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メディアから考えるアートの残し方
後編 歴史の描き方から考える──展示、再演、再制作

畠中実(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員)/金子智太郎(美学・聴覚文化研究、非常勤講師)/石谷治寛(視覚文化研究、京都市立芸術大学芸術資源研究センター)

2019年04月01日号

美術館ではコンサバターやレジストラーといった専門家が、アート作品の保存や修復、管理を担っています。しかし、モノとして保存することが難しい作品の場合、どのように未来に伝え、残すことができるのでしょうか。近年はメディアの特性を活かした作品の再制作や再演も行なわれています。メディアの視点から、再演や再制作、そして「作品」という枠組みやその経験のあり方を捉え直す企画の後編です。
日本美術サウンドアーカイヴを主催する金子智太郎氏、90年代の京都のアートシーンを調査する石谷治寛氏、そしてICC主任学芸員の畠中実氏にお話いただきました。研究者や学芸員の立場から、それぞれの活動を通して議論します。

(本鼎談は2018年11月の収録原稿をもとに、2019年3月に加筆修正を加えました)


日本美術サウンドアーカイヴ



──まずは、金子さんが主催されている日本美術サウンドアーカイヴについてお聞かせください。


金子智太郎 日本美術サウンドアーカイヴは、日本の美術における音を用いた作品を調査して、その成果を発表するプロジェクトです。畠中実さんとの共同主催で2017年に始まりました。現在は日本の1970年代に焦点を定め、その時代につくられた作品を、作家本人に再制作や再展示、再演していただいてきました。作家がお亡くなりになられている作品は自分たちで手がけています。また作家が所有する過去の音源をカセットエディションにして販売したり、レコードの制作もしています。

活動の背景には、これまでの日本美術のなかで音がどう扱われてきたのか、その歴史を知りたいという動機があります。実際に音を聞くことが重要です。美術史は基本的に視覚資料が中心なので、残されている資料には音についての情報がほとんどありません。どんな音だったのかを実際に聞いてみたい、これもプロジェクトの重要な動機です。

調査は作家から直接話を聞いたり、作品に関わった方々や作家のご家族に資料を見せていただいたりしています。展示や再演ではできるだけ当時使われていたものに近い音響機材を使います。

これまでに再演のイベントを2回、個展を5回開催して、活動をふりかえり録音や映像資料を展示する資料展も1回開催しました(2019年4月1日現在)。カセットエディションは個展にともない4つ制作しました。個展の会場で販売し、その後はネットなどでも販売しています。レコードもオンラインで購入できます。

──美術史では視覚資料が中心ということですが、日本美術の「音」をアーカイブすることには、どのようなねらいがありますか?


金子 作品をなんらかのかたちで保存するのが理想ですが、そこまではできていません。そこで、まずは作品の音へのアクセスをさまざまなかたちでつくりたいと考えています。


畠中実 音を使った作品に注目していることと、70年代に焦点を当てていることには関係があります。60年代の「反芸術」から「もの派」にいたる時代のあと、どのように「制作」を再開するかという課題に対して、音や映像がどう寄与したのか。そうした関係性を探ることも、日本美術サウンドアーカイヴのひとつのテーマです。70年代は「もの派」以後における、制作概念の喪失のなかで「つくること」の問い直しが行なわれた時代です。そこで、例えば辰野登恵子さんがノートの罫線を使ったりしたように、システマチックな手段が制作に用いられたわけです。同様に、制作のきっかけとして、映像や音、ヴィデオやテープレコーダーといった、別のメディアを使うことが求められた。2015年に行なわれた東京国立近代美術館の「Re: play 1972/2015─『映像表現 ’72』展、再演」展での再展示も、そうした意味での70年代という時代の検証の試みだと思います。


金子 日本美術サウンドアーカイヴは、「サウンド・アート」の過去作品を探すことが目的だと思われがちですが、このカテゴリを拡張したいわけではありません。この活動の目標のひとつは、いわば日本美術の「聞こえかた」を検討することです。このことは当然美術の見え方とも関わっていると思います。




金子智太郎氏


保存修復ガイドとクロニクル京都


──石谷さんは京都市立芸術大学芸術資源研究センター(芸資研)で、作品の修復保存のプロジェクトに関われています。

石谷治寛 私が所属する芸資研では、2016年に古橋悌二のヴィデオ・インスタレーション《LOVERS──永遠の恋人たち》(1994/1998)の修復と、その資料展示を行ないました★1。《LOVERS》の設計図や技術的な要件といった、メディアアートを成り立たせているさまざまな付随情報を展示したのですが、資料を展示することで見えてくるものが多いなと感じました。

《LOVERS》という作品のポテンシャルは、非常に複雑な機構をもっていると同時に、メディアアートの国際的な広がりの歴史とも重なっていることです。《LOVERS》が制作された1995年という時代は、映画が発明された100年後の年であり、リヨン・ビエンナーレではメディアがテーマの展覧会が行なわれたり、翌年の96年にはオーストリアのリンツでアルス・エレクトロニカ・センターが開館します。世界中でメディアアートが美術のビエンナーレやフェスティバルで展示されました。日本ではちょうどICCも立ち上げの準備をしていた時期でした。こうした国際的な機運と《LOVERS》という作品がマッチしていたと思われます。作品の展示歴を見るだけでも面白さのある作品だと思います。




古橋悌二《LOVERS──永遠の恋人たち》(上)、資料展示(下)
「KAC Performing Arts Program / LOVERS」(京都芸術センター講堂、2016)[撮影:表恒匡]


──その後、石谷さんは1990年代の京都の多様な表現活動の背景をまとめた「クロニクル京都1990s──ダイアモンズ・アー・フォーエバー、アートスケープ、そして私は誰かと踊る」(森美術館、2018-2019)という展示を企画されました。


石谷 この展示も《LOVERS》がきっかけになっています。《LOVERS》ではヌードの男女8人が出てきます。「何も身に着けていない裸の男女」というコンセプトなので、個人の名前そのものは重要ではないのですが、実際に出演しているのはダムタイプのパフォーマーだったり、古橋悌二さんの友人であったりして、周りで同時期に行なわれていたさまざまな活動と結びついていることを掘り下げたいと考えました。

2016年にMoMAで《LOVERS》オリジナル版が再展示されたときに、ナン・ゴールディンの《性的依存のバラード》(1978-86)という作品も同時期に展示されていました。これは、彼女の周りにいたHIVで亡くなった人などの親密な生活を、スライドショーで見せる作品です。同時に、その作品がこれまでどういったところで上映されたのか、イベントの資料やフライヤーも併せて展示されていたのです。それに対して、《LOVERS》の周りにあるコンテクストがわからないと、古橋悌二自身が抱えていた問題もぜんぜん伝わらないのではないかと思ったんですね。それを伝えるためには作品に周縁する歴史的な資料を、ちゃんと発信していかないといけない。そう強く思ったことが、「クロニクル京都」の展示につながっています。




石谷治寛氏


ダムタイプ周辺では、クラブで行なうイベントも非常に大きな意味をもっていました。《LOVERS》の展示をしたときに、ダムタイプオフィスの高谷史郎さんと高谷桜子さんが、古橋悌二の誕生日パーティをクラブメトロで始めました。それはここ数年毎年行なわれています。そこではクラブという場で、括弧付きですが、当時の雰囲気の「再演」をしているとも言える。私は最初のイベントのときに、ダムタイプの《S/N》(1994)のプロジェクトに関わっていたブブ・ド・ラ・マドレーヌさんとコンタクトを取ることができました。《S/N》を制作していた90年代にはアートスケープと名付けられた場所でダムタイプの作品制作とは別の活動が幅広く展開していました。彼女のところには、その時の資料がたくさんあるということで、それを整理してリサーチしていこうというところから始まっています。

資料のなかには、スライドやヴィデオの記録がたくさんありました。先ほどのナン・ゴールディンの発想と近いのですが、90年代はスライドを使ってパブリックに親密な関係を見せたり、HIVで亡くなった人を追悼したり、そういった活動はニューヨークでもあって、スライドは当時のメディアとして大きな要素でした。

そういったスライドやHi8で撮られたヴィデオをどうするかが課題です。テープメディアそのものにカビが生えていたり、劣化して普通の機器で再生すると切れてしまったり、かなり弱っているので、とりあえずデジタル化をするなど、まずは、痛みそうなものを救出するところから進めていこうと思い、1年くらい資料整理をしたりしていました。



APP制作のスライド資料


石谷 クラブという要素が、ダムタイプや当時の活動を考えるうえで非常に重要だなと思っています。《OR》以降のダムタイプの音の担当は池田亮司さんですが、それまでは山中透さんが担当していました。彼はもともと現代音楽に近い感じのスタイルだったのですが、80年代末からハウスミュージックのスタイルを積極的に取り入れていく。音楽のスタイルを変えていくことと、ダムタイプの《pH》の音楽やライティングといった空間の構造は、クラブへのアプローチとつながってくるのではないかと思います。

同時に、古橋悌二さんは「ダイアモンズ・アー・フォーエバー」というドラァグ・カルチャーのクラブイベントも行なっており、単に作品としての音楽ではなく、音楽をどう捉え直して、美術を超えたより広い活動へと、アーティストやミュージシャンがどのように展開したのかを掘り下げたいという思いがありました。それが森美術館でのリサーチのポイントになっています。



「MAMリサーチ006:クロニクル京都1990s──ダイアモンズ・アー・フォーエバー、アートスケープ、そして私はだれかと踊る」展示風景(東京・森美術館、2018)[撮影:木奥恵三、画像提供:森美術館]


畠中 ダムタイプは当時から「S/Nのためのセミナーショー」というパフォーマンスとトークのイベントを開催して、作品の前段になる文化的動向を拾っていこうとする活動を自ら行なっていましたね。その後も、ダムタイプとその周辺の美術にとどまらない活動を検証する機会が多くありました。2009年に「S/Nについて、語られなかったこと」というシンポジウムが京都精華大学で開催されたり、2011年に早稲田大学の演劇博物館で「LIFE with ART 〜ダムタイプ『S/N』と90年代京都」という展示もありました。京都精華大学(当時)の八巻真哉さんは、ダムタイプ作品の上映を継続して行なうなど、当時のクラブやサブカルチャーといった横のつながりをまとめた資料も制作していましたね。


石谷 そうですね。「クロニクル京都」の背景には、そうした先行する活動があります。これまでの試みで資料の大枠は見えていたので、今回は、ヴィデオやスライドなどのデジタル化も含めて行なうことで、アップデートすることができたかなと思います。

★1──国立国際美術館やダムタイプオフィスなどとともに、「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復/保存に関するモデル事業」の一環として行なわれた。その修復の詳細は、平成28年度メディア芸術連携促進事業として実施した「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の保存・修復・記録のガイド」としてまとめられた。

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