僕自身のテーマは、パッサージア(Passasia)、つまり Asia As Passage という意味の造語を使っています。これは、アジア主義、つまりマルチカルチュラリズムの原理主義の危険性を美術の上でも感じるので、それを打破するためにアジアを相対化してしまおうということです。そのために、何人かはアジアの外に住む作家を選んでアジアがパッサージュとしての状態しかあり得ないということを証明しようと思っている。でもそれは常に流動していくから、どこかに重りをつけなければならない。それがここでは「身体」なのかもしれない。