小吹隆文/福住廉 |
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5/28〜5/30 |
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入江陽子展
5/28〜6/2 ギャラリーDen[大阪] |
粗大ゴミから拾ってきた家具や、中古屋で入手した物品を組み合わせたオブジェ。今回は椅子を素材にした作品で統一された。クッション部分のみ手作りで、後はほとんど手を入れていない。安っぽくなりがちなタイプの作品だが、点数を抑えて空間をたっぷり取り、ピンスポットの照明を効果的に活用することでシックな世界を作り出した。
[5月28日(月) 小吹隆文] |
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山内裕美展
5/28〜6/2 Oギャラリーeyes[大阪] |
画面を塗り潰し、一部をマスキングした後再び塗り潰す。その工程を繰り返し、最後にマスキングをはがしたら完成という4層構造の絵画。描かれているのは樹木と木漏れ日だが、マスキングで作られるドットにより図と地が曖昧になり、幻惑的な絵画空間が形成される。新作では3層目が抽象的なストロークになり、一層トリッキーな趣が強調されていた。
[5月28日(月) 小吹隆文] |
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辻和美展──DailyLife
5/26〜6/23 CAS[大阪] |
約50センチのガラスの球がいくつも天井から吊り下げられ、モーターで回されている。なかには接触寸前まで接近するものも。その手前の机にはガラス製の出刃包丁が置かれていた。どうやらこれらは、現代人が社会や他人といかに距離を取っているかを暗喩したものらしい。私自身はテーマよりも美しさに心奪われてしまった。さながら都会の真ん中で繰り広げられる静かなる舞踏会であった。
[5月28日(月) 小吹隆文] |
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浅川あゆみ展──赤い双葉
5/29〜6/3 アートスペース虹[京都] |
日々の生活で出合った風景と自分の内面を織り交ぜて描いた油彩画は、スペーシーな広がりさえ感じさせるスケールの大きな仕上がり。同時に細部へのこだわりも。一方ペン画は細密な点描画で、雲のような不定形な形態が描かれている。大学を出たばかりで初個展のニューカマーだが、真正面から絵画と対峙する姿勢に好感を覚えた。
[5月29日(火) 小吹隆文] |
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ピンホール写真芸術学会設立記念特別展
5/10〜6/10 ギャラリーマロニエ、ギャラリースペース○△□、ギャラリーは ねうさぎ、ギャラリーすずき、gallery weissraum、ギャラリー恵風、prinz、ギャラリー RAKU[京都] |
約1カ間にわたり8つの会場で11の展覧会が次々と開催。鈴鹿芳康や佐藤時啓などの有名どころから海外作家、学生に至るまで、さまざまなレベル、タイプのピンホール写真が勢揃いした。オリエンテーリング気分で街を巡る楽しみも手伝って、京都の画廊入門としても機能していたようだ。展示は、やはり鈴鹿と佐藤が抜きん出ていたが、浅野久男が捉えた瑞々しい色彩の叙情的風景や、倉石馥による人間の視覚(脳が補正したビジュアル)に近似した写真、画廊をまるごとピンホールカメラに仕立てる試みなど独自のアプローチもあり、マニアでなくても十分楽しめた。銀塩写真がデジタルに駆逐されつつあるなか、レンズすら使わないピンホールカメラが浮上するのは興味深い。トイカメラに飽きた人が乗りかえる可能性もあるかもしれない。
[5月29日(火) 小吹隆文] |
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平林幸壽
5/9〜5/30 トーキョーワンダーウォール[東京] |
僧侶であり芸術家でもある平林の個展。寺院や象、麒麟などをモチーフとしたポップな平面作品を都庁の廊下で発表した。その煌びやかな色彩は、一方で絢爛豪華な極楽浄土のイメージを喚起するが、他方で通俗的で猥雑な現代文化のありようを連想させる。こうした一見すると二律背反な特性こそ平林の宗教画の神髄といえるが、それはどんな宗教的な安楽地といえども、なにかしら超越的なイメージとしてありうるわけではなく、世俗的な世界観のなかでしか成立しえないという厳然たる事実を思い起こさせる。その点、東京都庁という(いろんな意味で)もっとも芸術から縁遠い場で発表することは理にかなっているといえるが、同時に従来の神社仏閣で展示することによってその聖性を世俗化していく作業も必要とされるのではないかと思われた。いまやテンプルとしてのミュージアムは、作家の表現衝動に応えるというより、資本の要請にしたがうかたちで、フォーラムの機能を多少なりとも背負わざるをえないのだから、これにわざわざ手を貸してもあまり意味はない。むしろテンプルそのものがはらんでいるフォーラムの役割を引き出すことこそ、芸術に期待されているアクチュアリティではないか。
[5月30日(火) 福住廉] |
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平田五郎 月を盗んだワタリガラス
4/25〜5/31 GalleryA4[東京] |
アラスカで一年間にわたって行なわれたフィールドワークを発表する個展。平田の旅は、手製のカヤックでアラスカの沿岸を遡行しながら、現地で拾い集めた石や貝殻を積み上げて仮設的な彫刻作品をその場で制作し、それをみずから写真に収めるというものだが、会場にはその写真とカヤック、旅に携帯した備品などが展示されていた。またもや冒険自慢の作品かと思いきや、そうでないことは、平田の代表作ともいえるパラフィンワックスの立体作品が会場の奥に設置されていることからすぐに気づかされる。平田のフィールドワークは都市の喧騒から神話の世界に逃避するロマンティック・ジャーニーというわけではないし、彼の写真は大自然の驚異をたんに知らしめるものでもない。茫々としたワックスの空間に自閉させることで自己の内面を外在化させる作品と同じように、それは荒涼とした自然風景のなかに精神の深淵を垣間見させる写真なのだ。水辺に積み上げられた石や貝の構築物は、山頂にいつのまにかそびえ立つケルンのような匿名的な人工性を帯びているが、とりわけそれが水辺を挟んで遠景の山稜と近景の岩場をシンメトリックに切り結ぶ結節点として写されているとき、見る者はそこに此岸と彼岸の境界を見出さずにはいられないのである。
[5月30日(火) 福住廉] |
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