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2007年の「期待」
土屋誠一
 2007年に活躍を期待するアーティストを挙げよ、とのことであるが、先々の事柄に対して特に期待は持っていない。というのも、結局のところ、先の展開を予測する事ことなどそもそも不可能であるし、第一、他人の未来の活躍に一喜一憂したところで、私自身にはなんの得もない。ましてや、マーケッターでもプロモーターでもない私が、競馬の予想屋のようなことをしたところで、お寒い限りである。したがって、昨年を中心に、近過去に実見した写真の動向から推し量ることと、今年に開催が予定されている展覧会などを基にすることで、今年における括弧つきの「期待」をいくつか挙げるにとどまることを、先に断っておきたい。

蜷川実花『永遠の花』<br>(小学館 、2006)
蜷川実花『永遠の花』(小学館 、2006)
 まず、蜷川実花の展開には、注目しておきたいところである。先年末に刊行された写真集『永遠の花 Everlasting Flowers』(小学館)と、それにともなう二つの個展(トーキョーワンダーサイト渋谷小山登美夫ギャラリー)では、この写真家の特質が如何なく発揮されていたように思われる。この写真集で展開される、世界各地の墓地を舞台にアレンジされた造花を撮影した写真群には、しばしば蜷川の写真について指摘されてきた極彩色と人工的な美的感覚が凝縮されている。この徹底したキッチュさや、それにともなうあからさまな「死」への連想は、その軽薄さにおいて前世紀の巨匠アンディ・ウォーホルに対応している。日本においてポップ・アート足りうる表現の質が維持されているのは、蜷川をおいて他にいない。ところで、すでにクランクアップし、2月の一般公開を待つばかりの初長編映画監督作品である『さくらん』が、近々控えているが、吉原の遊郭というドメスティックなテーマによって、退屈な「J回帰」に捕われないことを願うものである。貧しくしみったれた日本的「キッチュ」は容易であるが、そんな「J」的なるものを切断し、徹底的にキッチュで軽薄であるという点が、蜷川の特異点であればこそなおさらである。

東松照明「長崎曼荼羅」展ポスター
東松照明「愛知曼荼羅」展ポスター
 東松照明がここ数年継続している「曼荼羅」シリーズが、今年10月に開催が予定されている「東京曼荼羅」(東京都写真美術館)をもって完結するという。すでに70歳代を折り返している戦後写真界の巨匠は、昨年もその初期の作品群を集成した「愛知曼荼羅」(愛知県美術館)を開催したばかりであるが、それらは単なる過去の集大成にはとどまらない。東松による膨大な写真群は、それだけでも戦後史の一様相を照射するものであるし、戦後写真のプロブレマティックを体現するものでもあり、「曼荼羅」シリーズにおいてその都度生き直される写真群は、単に近年撮影された最新様式の写真が、写真のアクチュアリティを指し示すという素朴な思い込みを、即座に否定する厚みをもっている。東松が今日をもってなおアクチュアルであるということは、東松が決定的な「巨匠」であるということを示すのかどうかという判断は措くとしても、ともあれ「曼荼羅」シリーズの「完結」が、東松自身の「完結」をまったく意味しないであろうことを容易に予測させるだけに、不気味ですらある。

王子直紀写真集『TELOMERIC』(photographers' gallery、2006)より
王子直紀写真集『TELOMERIC』
(photographers' gallery、2006)より
 昨年一年間、毎月欠かさず開催する個展「XXXX STREET SNAPSHOTS」(photographers' gallery)を継続した王子直紀の活動は、もっと注目されるべきである。ノーファインダーのストリート・スナップという、古典的な手法を愚直に続けているだけのように見えるかもしれないが、その愚直さは今日ではむしろ、批評的な意味を持つように思われる。写真家という主体が公共空間においてスナップする行為が、今日の管理社会において忌避されつつある一方、ウェブカメラのような非人称的な視線が世界全体をスキャンしつつあるという相矛盾した現況において、王子の活動は二重の意味で批判的な視線を差し向けていると言える。スナップショットによって得られる、アクシデンタルにシャッターが切られたかのようなその画像は、非人称的な眼差しの気味の悪さに近似する一方で、同時に過去の写真家たちが築き上げてきたスナップショットという手法の歴史にも再考を促すという点において、見た目以上に過激な試みである。なお王子は、川崎とソウルにおけるスナップを併置した興味深い写真集『TELOMERIC』(photographers' gallery)を昨年上梓していることも、付記しておきたい。

『カメラになった男』より
『カメラになった男』より
 2003年に完成されながらも長らく一般上映の機会を得ず、昨年ようやく一般公開に漕ぎ着けたドキュメンタリー映画『カメラになった男──写真家 中平卓馬』の監督でもある、小原真史の今後の展開も気になるところである。高い評価を得たこのドキュメンタリーであるが、カリスマ的な写真家である中平の側面ばかりに注目が集まり、映画としての評価が充分に為されていないように思われる。シャープなモンタージュはもとより、中平という身体を生々しく伝えるこの映画は、著名な写真家を撮影した単なるドキュメンタリーというだけではなく、映画として端的に優れているという事実に注意を払うべきである。なお、小原は次回作として、オーストリアを拠点に活動する写真家・古屋誠一のドキュメンタリーを撮影中とのことであり、1月末より開催される古屋の個展(ヴァンジ彫刻庭園美術館)のキュレーターも努めている。小原は文筆活動も行なっているため、今後はドキュメンタリーの監督になるのか、あるいはキュレーターや批評家として活動していくのかは不明であるが、そのスタンスの特異さも含めて、注目したい。

 最後に、昨年の写真界の動向を見るに付け思うことは、主流を形成するような動向や目立つトピックがますます希薄になりつつあるという点である。少し前であれば、個人作家の回顧展や現代美術のグループショーなどで、写真が盛んに美術館に参入していたことが特徴であっただろうが、それも一時的な流行に終わった感がある。しかし、写真は日々撮影され続けているし、小規模なものも含めれば展覧会の数が減っているわけでもないし、写真集も大量に刊行され続けている。当たり前のことではあるが、そのような現況において、むしろ必要とされる態度は、そのなかからいかに真に特異な表現を汲み取って行くかということであり、それは写真家はもとよりそれに関わる批評家やキュレーターなどにも無縁であることではない。
土屋誠一
1975年生。美術批評。論文=「平面・反復・差異──アンディ・ウォーホルの二連画について」「失くしたものの在処をめぐって──斎藤義重、1973年再制作」など。
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