昨年11月にロバート・アルトマンの死去が伝えられた。日本においてこの孤高のアメリカ人映画作家への評価は、1960年代末から70年代初頭にかけての“アメリカン・ニュー・シネマ”(これも日本的な呼称だが)の傍流に位置する存在として、マニアックな熱狂とカテゴライズが困難なことに由来するのであろう曖昧な影の薄さに引き裂かれてきた。むろん、遺作となった『今宵フィッツジェラルド劇場で』の公開を機に本格的な再評価の動きを促したいところだが、強靭さと脆弱さをあわせもつアルトマンによって切り開かれた地平は、単にそうした回顧的な視線の要請に尽きるわけではない。乱暴に要約すれば、映画史の流れのなかでとりわけ古典的ハリウッド映画において強固に構築されてきた「物語」のあり方に揺さぶりをかけ、解体に等しいかたちでの再構築を試みること……これこそアルトマンによって開拓された地平であり、その孤軍奮闘は同時代的なアメリカ映画界における孤独と裏腹に豊穣なる影響を後続の映画作家たちに散種することとなった。どこにも中心を見出すことのできない登場人物や逸話が離合集散を繰り返し、複数の系列群が複雑な交錯を演じるアルトマン流のダイアローグ劇=群像劇こそが、21世紀に入って数年が経過した世界の映画界で「物語」のあり方を賭けた抗争の場となり、すぐれて「現在」に関わる刺激的な論点を提供しているのだ。
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『恋愛睡眠のすすめ』
©courmiaud-horse created by Lauri Faggioni
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最近のクリント・イーストウッド作品に脚本家として参加するポール・ハギス監督作品で、昨年オスカーに輝いた『クラッシュ』などを見ると、そうしたアルトマン的な形態を採る「物語」がすでにある種のウエルメイドな洗練さに回収されてしまっていることの危機をも僕らは自覚せざるをえない。そんな意味でも、今年日本でたて続けに公開される予定の“ポスト・アルトマン”を思わせる若手の映画作家による新作群は、アルトマンの死に至るまでの「物語」を巡る抗争の今後に向けての生産性を占ううえで重要な分水嶺を形成することになるだろう。そうした注目すべき映画として、メキシコ人映画作家アレハンドロ・ゴンサレス・イニリャトゥの最新作で本年度の各賞レースを賑わせる『バベル』、一連のPV作品で名を馳せた後に映画界への転身に成功したフランス人映画作家ミシェル・ゴンドリーによる『恋愛睡眠のすすめ』、さらにクリストファー・ノーランの『プレステージ』、デヴィッド・フィンチャーの『ソディアック』、ダーレン・アレノフスキーの『ファウンテン』といった「物語」の解体=再構築に自覚的なアメリカ人映画作家たちによる新作の数々を挙げることができる。ここに列挙した映画作家たちは、新進作家というよりすでに初期の仕事で注目を浴びた“中堅”に属するが、だからこそ、これらの仕事の出来いかんが映画界における「物語」形態のヘゲモニーを左右するといって過言ではないのだ。
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『松ヶ根乱射事件』
URL=http://www.pimpampum.net/bubblr/ |
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一方、そうした「物語」の解体=再構築の文脈で日本の映画界に目を転じてみるとき、僕らの視界に山下敦弘の存在が浮上することになる。彼がアルトマンを意識しているはずはなく、先に挙げた映画作家たちとの関連性にしても希薄だと思われるが、それでも2000年以降に本格的なデビューを果たした日本の映画作家たちのなかで山下が飛び抜けて自身の「文体」と「物語」に意識的な映画作家であることは疑いない。さらにまた彼の新作で20代最後の作品になる『松ヶ根乱射事件』が、これまで以上に群像劇の要素を高め、その結果、「物語」の解体=再構築の意志を突き進ませる不穏な映画であることを目撃した今となっては、彼もまた世界の映画界における「物語」のヘゲモニー闘争に深く関与する映画作家であると見なしうるのではないか。因みに前作と一転して“アイドル映画”になると予告される最新作『天然コケコッコー』も今年中の公開が予定されている。また、山下とは方向性が異なるものの、昨年『パヴィリオン山椒魚』で長編劇映画デビューを果たした冨永昌敬も、「物語」の解体=再構築の文脈で今年以降の活躍が多いに期待される存在である。
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『パラダイス・ナウ』
©2006 シグロ/ビターズ・エンド/バップ |
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むろんこうした「物語」を巡る抗争は、実験室で純粋培養される類いの“お遊び”や娯楽性の問題に終始するわけではない。ほかでもなく、アメリカ映画界で敬意を集めつつ、しばしば“亡命者”のごとく蚊帳の外に追放されてもきたアルトマン自身の仕事が立証するように、そこには生々しい政治や権力闘争の次元が避け難く交錯する。たとえば、誤解を恐れずにいえば、イスラエル及びパレスチナは「物語」の宝庫であるだろう。旧約聖書の次元から、ディアスポラやホロコーストの悲劇、国民国家創設や民族主義、抵抗運動にまつわる英雄たちの神話、つねに戦時体制に置かれながら難民状態を生きること……。不断の境界線の引き直し作業や交錯が演じられるその場で否応無く生み落とされる物語群を、権力による公的ステートメントや瞬時に世界を駆け巡るテレビ報道の映像、あるいはハリウッドや連続テレビドラマのクリシエなどに回収させることなく、生産的に解体=再構築するためのアプローチをさまざまな映画作家が模索しつづけている。そのとりあえずの成果や現状の一端を、自爆攻撃の実行者となることを決意したパレスチナ人の若者二人を主人公とし、パレスチナ人映画作家ハニ・アブ・アサドと(ユダヤ系)イスラエル人プロデューサー、アミル・ハレルの共同作業によって生み出された劇映画『パラダイス・ナウ』、あるいは3月末に東京で開かれる「イスラエル映画祭2007」で目撃することができるはずだ。
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2007年、映画は「物語」に回帰する……。しかし、その「物語」のあり方は、一筋縄ではいかない継承と断絶、錯綜、飛躍、実験、政治、闘争等々を孕んだものとしてある。
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