小吹隆文/福住廉 |
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8/7-8/12 |
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技法考察 サイアノタイププロセス
8/1〜31 京終画廊(ぎゃらりーきょうばて)[奈良] |
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白から青への諧調が特徴の古典的写真技法「サイアノタイプ」による3人展。奥田祐記はベタ焼きによる細密描写、田中千鶴は「こころのありか」をテーマにしたコンセプチュアルな展開、徳永好恵はカメラを使わず日光写真のように光と影を直接写し取った。中でも田中の作品は、被写体がかざした手の周囲がぼんやり発光し、「こころのありか」をリアルに表現した所がユニーク。レントゲン写真のようにバックライトを使ったのが奏功した。小規模な展覧会だったがよく組織され、三者三様の魅力が十分伝わった。
[8月7日(月) 小吹隆文] |
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松山広視
8/7〜8/12 ギャラリイK[東京] |
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ギャラリーの白い壁の一点に、およそ2ミリ四方の赤い布が貼り付けられているだけの作品。もちろん最初は何も見当たらず、ただがらんとしたホワイトキューブの空間が広がるだけなので、作品を探すゲームのようになりがちである。とはいえ、だからといって、須田悦弘のように発見した「悦び」があるわけでもない。微細な四角形は一度視線を外すと、すぐに白い空間に埋没してしまうからだ。ここにあるのは観客を煙に巻く遊び心というより、むしろ禁欲的な構えであって、それはみずからの表現そのものを根本的に疑ってかかっていることの現われであるように思われた。表現することを自覚していない表現ほどタチの悪いものはないが、しかし「表現」を突き詰めていくと表現行為そのものが成立しえなくなる隘路に陥ってしまう。あの赤い点は、そのギリギリの瀬戸際を指し示す岐路だったのではないだろうか。
[8月10日(木) 福住廉] |
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混沌から躍り出る星たち 2006
8/4〜8/12 スパイラルガーデン[東京] |
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京都造形芸術大学の芸術表現・アートプロデュース学科の学生が運営する展覧会。出展作家も同大学の出身者・在学生で占められている。もともと騒々しい会場ではあるにせよ、どこか虚ろな展覧会で、こちらに訴えかけてくる作品は皆無だった。といってもそれは作品の質が低いからというわけではなく、それらの作品を支える文脈が不明瞭だったからだ。このどうにもやりきれない茫漠とした感覚が「混沌」だと言えなくもないが、タイトルに「混沌」があるからといって、混沌を混沌のまま見せても、見る者の頭のなかを混乱させるだけなのは当たり前だ。キュレイションが未熟といってしまえばそれまでだけれど、そもそもキュレイションとは作家の世話を焼くことだけを意味しているわけではない。個々の作品をどのように見せるかということを、出品作家の選定から会場構成にいたるまで、一貫して考え続けてはじめてキュレイションは成立するはずだ。本展はコンテキストを構築するという点に無自覚であることを露呈していたが、これは運営にあたった学生に非があるわけではないし、(作品の質ですら文脈に依存しているのだから)出品した作家の力量不足というわけでもない。100パーセント、教える側の責任である。美大の看板をぶらさげた展覧会は学生のお披露目としてみなされがちだとはいえ、同時に教員による教育の成果が問いただされる場であることも忘れてはならない。
[8月10日(木) 福住廉] |
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アルベルト・ジャコメッティ展 矢内原伊作とともに
8/8〜10/1 兵庫県立美術館[兵庫] |
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彫刻、ドローイングなど約140点で構成。なかでも日本人哲学者・矢内原伊作 との交流を物語る作品や資料類が豊富に出品されており、アーティストとモデ ルの関係を超えた両者の交流がリアルに伝わってきた。独特の細長いフォルム が放つ極限的な存在感は、やはり唯一のもの。作品サイズは決して大きくない のに、広大な展示スペースにまったく負けていない。これは展示プランが優れ ていたということでもある。担当者にも賞賛が寄せられるべきであろう。
[8月12日(土) 小吹隆文] |
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