さてリマスターといえば、ローリング・ストーンズをはじめ、ブルース・スプリングスティーンやクリームといったロック・クラシックスのリマスター(他にヴェルヴェット・アンダーグラウンドなど)を一手に引き受けているゲートウェイ社のマスタリング・エンジニア、ボブ・ラドウィッグ(Bob Ludwig)は、単に現代人の耳にフィットするように音圧を高めてエッジを効かせるだけではなく、昔のレコードでは聞こえなかったパートを拾い上げるなど、明らかに一種の「指揮者」(=古典作品の再解釈者)としての役割を演じ始めている。これから音楽の世界では、「音」を直接にさわれるエンジニア的存在がますます大きな役割を占めるようになると考えられるが、ロック・ファンの間ですでにカリスマとなっている彼は間違いなくその先駆者だ。しかしラドウィッグは、マスタリングの概念を刷新する程のその創造的技術によって、わわれれが最終的に完成された「作品」だと信じて所有していたレコードやCDが、実は一種の「演奏」でしかなかったという事実を明るみに出し、リマスター盤の市場価値を大いに高める一方で、「作品それ自体」は永遠にわれわれリスナーの所有物にはなりえないという絶望感(同じアルバムのリマスターを延々と買い直さなくてはならない!)をわれわれに植え付けてしまった。「より完全な作品」を所有しようと思って彼が手がけたリマスター盤を購入した人の多くは(著者もその一人だが)皮肉なことに、その音の斬新さゆえに、手に入ったものが実は「より不完全な作品概念」でしかないことに気付かされる。そこでは作品概念およびミュージシャンシップをめぐる今日的転移が生じているのだ。
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視点をぐっと身近なところに移して、2007年の日本で、エンジニア的感性を持ち合わせたサウンド・アーティストとして活躍が期待されるのが、種子田郷である。種子田は基本的に舞台作家とコラボレーションをするライヴ演奏家として活動を展開しており、昨年は3月に横浜美術館での『セクエンツィア〜さひづる庭』、7月に〈東京の夏〉音楽祭の一イヴェントとして行なわれたライヴ・インスタレーション『青い月』(project suaraとして参加)でライヴ・パフォーマンスを行ったほか、11月には久々に(自身としては三作目となる)CD『sketch 2006』を出し、ミュージシャンとしての注目も高まった。彼を他の多くのサウンド・インスタレーション作家から隔てるのは、音を「空気」として捉え、提示する一貫した姿勢である。彼はどこで演奏する場合でも、音響システムからスピーカーまで自身で持ち込み、会場全体の空気をデザインする。種子田の音楽は、耳で聴く音である以前に、肌に迫ってくる空気的衝撃である。可聴域の外側にある音(MP3が削ぎ落とすのはまさにこの部分だ)を意図的にコントロールすることで、音自体はかえって静謐でありながら、空気が激しくビンビンと伝わってくるという、彼の独特な音響世界が成立する。その種子田が、空気感を伝えることは不可能であるとの理由で(2002年の前作以来)CDという媒体を拒否していたのはある意味で当然だが、今回、誤解のリスクを背負って(なにしろMP3形式に圧縮されてチープなヘッドフォンで聞かれる可能性もあるのだ)CDをリリースしたことは、素直に評価されてよい。今年は医療、音響機器開発の分野にも手を広げたいとのことだが、彼のような三次元指向のミュージシャンがiPod全盛の今日にあってデジタル文化といかに折り合いを付けていくか、そのなかでいかなる緊張関係を作り出すかも、興味をもって見守りたい。
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Michaél Levinas
『Ligeti-Etudespourpiano/Levinas-Etudespourpiano』 |
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先にあげたマッドリブが分裂症的なまでに自らの名前を複数化し、アイデンティティを拡散し続けるミュージシャンの典型例だとすれば、それとは対照的に、「固有名」が圧倒的に流通し、音楽そのもの以上に人々に受容されている音楽家もいる。ミカエル・レヴィナス(Michaél Levinas)は間違いなくその一人であろう。彼は五月に初来日する予定で、東京と京都でレクチャー・コンサートと行なうほか、一般向けのコンサートも現在企画中(詳細はまだ未定)とのことなので、ここでふれておきたい。パリ音楽院の教授でスペクトル楽派(倍音を分解し、合成する電子音楽)の代表的作曲家、またリゲティ作品の録音もあるピアニストとしても知られるレヴィナスだが、その活躍ぶりも、哲学者エマニュエル・レヴィナスの息子という「肩書き」から彼を解放するにはまだ至っていない(これは日本だけでなく世界的にそうだろう)。それは彼自身が一番よく分かっているようで、今回の初来日に際しても、講演やレクチャーだけでなく、作曲家という本来の文脈で自分をアピールしたいという強い希望があるらしい。彼は最近ではもっぱら舞台作品の随伴音楽に力を注いでいるようで、日本の演奏会でどのような自作を取り上げるかは不明だが、名前だけは(だけで?)知られていながらも謎に包まれている部分が多かったスペクトル音楽の第一人者の実演に立ち会える機会を逃す手はないだろう。
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そして最後になったが、音楽に関わるすべての人が注視すべき存在として「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」にふれておかねばならない。昨年9月、日本文芸家協会や日本音楽著作権協会(JASRAC)などが共同で、著作権の保護期間を作者の死後50年から「欧米並み」に死後70年に延長すべきとの声明を出した。むろんそのバックには自国のコンテンツで稼ぎたいアメリカの圧力と、その言いなりになっている日本政府がいる。同会議には、こうした上からの動きを警戒する作家や批評家が各界からジャンル横断的に集まっている。なかでも音楽サイドでは、『だれが「音楽」を殺すのか?』でレコード輸入権やCCCDの問題に鋭いメスを入れ、その後も一貫してユーザーの視点から、音楽のネット配信をめぐって発言を行なっている津田大介が、世話人の一人として中心的役割を果たしていることが注目される。ちなみに2007年で著作権保護期間が終わる音楽家にはガーシュウィン、ラヴェル、シマノフスキらがいるが(いずれも1937年没)、もちろん日本では彼らの作品はとっくにパブリック・ドメインである。また仮に今年、日本での保護期間が死後70年に変わった場合、グレン・ミラーやチャーリー・パーカーといった初期のジャズ・マスターズが「遡って」保護されることになり、アメリカにとって実に好都合である。なお昨年四月に、米政府の「死後70年」要求を書簡のかたちで小泉総理に要請したのは、なんとオノ・ヨーコとリサ・マリー・プレスリー(エルヴィス・プレスリーの娘)であった。死後50年ではロックの関係者もうかうかしていられない、ということか。かくして、音楽の所有と管理をめぐるポリティックスは故人に関しても現在進行形であり、今日ではアニヴァーサリーもただ祝うだけのものではないのだ。 |
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吉田寛
1973年生。美学芸術学・音楽学。東京大学大学院助手。著書=『近代ドイツのナショナル・アイデンティティと音楽』(コンテンツワークス、2006)、共訳=『アドルノ音楽・メディア論集』(平凡社、2002)など。 |
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