小吹隆文/福住廉 |
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3/13 |
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ブレーメン・アート・サテライト「正しい答えがひとつとは限らない」
3/10〜31 京都芸術センター[京都] |
ドイツのブレーメンから3アーティストが来京。ヴォルフガング・ミヒャエルとミヒャエル・リーケンは、映像と音楽と光を用いたインスタレーションを出品した。作品は機械仕掛けの無言劇といった趣。一方、イゾルデ・ロークの作品は、何もない空間に男女の笑い声が響き渡るというもの。会場にいると、まるで自分が周囲から嘲笑されているような気持ちになってくる。また、展示室の一隅を照らすピンスポットも効果的。双方演劇的要素を多分に含むのが印象的だった。
[3月13日 小吹隆文] |
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小池歩展「おきにいり」
3/13〜18 ヴォイス・ギャラリーpfs/w[京都] |
草原や畑に佇む不思議な男。耳や鼻から植物を生やしたその姿は精霊を具現化したものか。植物への興味と愛着を描いた作品を「ナイーブ派の一種だね」と一括することも可能だが、何故か忘れがたい印象が残るのだ。滋味深い作品とでも言おうか。画廊にいる間、頭の中でビートルズの《ザ・フール・オン・ザ・ヒル》がずっと鳴っていた。
[3月13日 小吹隆文] |
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だれも知らなかったアルフレッド・ウォリス──ある絵描きの物語
2/3〜3/31 東京都庭園美術館[東京] |
アルフレッド・ウォリス(1855-1942)は、高齢になってから独学で絵を描き始めたという異色の画家。イギリスで船具商をしながら、帆船や汽船、港町の景観などをボール紙や板などに油やペンキで描いていたという。質素な画材も手伝ってか、ウォリスの絵は稚拙さと素朴さが表裏一体となったような、いかにもプリミティヴなものに見える。
70歳を越えたウォリスが当時30歳を過ぎた頃のベン・ニコルソンによって「発見」されたというエピソードは、ピカソがアンリ・ルソーを賞揚したのとまったく同じパターンが働いていたことを物語っている。中心の立場にある者が周縁の素朴な表現に自由闊達な価値を見出して中心に取り込むという、モダニズムお決まりのあれだ。本展の企画者もまた、ウォリスの絵に「現代の美術が失った素朴な味わい」を見通しているが、こうした『素朴な』意味づけは、ポストコロニアリズム批評の成果を得た今となっては、あまりにもナイーヴというほかない。いま現在、ウォリスのような絵描きを紹介するには、周縁を一方的に回収するモダニズムの厚顔無恥なモデルとは異なる軸が必要ではなかったか。
たとえば作品の解説のなかでウォリスは「たんなる『日曜画家』ではない」作家として位置づけられているが、とくにその論拠が示されているわけではないので、説得力に欠けること甚だしい。日曜画家ではないとすれば、少なくともウォリスの絵が市場で取引されるだけの価値を備えていたということだから、じっさいいくらほどの値をつけていたのかを展示のなかで説明しなければならない。そうしてはじめて、絵と暮らしが一体化したウォリスの具体的な生のありようが浮き彫りされるのであるし、結果として素朴な絵描きというクリシェを免れることができるのではないだろうか。
言い換えれば、ウォリスの「素朴さ」を払拭するには、拝借した美術作品を展示するだけでは到底不十分で、ある種のフィールドワークや実証的な調査にもとづいた展示構成が欠かせないということだ。その意味で、本展は今後の美術館の学芸業務にとって博物館的な職能がますます必要とされるであろうことを予感させていた。
[3月13日 福住廉] |
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