小吹隆文/福住廉 |
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7/26-7/28 |
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山本竜基 千の自画像
7/26〜8/26 ミヅマ・アクション[東京] |
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たとえて言うなら、まるでキング・オブ・コメディの今野くんがマトリックスのエージェント・スミスみたいに無限に増殖しているような絵だ。これほどまでに強く自己に視線を向け、直接的に露出する作品は最近では珍しいが、それがいわゆる箱庭的な自己充足の絵とちがうのは、集団性への欲望を自己増殖という無謀な想像力によってしか満たすことができない徹底したニヒリズムに貫かれているからだ。
[7月27日(木) 福住廉] |
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画廊からの発言──新世代への視点2006
7/24〜8/5 Gallery Q[東京] |
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東京の銀座・京橋エリアの10画廊による「東京現代美術画廊会議」が企画した展覧会。35歳以下の若い作家を各画廊が選抜し、同期間にあわせて展覧会を開催した。作家は、滑川由夏(ギャラリーなつか)、寺田佳央(コバヤシ画廊)、塩津淳司(ギャラリイK)、冨井大裕(ギャラリー現)、くごうあい(ギャラリー山口)、太田麻里(ギャルリー東京ユマニテ)、塩入由美(藍画廊)、中島立雄(ギャラリー21+葉)、奥敬詩(なびす画廊)、タムラサトル(ギャラリーQ)。なかでも印象に残ったのは、シンプルな素材によってサイケデリックな視覚経験を提供した塩津淳司と、反復的な機械運動の生産性をコミカルに見せたタムラサトルの作品だ。
ただ、個々の作品の評価を下すより前に、なによりも気になったのは企画展でありながら主催者の姿が見えにくいことだ。図録をひとつとってみても、日本の現代美術のシーンにおいてこれらの画廊が果たしてきた働きや作家のコメントなどが掲載されているものの、企画する側の価値判断は一切見当たらない。なぜその作家を推すのか、その作品をどのように評価しているのか、それらが見る側に伝わらないかぎり、個展の集合体としてみなすことはできるにせよ、ひとつの企画展であることにさほどの意味は見出せないのではないだろうか。そのフレームが「画廊からの発言」であるなら、なおさらだ。
ちょうど「日本×画展」の中村ケンゴがいくぶんの皮肉をまじえてまっとうに指摘していたように、多くの場合、作家が展覧会に寄せる言葉は「何が言いたいのかよくわからない独り言のようなもの」であることが多い。とはいえ、そうした言葉にならない思念や感覚を言葉として絞り出すことのいびつさと、その作家の何をどのように評価するのかという点を言語化することは、本来別次元であるはずだ。企画展であるからには、当然その根底には選抜する者の価値判断が作用しているのであり、それが明らかにされてはじめて、見る側の価値判断との接触や交換が生まれる。言うまでもなく、美術だろうと映画だろうと舞踏だろうと、すべての「シーン」は言説の生成なしには成立し得ない。「批評」が美術評論家の専売特許であった時代はとっくに終わっているのだから、ギャラリストであれキュレイターであれアートファンであれ何であれ、自分の言葉を発するべきだろう。
[7月27日(木) 福住廉]
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ハンアンギャラリー
7/25〜7/29 韓国文化院ギャラリー[東京] |
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韓国と在日のコリアン・アーティストたちによるグループ展。一部で報道されているように、この展覧会は企画者側の意図に反して「検閲」事件によって知られることになってしまった。企画した金暎淑によれば、自身の映像作品と韓国在住の高慶日の風刺漫画が、搬入当日に会場を訪れた韓国文化院の院長によって展示を拒否されたという。その理由は「国益に反する作品の展示は容認できない」というものだったが、両作品を見ることができなかった来場者の精神的な損失は計り知れないほど大きい。とりわけ、金暎淑の「カフェGは告発する」は日本で生まれ育った作家が母国の民主化の転換点となった光州事件を寓話的な手法によって映像化した作品であり、光州世代と後の世代のみならず、韓国と日本を架橋する可能性を秘めた作品として高く評価できるものだ。かりに芸術が「国益」にかなうものだとしても、「検閲」によって議論を矮小化して得られる「国益」など利益の名に値しない。「展示」によってさまざまな議論を生産的に呼び起こして得られる作家や来場者にとっての利益がなければ、「国益」などに意味はないからだ。二つの重要な作品が欠落した会場は結果的に凡庸な作品が多くを占めることになったが、そんななか、多様な人種の顔写真を転写したロールペーパーをシュレッダーで延々と切り刻む河専南の作品が異彩を放っていたのが、せめてもの救いだった。
[7月27日(木) 福住廉] |
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金子潤展
7/29〜9/18 国立国際美術館[大阪] |
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約40年前に画家を志して渡米。同地で陶芸と出合い、現在では米国を代表する陶芸家と賞される金子潤。その作品は、人間の身長を越える巨大さと、表面に施された幾何学的な模様だ。土への情緒的な思い入れが強い日本の陶芸と比べると、金子と素材の関係はあくまで造形のためのマテリアル。その割りきりがアメリカ的だと思う一方、空間を包み込むような寛容性も併せ持っており、作品は多面的な魅力を放っている。出品点数は約30点。陶芸の他、絵画やガラス作品も出品された。
[7月28日(金) 小吹隆文] |
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