現在、広義におけるメディア・アートという領域にいくらかでも意味論的な先端性が見て取れるとすれば、それはメディアという概念の定義をわたしたちの日常空間にまで最大限に拡張した際に立ち現われる「場」にこそ見出せるのだとおもう。ここで紹介する「作品」はすべて、既存の美術制度の空間、もしくは日本において広く了解されている「メディア芸術」の領域から逸脱するものであり、特定の「作者」によって統制的に造られた「作品」として分類すること自体がむずかしい「行為」や「慣習」、または「プラットフォーム」といったことに近い。しかし、それらは確実にわたしたち全員に向けられた、あたらしいコミュニケーションの試みなのであり、わたしたちがメディア環境のなかで見つけられる条件や道具をいじくり回しながら生まれてきた結節点のような表現である。そこでは、博識と技術をもったアーティストが饒舌にかつ明晰に自己の作品について語るのではなく、哲学者の鶴見俊輔がいったような「限界芸術」のように、つまり「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」ような表現の様相が見てとれる。それはこうした実践者たちが、自らが対峙している対象に対するユーモアや笑い、怒りまたは驚きといった感情を前面に持ち出していること、そしてなによりも社会が内包するもろもろの問題や危機、そしてまだみぬ可能性に駆動されているという特徴を併せ持っていることを示している。
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Ubermorgen.com featuring Alessandro Ludovico vs Paulo Cirioによる『Amazon Noir』のシステム解説図
出典=http://www.amazon-noir.com/index0000.html |
「Ubermorgen.com featuring Alessandro Ludovico vs Paulo Cirio」は、アーティストのハンス・ベルンハルトとリズ・フリックス、ハッカー雑誌『Neural.it』の編集者にしてアクティヴィスト/批評家のアレッサンドロ・ルドヴィコとプログラマーのパウロ・キリコによる複合体だ。すでに『Google Will Eat Itself』という、グーグルのアドセンス広告を違法利用して得た収入でグーグル社の株式を取得し、グーグルを自身の経済的論理回路によって自壊させようとする試みが有名だが、それは理論的な遊戯に終わってしまったことは否めない。つまり、グーグル側も彼らの動きを検知していたし、実際にこのプロジェクトがグーグルの全株式を取得するには数万年の時間が必要とされることも計算されていた(このことによって、しかし、このプロジェクトの詩的価値が損なわれることはない)。そこで彼らは『Amazon Noir - The Big Book Crime』という、より社会性の高いプロジェクトを遂行した。いうまでもなくオンライン書籍販売のアマゾンを対象としたものである。「なか味検索」機能を自動的にフィードバック・ループに陥れるようなプログラムを通して、アマゾンでプレビューできる本をまるごとダウンロードしてしまうという内容であり、アマゾンのレコメンデーションという巧妙な欲望装置に魅了される方向には、アマゾンのデータをすべて所有する欲望が標榜されるという批評的かつ具体的な介入といえる。この計画は、当初よりアマゾン社および司法の介入を前提としており、日々「3000本の書籍のダウンロード完了!」といったリリースを挑戦的に発表することで、むしろニュースや新聞といった公共メディアにおける反響を促し、その全体の経緯を記録していった。数カ月の闘いが文字通り演じられたあと、彼らはみずからの敗北を高らかと、まるでマニフェストのような宣言をとおして発表した。そう、かれらは著作権をめぐる紛争という味も色気もないものを、まるで古代の叙事詩のような物語として演じきったのだ。
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The Yes MenがWTOの代表に扮し、アフリカ経済開発会議で発表している様子
出典=http://www.gatt.org/wharton.html) |
The Yes Menは、なにも実現しない代わりに代替的な現実を作り出す。彼らは実在の機関の代表を詐称──彼ら自身の言葉でいえば是正──し、世界中に虚実の入り交じったニュースをばらまく。その目的は当然、なりすましている機関の暗部や偽善を架空の計画を通して露呈させることである。これまでの一連の活動のなかでももっとも有名なのがwww.gatt.orgというウェブサイトを通してWTO(世界貿易機構)の代表を騙り(フィッシング詐欺と同様の戦略である)、各地の学会や会議またはテレビニュースなどで行なってきた発表だろう。最新の成果としては、アフリカの開発関連の会議にてWTOの担当者として招かれ、WTOがアフリカ大陸の経済を向上させるために新しい奴隷制度の施行を計画していると発表したものがある。しかし、彼ら自身が時に落胆し、また驚くように、よほど露悪的な計画をぶちあげないかぎり観衆がかれらの計画の「邪悪さ」に気がつかないどころか逆に称賛してしまうことが多いということは興味深い。それはわたしたちの世界において、公なるものはア・プリオリに正しい(はず)と認識されてしまう集合構造を表わしている。Yes Menの活動の内情を知るものがかれらの行為のうちに見いだす美的体験はべつの次元にある。かれらの行為は、かれら自身がいみじくも強調するように、未来の時制にむけた歴史の是正なのである。BBCでDow Chemical社の広報官として出演し、同社がインドで引き起こしたミノマタ事件のごとき化学的大惨事に対して、全賠償責任を持つと発表し、それが一時的にであれBBCのBreaking Newsとして放送されるということを、単なる悪戯や虚報としてみなすことができないのだ。それは事件を知るものには公正性と対称性が想像的に回復されることを意味し、事件をいまだ知らない若い人間は批判的に歴史を学ぶことができる。
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Banksyによってディズニーランド内に設置された囚人マネキン
出典=http://www.banksy.co.uk/ |
Banksyは街路におけるグラフィティという古典的な都市型表現の手法から、いつしか都市以外の場所の風景そのものに異質なものを挿入し、意味を置換するという方法論に至った。かれはこれまでイスラエルとパレスチナの分離壁にグラフィティで穴を描き、博物館の展示室にスーパーのカートを引く原始人の壁画を設置し、ディズニーランドのジェットコースターのコース内にアブグレイブ収容所のイラク人囚人を模したマネキンを立ててきた。楠見清氏はこうしたBanksyの表現を「介入美術」の系譜のうちに見て取っているが、それはたしかに美術家が標榜した直接的社会行動という価値概念とおおきく重畳しているだろう。これは都市におけるローカルな記号の戦争機械が、インターネット・メディア(YouTubeや幾千ものブログ)によってあらゆる地理的場所へと解き放たれた先端的な事例として捉えることができるだろう。
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Christophe Brunoによる「Human Browser」を(The Yes Menによる作品「Gilda」のまえで)演じるManon Kahle
出典=http://www.christophebruno.com/biography/?p=83 |
GoogleのAdWorth広告に無意味なテクストを介入させたプロジェクトで知られるChristophe BrunoによるHuman Browserは、秀逸なローテクのパッケージである。この作品は、無線ヘッドフォンをつけた演者が、近くにあるネット接続のコンピュータからグーグルの検索結果が人口音声によって読みあげられるのを聞いて、それを人びとの前で演劇的に大声で反復するという行為によって成り立っている。外観はただヘッドフォンをした人間がひとりで喋っているに過ぎず、あたかも狂気に支配された情報過多時代の犠牲者にしか見えない、この非常に単純な作品はしかし、まさに演者を電波(テクスト内容)によって駆動する点において、まるで脳ーコンピュータ・インタフェース(BCI, Brain-Computer-Interface)、つまり神経接続システムのプロトタイプのようにも見えるのだ。ネットワークの集合知(Google の検索アルゴリズムによって集積され、関連づけられ、検索される人間活動の総体)がひとりの生身の人間のなかに舞い降り、具現化されているかのような錯覚。それは現代のサイボーグとしてのわたしたちの現実観の片鱗をかいま見せてくれる。もちろんこれはパフォーマンス作品なので、演者の一人であるManon Kahleのようなプロの役者の声量と演技力(彼女のばあいは容姿の美貌とドイツ語と英語のなめらかさ)に負うところが大きい。しかしこのシステムは誰でも簡単に練習することができるだろうし、逆に演者の稚拙さによってネットワーク化された身体の本質がより浮き彫りにされることもあるだろう。その意味で、Human Browserはまさに鶴見がいうような、「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」、ネットワーク時代の限界芸術の一種だといえる。
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0100101110101101.orgが撮った、Second Life内の「もっとも美しいアバター」のポートレート
出典=http://www.0100101110101101.org/home/ |
Second Lifeはこれまでのあらゆる大規模多数オンライン・ゲームのなかでもっとも可塑的なプラットフォームとして華開いている。Second Lifeは史上はじめて仮想世界内でユーザーが制作したデータ(プログラムコードから3Dモデルまであらゆる情報)の著作権をユーザー自身に与えたMMO(Massively Mutiplayer Online)ソフトである。そこではアーティストが参入する以前から、凡庸なメディア・アート作品のビジョンを圧倒するような「新世界」が何十万人という草の根ユーザーたちの手によって創出されてきた。だから、Franco&Eva Mattesによる0100101110101101.orgが最近になってSecond Life内で作品を発表したことは驚きに値しない。それどころか、かれらが発表した「13 most beautiful avatars」は、ただウォーホルの「13 most beautiful men / women」の仮想世界版であるというミニマムに過ぎるコンセプトのせいで、まったく生彩を欠いている駄作だろう。かれらは、Second Life内ではすでに、物理世界におけるそれと見劣りのしない規模において資本主義の根が張りめぐらされているという現実を見落としたのだろう。それはもはや「仮想」という形容が死語であることを意味している。たとえばTOYOTAやBMWが商品の販促用空間を出店し、ReutersやCNetが支局を開き、また多数の経営コンサルタントが参入しているこの代替世界において、なにが挑戦されるべきなのだろうか。ひとつは、わたしたちの身体が占める物理世界と、わたしたちの代替的な分身としてのアバターが棲むSecond Life世界の双方の論理構造を往復させることが考えられる。アバターはわたしたちの身体と同規模の、だが様式の違った社会性を帯びている。だからこそ、逆に代替世界から物理世界へのフィードバックを設計することにこそ、資本主義の回路に抵抗する戦線が見つけられなければならない。
sven königによる「sCrAmBlEd?HaCkZ!」は、非常に秀逸なソフトウェアである。それはデビッド・ロケビーによる初期の「Very Nervous System」とは逆の論理順序だが同じような応答速度で、演者の音声入力と同期した映像をデータベースから瞬時に読み出し再生する。これは作者がいうように、身体的な身振りが即時に著作権に抵触する無許諾の引用を引き起こす装置なのだ。同じシリーズに「ApRoPirate!」(appropriate=盗用とpirate=海賊行為の言葉あそび)という作品があり、こちらはひとつの映像内の動きベクトルの解析の結果得られる領域にもうひとつの異なる映像が混入するというソフトウェアである。もちろん、ここで言及される「著作権違反」というのは扇情的な意味しか持たない。なぜなら、ここでは「引用」や「著作物」といった確定的な「作者」の存在を前提することがナンセンスなほど高密度なマッシュ・アップ(混合)が、リアルタイムに展開しているからだ。類似する表現形態に、たとえば日本では宇川直宏のVJプレイやドラびでおによるドラム・セッションが挙げられるだろう。 |
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sven königによる「sCrAmBlEd?HaCkZ!」のライブ演奏
出典=http://www.popmodernism.org/scrambledhackz/?c=5
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Aaron KoblinによるSheep Marketの展示風景
出典=http://users.design.ucla.edu/~akoblin/work.html |
Aaron Koblinによる「Sheep Market」はAmazonによるMechanical Turk(MTurk)というサービスを利用した恊働制作のプラットフォームである。作品解説のページには「星の王子さま」が羊を書いてくれと懇願するシーンが引用されているように、「Sheep Market」はMTurkを通して、誰かが羊の絵を書くたびにその人に$0.02支払われるという原理にたっている。そうして10000匹の羊がかき寄せられ、作者はその羊たちをランダムに並べたプレートを印刷し、それを数十ドルで販売した。ミニマルなデザイン・センス(10000個のピクセルがそれぞれの羊に対応する)と確かなコーディング力(それぞれの羊の絵は、描かれた線を再生することができる)に裏付けられたこの作品は、恊働制作のインセンティブと恊働制作物の利用方法に関する先進的な習作として捉えることができる。MTurk自体、実際に賃金が支払われるウェブ上の作業をリスト化して開示するという革新性が評価されたが、現在はサービス開始時におけるユーザーの熱狂が冷めてから久しい。しかし、こうした市場と非市場を混交させた創像的な介入によって、わたしたちの創造性がネットワークによってどのように変化するのかということが明らかにされる可能性がある。
ここで挙げたものは作品であると同時に、ネットワークと物理世界を往復し、政治的な文脈を突き抜けるための表現のためのプラットフォームである。それは特定の施設や展示といった制度的空間を起源として持たず、生態環境としてのネットワーク社会のなかから発生してくる。それは変容しつづける技術的条件や経済的条件に対してわたしたちがどのように行動し、なにを表現しうるのかという問題への取り組みである。しかし、これはほんの少しの事例でしかない。興味をもたれた読者はぜひご自分の手と足と目でさらなる探索に向かわれてはいかがだろうか。 |