で、それが見る者に強く働きかけることに成功していたと感じた。こうしたバランス感は言うのは容易いが、実際に行なうには企画者の入念な準備が必要だったはずである。その成果として、シュルレアリスムと美術との関わりを、ある時代の特定の様式のなかに押し込めてしまうことなく、眼の前にはないイメージを喚起させる力に向かう芸術の試みを時代や地域を超えて鑑賞者に感じ取ってもらう展示になっていた。例えば展示解説で強調されていたのは、広告といった身近なイメージにおけるシュルレアリスムの影響である。異質なもの同士を並べてショッキングな視覚効果を作り上げる手法などを例示してみれば確かに納得のいくものである。ただ、広告が見る者の特異性を前提にせず、産業が伝えようとする唯一のメッセージを届けるのと、シュルレアリスムの試みは根本的に異なるものではある。シュルレアリスムを生んだ時代以降、現代までに、資本主義や情報技術によって世界はほとんど「外」がないものになってしまい、芸術は「内」において把握し思考されなければならなくなった。こうした産業や情報による社会の変革を鋭敏に捉えるトニ・ネグリが、「美とは世界の構築に参加する個々の主体からなる多様性のなかで流通し〈共〉として姿を現す特異性を発明することなのです。美とは想像することではなく、働きかけ(アクション)と化した想像力(イマジネーション)[構想力]のことなのです」(『芸術とマルチチュード』月曜社、2007、55頁)と記していることが、シュルレアリスムのような前衛運動が目指したものと現代社会を結びつけるフレーズのようにして思い起こされた。
しばしば、過去における欧米で起きた著名な芸術の潮流を、時代や地域に特有のものとして扱い、そのようなわかりやすいパッケージにしてまとめてしまう展覧会が多いなかで、私たちもまたこの運動とどこかで連続するところで生きている、という感覚を与える企画としてとても効果があった気がする。また、横浜美術館はもとより、国内で所蔵されている作品が多く展示されていて、近年の経済的な浮き沈みのなかで、これだけの充実した作品が日本にあるということもまた嬉しい。 |