加治屋健司: 2009年4月アーカイブ

本日でこのブログも終わりになります。3ヶ月間にわたってお読みいただきありがとうございました。この場を提供して下さったartscapeの編集部の方々、そのきっかけを作って下さった森司さんにも改めてお礼を申し上げます。

日々の研究活動に即して文章を書くのは初めての経験でしたので、自らの行動と思考を振り返るきっかけになり、実り多い3ヶ月でした。ソウルのセミナー、『アンフォルム』の翻訳、広島アートプロジェクトなどについて考え直すことで、自分なりの課題が整理できると同時に、お読みいただいた方に多少なりとも情報提供ができたのではないかと思います。初回に予告した日本の現代美術に関して行っている共同研究について書くことができなかったのは残念ですが、いずれ別の場所で紹介したいと考えています。

藤川さんもお書きになっているように、「ブログを読んでいます」と声をかけて下さる方には大いに励まされました。これまで非常に限られた範囲の研究者に向けて文章を書いてきましたので、思いもよらぬ方からコメントをいただいたりして、大いに勉強になりました。お読み下さった皆さま、ありがとうございました。

最後に、今後の活動について簡単に記しておきます。まず、5月22日(金)に東京大学駒場キャンパスで「ロスコ的経験----注意 拡散 時間性」と題するワークショップを林道郎さん、田中正之さん、近藤学さんと一緒に行います(詳しくはこちら)。

それから、前々回書きましたように、9月半ばには広島アートプロジェクト2009を行います(こちらに情報が出ます)。9月は、東京大学教養学部と沖縄県立芸術大学美術工芸学部で集中講義をしますので、忙しくなりそうです。

他にも、執筆、発表、翻訳など進行中の企画がいくつかありますが、随時こちらに掲載しますので、折にふれてご覧いただければと思います。

皆さまといずれどこかでお会いすることを楽しみにしています。3ヶ月間、本当にありがとうございました。
前回の「広島アートプロジェクトについて(1)」の続きです。

スミソニアンアメリカ美術館での研究生活を終えて2006年に日本に戻ってきたときに驚いたのは、日本のアートプロジェクトの多さです。もちろん、アメリカにもコミュニティー・アートの歴史がありますし、韓国でもアートプロジェクトが盛んになりつつあります。しかし、全国各地でこれほど多くのアートプロジェクトが行われている国は、世界的に見ても少ないのではないでしょうか。

とは言え、現代美術に慣れ親しんだ人たちの中にも、アートプロジェクトにはそれほど関心をもっていない人はいると思います。玉石混交だという批判的な意見があることは承知しています。たしかに、キュレーター(やディーラー)によるスクリーニングを経た作品が展示される美術館の展覧会と比べると、アートプロジェクトのスクリーンは粗いものかもしれません。

しかし、そのスクリーニングの粗さは、アートプロジェクトの自由度の高さでもあると思います。自由度の高さは、クオリティを低下させる要因にもなりますが、未知なるものに挑戦するチャンスにもなります。後者は、作家が主導するアートプロジェクトにおいて重要になってくるように思います。というのも、そこでは、作家が作家の作品を選ぶわけですから、何を作品とみなすのかについて大胆な判断がしばしば行われ、美術でないものとのギリギリの境界で作品が選び取られることがあるからです。私たちの美術に対する考えを揺さぶるような作品に巡り合うことができるのがアートプロジェクトの魅力の一つなのかもしれません。

アートプロジェクトとは、ローレンス・レッシグの言葉を使えば、アートの「アーキテクチャ」について思考し、それを更新し続ける一つの重要な場なのではないかと私は考えています。アートプロジェクトによって、作品の概念も、鑑賞のあり方も、社会的な役割も、大きく変わりつつあります。アートプロジェクトを、まちづくりの観点(「クリエイティヴ・シティ」も含む)や、いわゆる「オフ・ミュージアム」の文脈で語ることも重要ですが、それと同時に、アーキテクチャとしてのアートプロジェクトについて考える時期が来ているように思います。日本におけるアートプロジェクトに対する関心の高まりが、アートのアーキテクチャに関する議論を活発にしていくことを期待してやみません。
このブログも今月で終わりですので、最後に私が関わっている広島アートプロジェクトについて書きます。

これまで書いてきたエントリーから分かりますように、私は、アメリカを中心とする近現代美術史、とりわけ美術批評史を主な研究対象としている研究者です。30代半ばまでは、主に英語の文献を読んでアメリカの美術と美術批評について考えてきました。

ところが、2007年4月に広島市立大学芸術学部に赴任して、状況が大きく変わりました。現代表現研究室の柳幸典さんがディレクターを務める「広島アートプロジェクト」という地域展開型のアートプロジェクトに携わることになったのです。赴任直後に開催された「旧中工場アートプロジェクト」には関わりませんでしたが、2008年2月にベルリンで開催した「CAMPベルリン」と、同年11月に広島で開催した「広島アートプロジェクト2008「汽水域」」には企画・運営に関わりました。

広島アートプロジェクトは、大学が中心となって企画・運営しているアートプロジェクトです。大学が中心のアートプロジェクトと言えば、取手アートプロジェクトが思い浮かぶ人が多いかもしれません。しかし、最近刊行された『アートイニシアティブ リレーする構造』(BankART1929、2009年)で東京藝術大学の渡辺好明さんが書いているように(この本では私も広島アートプロジェクトについて書いています)、取手アートプロジェクトは、最初の4年間は先端芸術表現科のプロジェクトとして行われたものの、次第に運営体制を学外・市民側に移していきました。それに対して、広島アートプロジェクトは、大学の教育の一環であることにこだわっていこうと考えています(註)。

それはなぜでしょうか。まずアートプロジェクトの担い手の問題があります。広島には、取手のように、20代後半の若い作家が近くに多くいるわけではありません。作家を志す者の多くは、大学を卒業すると、東京や京都などの大都市、あるいは海外に移り住んでしまいます。したがって、広島のような地方都市でアートプロジェクトをやる場合、担い手の中心は、現在大学で美術を学んでいる人たちになります。

そして、私たちには、アートプロジェクトを通して、大学の美術教育を変えていきたいという思いもあります。本学の芸術学部は、他の多くの大学と同様、技術の習得を重視してきましたが、その技術を社会の中でどのように活かすのか十分に教育してきませんでしたし、学生も自分たちの社会的な意味を考える必要がありませんでした。広島アートプロジェクトは、作品の制作や展示だけでなく、そのために必要な財政的な準備、地域住民や行政との交渉や調整なども学ぶ機会を提供し、アートマネジメントの能力育成と同時に、学生のシチズンシップ教育という側面も有した活動を行っています。私自身は、大学内の各種委員会で、芸術学部の教務や社会連携、中期計画作成等に関わって、教育体制の整備に向けて努力しています。

アートプロジェクトとは、「美術とは何か」という問いを生み出し続ける場だと私は考えています。この問いは、「美術館に置かれたものが美術作品となる」というデュシャン的な図式のために、長い間、美術館という制度と密接に関係してきましたが、今日、状況は大きく変わりつつあります。美術館とは無関係の場で制作される美術作品はますます増えています。その一つの場がアートプロジェクトです。街なかの展示では、作品と物体を区別する仕組みがあまり機能しませんし、アートプロジェクトは作品を購入しません。まちづくりを目指す行政中心のアートプロジェクトと違って、大学が中心となるアートプロジェクトにおいては、「美術とは何か」という問いはより根源的になり、作品はより実験的になります。学生の中で作家になれる者がごくわずかであるという事実は、その問いをさらに切実なものにします。大学主体のアートプロジェクトは、「美術とは何か」という問いを最も深刻に受け止めて、美術を前に進めていく重要な役割を担っていると思います。

なお、広島アートプロジェクト2009は、今年の9月半ばに予定しています。ぜひご来場いただければと思います。


広島アートプロジェクト実行委員会は、広島市、広島市文化財団、広島市現代美術館の職員、広島市立大学の教職員、広島市民等からなる非営利団体です。本文は、あくまでも広島市立大学の教員としての立場に基づいた意見を述べたものであって、実行委員会自体が大学の教育をもっぱらに考えているわけでは必ずしもないことをお断りしておきます。
新学期が始まり、あわただしくしています。今回は、大学で担当している美術史の授業について書きます。

昨年は、学部で「現代美術史」として1945年から2005年までの美術を講義し、大学院では、第二次世界大戦後の美術の代表的な作家(ジャクソン・ポロックからヴォルフガング・ティルマンスまで)を毎回1人ずつ取り上げる授業をしました。

今年は、学部では昨年とほぼ同様の授業をしていますが、大学院では批評理論を扱うことにしました。

私の所属する芸術学部は実技の学部で、授業中に現代美術の作品を説明するときに、その作品を理解する上で必要な批評や研究について最初から説明しなければいけないことがあります。ミニマル・アートを論じるときには、クレメント・グリーンバーグからマイケル・フリードへの批評の展開や、ドナルド・ジャッドとロバート・モリスの言説的な差異について、やはり触れておきたいと思うのですが、それを説明するだけで、けっこう時間がかかってしまいます。また、こうした言説を紹介しておかないと、作品について豊かに語ることも難しくなってきます。そこで、現代美術を理解する上で必要と思われる文章を13本選んで、毎回1本ずつ取り上げて論じることにしました。

選んだテキストは、現代美術の専門家でなくても、美術に関心がある人ならおおよそ知っているものばかりです。ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、モーリス・メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」、クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」と「モダニズムの絵画」、ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」、スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」、ドナルド・ジャッド「特殊な物体」、マイケル・フリード「芸術と客体性」、レオ・スタインバーグ「他の批評基準」、ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」、フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」、ホミ・K・バーバ「まじないになった記号 アンビヴァレンスと権威について――1817年5月、デリー郊外の木陰にて」、アーサー・ダント「芸術の終焉の後の芸術」。本当は全て原文で(少なくとも英語で)読みたいところですが、実技系の学生にそこまで要求することもできず、全て日本語で読むことになります(実は、翻訳の質の問題があるのですが、ここでは措きます)。

以前のエントリー「美術批評とアンソロジー」で書いたこととも関係しますが、こうした論文を集めた日本語のアンソロジーは存在しません(『反美学』や『視覚論』のように原著がアンソロジーであるものを除いて)。日本にはアンソロジーの文化がありませんし、翻訳を助成対象にする出版助成金もほとんどありませんので、採算が取りにくいのかもしれませんが、かつては、『現代の美術 別巻 現代美術の思想』(講談社、1972年)や『モダニズムのハード・コア』(『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、1995年)など、アンソロジーの要素をもった書籍が刊行されて、好評を博したこともあります。良質な翻訳による現代美術のアンソロジーが出版されることを心より期待してやみません。
『アンフォルム』の翻訳の話の続きです。

前回、『アンフォルム』の方法論的な慎重さや作品重視の姿勢について書きました。それは現代美術の専門家だけを対象としているということではありません。むしろその逆で、現代美術の研究者以外の方にも手に取ってもらえればという思いが私にはあります(なお、以下に書くことは私の個人的な考えであって、訳者同士あるいは出版社との共通見解というわけではないことをお断りしておきます)。

まずお勧めしたいのが、現代美術に関心がある一般の方々です。近年は、出版物の刊行や美術館の教育普及活動等により、現代美術の作品に対する解説や説明に触れる機会が増えてきましたが、作品のもっている歴史的、理論的な背景をここまで真剣に掘り下げている本はそう多くありません。文章は決して平易ではありませんが、それを読んだ後、作品を理解するということがいかにスリリングな体験であるのかがよく分かります。この本に取り上げられている作品の多くは、アメリカやヨーロッパの現代美術館でよく見かける作品ですので、海外で美術作品を見るときにも大きな助けとなります。

また、キュレーターの方にも興味を持って読んでいただけるのではないかと思います。もともとこの本は、イヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスが企画した展覧会のカタログだったこともあり、作品の選択自体にさまざまな主張があります。たとえば、ブルース・ナウマンの《私のスチール椅子の下の空間 Space Under My Steel Chair》(1965-68)は、椅子の下の空間をコンクリートで固めて反転させて作った彫刻作品ですが、この作品が選ばれたのは、同種の作品が「署名作品signature work」となっているレイチェル・ホワイトリードのやや高すぎる評価に対抗するためであったことは明らかです。キュレーターは、現在、制作されている作品に価値を与えていくと同時に、それがどのような歴史を作り出しているのかについても自覚的に活動しています。美術作品を歴史に位置づける際の研究者側の有力な視点の一つを『アンフォルム』は提供していると思います。

そして、哲学思想に強い関心があり、同時に美術にも多少関心がある方にも、興味を持っていだたけるのではないかと思います。日本の読書層は、哲学思想への関心が高く、長い伝統があります。哲学者や思想家はしばしば美術作品を参照しますが、彼らよりもずっと巧みにかつ面白く美術作品を持ち出しているのが本書です。一見すると取りつく島がないように見える現代美術の作品が、理論的にアプローチすることでまったく違って見えるようになると同時に、その理論のもとになった哲学思想もまた新鮮に見えてくるのではないかと思います。

最後に、現在、作品制作に携わっている作家の方々にもお読みいただければと思います。私は、立場上、若い作家や学生のポートフォリオを見たりプレゼンテーションを聞いたりすることがあるのですが、そのときに思うのは、理論的に考えることの大切さです。「理論的に考える」とは、特定の理論的な立場に立って考えるということではなく、曖昧さを残すことなく徹底的に考え抜くということを意味するとすれば、本書は、そうした理論的な思考を鍛え上げる道具として第一級の価値があります。決して平易な本ではありませんが、読み終わった後に得るものもまたその分大きいことは保証できます。

以上書いてきたように、『アンフォルム』は、現代美術の専門家だけを対象とした本ではなく、様々な分野や立場の方々にとっても面白く読むことのできる本です。訳者の一人としては、上記以外の方々にも手を取っていただければ、望外の喜びです。『アンフォルム』のように学際的な性質をもち、より広い読者層に開かれている未邦訳の本は、まだまだあると思います。本書に関心をもって下さった月曜社の炯眼に感謝すると同時に、こうした書籍がこれからもっと注目を集めていくことを心より祈念しています。
先月、翻訳の仕事が一段落しました。近藤學さんと高桑和巳さんと一緒に翻訳していたイヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスの『アンフォルム 無形なものの事典』の校正がほぼ終わりました。3人で翻訳しようと言い始めてから随分と年月が経ってしまい、その間お待ちいただいた方には大変申し訳なく思うと同時に、ようやく出版できそうでほっとしています(月曜社から出版されます)。本来なら、こうした文章は、刊行されてから書いたほういいのでしょうが、このブログも4月末までですので、今の時点での思いを書かせていただきます。

この本は、アメリカで活躍する二人の美術史家が、バタイユの用語を方法論として練り上げながら、主として第二次世界大戦後の美術を論じたものです。もとは、二人が96年にパリのポンピドゥー・センターで企画した展覧会「アンフォルム 使用の手引き」の図録として出版されました。翻訳は97年に出版された英語版に基づいて行いましたが、フランス語版にも一通り目を通して異同もチェックしています。

著者のボワとクラウスは、それぞれプリンストン高等研究所教授とコロンビア大学教授で、アメリカを代表する美術史家です(ボワはアルジェリア生まれのフランス人ですが、80年代半ばからアメリカで活動しています)。ともに学術誌『オクトーバー』の編集委員を務め、様々な理論を援用して美術史の方法論を変革しつつ、主に20世紀の美術作品について画期的な解釈を行ってきました(二人については、林道郎さんによる優れた紹介が『美術手帖』の1996年2月号と5月号に載っています)。

この本は、タイトルにある「アンフォルム(無形なもの)」から分かるように、第一に、クレメント・グリーンバーグが提唱したフォーマリズムに対する批判を目指しています。フォーマリズムに対する批判はその同時代から始まって、1980年代半ば以降は理論的に再検討する作業が進みました。ボワもクラウスも、それぞれの著書や論文の中で幾度となく論じています。本書は、さまざまな論者によって行われたフォーマリズムの再検討を踏まえつつ、これまでの二人の議論を集大成したものと言ってよいでしょう。

それと同時に、この本は、90年代前半に注目を集めていた「アブジェクト(おぞましいもの)」に対抗することも目指しています。松井みどりさんが『アート "芸術"が終わった後の"アート"』にまとめている通り、90年代前半には、アブジェクトと多文化主義に対する関心が高まりましたが、前者に対してはこの本が、後者に対しては1996年夏の『オクトーバー』77号のヴィジュアル・カルチャー特集が、否を突きつけたことになります(当時クラウスははっきり "I hate visual culture." と言っていました)。ボワとクラウスは、フォーマリズムだけでなく、反フォーマリズムの文脈で注目された「アブジェクト」に対しても批判の矛先を向けたのです。

この本を最初に読んだときに印象深かったのは、方法やその対象に対する姿勢の慎重さでした。実は、ボワもクラウスも、一般的に思われているほど、新しい理論や方法に関心をもつような美術史家ではありません。本書に出てくるのは、バタイユだったり、精神分析だったり、記号論だったりと、とても「古くさい」理論ばかりです。フォーマリズムに一時期慣れ親しんでいた二人は、この本において、自分たちが依拠してきた方法を再検討して批判するという、地味な作業を行っています。丸山昌男が『日本の思想』で論じたように、新しい理論が出てくると、それまでの理論は古くさく見えてしまい、新しいものに取って代えようという動きがよく起こりますが(これは日本だけの現象ではなくアメリカのアカデミアでも一部見られます)、そのように意匠として理論を扱うのではなく、自らが依拠してきた方法を愚直なまでに検討し続けているところに新鮮な思いがしました。

そして、それと同時に、彼らが最終的には作品の解釈を豊かにすることを目指しているところも印象的でした。本書はきわめて理論的な書物で、フォーマリズムやアブジェクトに理論的に対抗するという側面もありますが、他方で、彼らの大きな関心が、どうしたら作品をこれまでとは違ったやり方で見ることができるかというところにあることも事実です。二人は、一般的に思われているのと違って、作品分析を重視しています。美術史でもホミ・バーバの議論が注目を集めたこともあり、昨今、作品そのものよりはそれが生産・流通・受容された時代や地域、状況の分析に重きを置く論文が増えましたし、私自身そうした論文を何本か書いたことがありますが、絶えず作品に還っていこうとする二人(とくにボワ)の姿勢を見ると、いつもハッとさせられる思いがします。
私が勤務している広島市立大学芸術学部は実技系の学部で、美術学科には、日本画、油絵、彫刻の各専攻が、デザイン工芸学科には、視覚造形、メディア造形、立体造形、金属造形、漆造形、染色造形の各分野と現代表現領域があります。全ての学生は、制作として芸術を学んでいます。

私以外の教員は全て、実技を教える教員で、芸術学部では私だけが「理論系教員」と呼ばれる美術史担当の非実技系教員です。もちろん、一人で美学美術史をすべて教えているわけではありません。美学や日本美術史は国際学部の教員が担当していますし、西洋美術史や東洋美術史などは非常勤講師が教えています。私は現代美術史を受け持っています。

この大学に赴任する前も作家や実技系の学生と知り合う機会はありましたが、私は美術大学の出身ではないので、学生から教員まで周りがここまで作家ばかりという環境は初めてです。もちろん、それゆえに苦労することもなくはないですが(特に校務で)、総じて新鮮な環境を楽しんでいます。

現代美術を教える現代表現領域の授業では何度も作品の講評をしていますし、授業以外で講評を求められることもよくあります。これまで、本当のコンテンポラリーの作品はもっぱら見るばかりで、書く文章は、「現代美術」と言っても数十年も昔の歴史的な作品や作家を対象にしてきましたので、最初は多少の戸惑いを覚えたのは事実ですが、じきに興味を覚えるようになりました。作り手の考えを身の丈で考えるようになりましたし(そもそも研究者もある意味で「作り手」です)、作家である他教員や、非常勤講師などで来学する批評家や学芸員の方が講評する場に立ち会うのも得難い経験です。

現代美術の作品を見るという経験は、研究者が議論を作り上げるプロセスに似たものがあります。最初に受ける印象は漠然としているのですが、そのときに心に引っ掛かったことが徐々に見えてきて、それを明らかにするうちに、あるとき「見えてくる」という経験です。昔、クレメント・グリーンバーグの美術批評における「瞬間性」論を、マイケル・フリードの「瞬間性」論と峻別して、再解釈する論文を英語で書いたことがありましたが、そのときに考えていたのは、まさにそういうことでした。制作と研究はそれほど大きくかけ離れた事象ではないと私は考えています。

研究者として以前から考えてきたことを、作家や作品と触れ合う中で実際に体験するということもありますし、その反対に、作家や作品との対話の中からある種の言説が立ち上がってくることもあります。現在の恵まれた環境をうまく活用しながら、現代美術に関する自らの議論を練り上げていければと考えています。

ブロガー

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