アート・アーカイブ探求
ウジェーヌ・ドラクロワ《アルジェの女たち》──煌めく古代「高橋明也」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年05月15日号
※《アルジェの女たち》の画像は2022年5月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
豪奢と静謐と甘美
ツツジが咲き誇っていた。街路樹のツツジが花を重ねて町を彩り、目を奪われた。ピンクや白、紫がかった赤など、過酷な環境にも耐え、空気を清浄にする効果もあるという。近づくと甘い香りがしてきた。毒成分を含む品種があるので注意が必要だが、華やかさと甘い香りに初夏の訪れを感じることができる。
エキゾチックな水キセルの香りが漂ってきそうなウジェーヌ・ドラクロワの代表作《アルジェの女たち》(ルーヴル美術館蔵)を見てみたい。西洋でも東洋でもない中近東、北アフリカにあるアルジェリアの室内を描いている。旅したことのない未知の世界だが、薄暗い空間に豊潤な女たちが佇み、上質な衣服や指輪、ネックレス、模様の入った壁や装飾額の付いた鏡など、アクセサリーやインテリアが宝石のように煌(きら)めく。色彩の色と、光の色に満たされ、豪奢と静謐と甘美とが混在し、画面中央にあるトンネルのような暗闇に引き込まれる。光と影のはざまにドラクロワは何を描いたのだろう。《アルジェの女たち》の見方を東京都美術館の館長、高橋明也氏(以下、高橋氏)に伺いたいと思った。
高橋氏はフランス近代美術史を専門とし、かつて国立西洋美術館在籍時には『ドラクロワ 色彩の饗宴』(二玄社、1999)の編訳や、展覧会「ドラクロワとフランス・ロマン主義」(国立西洋美術館、1989)の企画を担当されてきた。東京・上野の東京都美術館へ向かった。
パリへ12歳の航海
1926年に開館した日本で最初の公立美術館である東京都美術館では、特別展「スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」(2022.4.22~7.3)が開催されていた。まん延防止等重点措置の期間(3.7~21)が終わったこともあってか、平日だったが美術館は賑わっていた。展覧会の初日でもあったその日、高橋氏は多忙ななか、ドラクロワについて時間をつくってくれた。
1953年東京都に生まれた高橋氏は、東京オリンピックの翌年(1965)の小学6年生のときにパリへ行くことになった。早稲田大学で教鞭を執り、フランス文学を研究していた父が交換教授でパリ大学へ1年間行くことになり、母共々同行したのだ。フランス象徴派の詩人ランボー(1854-91)を研究していた父の希望により、横浜からマルセイユまで、島崎藤村(1872-1943)や藤田嗣治(1886-1968)ら文化人の利用した定期航路をたどり、ランボーゆかりの地アラビア半島の南西端イエメンのアデンや、アフリカ北東部ジブチのジブチ市といった紅海周辺の都市に寄港。片道40日、往復80日間の船旅だったという。言ってみれば、オリエンタリズムの逆方向の体験だろうか。
当時のパリには日本人学校がなく、現地校にも入学時期が合わず入れなかった。高橋氏は、子供は入学不可だった外国人向けのフランス語学校アリアンス・フランセーズに特別に入れてもらい、母と共に通ったそうだ。また、週に一度ある入場無料の日にルーヴル美術館へ行き、滞在していたホテルにほど近かったサン=シュルピス教会には毎日のようにドラクロワの大壁画《天使とヤコブの闘い》と《神殿を追われるヘリオドロス》(共に1856-61年作、751×485cm)を見に行った。「大きさも色彩もすべてに感動したことをいまもよく覚えている」と高橋氏。その教会から300メートルほどのところには、中庭のある閑静な佇まいのドラクロワのアトリエ(現国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館)があった。この体験が美術の世界に入る動機のひとつとなった。
高橋氏は一時、映画や芝居をやりたいと思っていたが、最終的に1972年東京藝術大学の美術学部芸術学科へ入学、1980年同大学大学院美術研究科修士課程を修了した。卒論はドラクロワの《天使とヤコブの闘い》、修論はマネについて書いた。
1980年に国立西洋美術館へ就職し、1984年から文部省在外研究員として渡仏、2年間パリのオルセー美術館開館準備室で客員研究員を務め、2006年国立西洋美術館の学芸課長を退職した。その後は、街の真ん中につくる新しい美術館、東京・丸ノ内の三菱一号館美術館の初代館長に就任し、コレクションの収集から展覧会の企画、広報まで幅広く活動を行なった。定年を迎えて退任後、2021年10月からは東京都美術館の館長を務めている。
《アルジェの女たち》を高橋氏が最初に見たのは12歳のときだった。パリにいた頃ルーヴル美術館へ毎週のように行っていたときで、《アルジェの女たち》をはっきり記憶しているという。高橋氏は「ドラクロワ独特の甘美なムードがあって、女性がいかにも無垢で可愛い」と思ったそうだ。
受け継がれたロマン主義
フェルディナン=ヴィクトール=ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年フランスのパリ近郊シャラントン=サン=モーリスに生まれた。父シャルル・ドラクロワは政府高官で外務大臣やオランダ大使も務めたことがあった。母ヴィクトワール・ウーベンはルイ15世の宮廷家具師の娘だった。兄2人と姉1人の4人兄弟の末っ子だが、実父は高名な政治家タレーラン公爵(1754-1838)という説もある。
1805年7歳のとき父が死去してしまう。翌年に母とパリへ引っ越し、ドラクロワは国立中等学校リセ・アンペリアル(現リセ・ルイ=ル=グラン)の寄宿生となる。16歳のときに母が亡くなり、一家は破産の窮地に追い詰められた。ドラクロワはリセを卒業後、画家として身を立てることを決意して1815年、17歳のとき叔父で画家のアンリ・リーズネルの勧めで新古典主義ティツィアーノ(1488/90-1576)やヴェロネーゼ(1528-88)、バロックのルーベンス(1577-1640)など、巨匠の作品を模写する。もっとも影響を受けたのはルーベンスだった。アカデミックな伝統的様式に憧れながらも、一方では内なる声に導かれて描く必要性を感じていた。
の画家ピエール=ナルシス・ゲラン(1774-1833)のアトリエに入門した。翌年には国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学し、ルーヴル美術館へも通い色彩豊かなヴェネチア派の19世紀初頭、ヨーロッパを席巻していたロマン主義メデューズ号の筏》のモデルを引き受け、またその作品に感動して1822年に《ダンテの小舟》を描きサロンにデビューする。奔放な描法に賛否両論あったが、新古典派の巨匠ダヴィッド(1748-1825)の弟子であったアントワーヌ=ジャン・グロ(1771-1835)から称賛され、国家買い上げとなり、24歳のドラクロワはたちまち有名になった。しかし、2年後ジェリコーが落馬事故で亡くなり、ドラクロワがロマン主義の後継者として見なされるようになっていく。
のなか、ドラクロワは、ゲランのアトリエで敬愛する兄弟子だったテオドール・ジェリコー(1791-1824)のロマン主義絵画《目の前の自然を深い感覚で捉えるコンスタブル(1776-1837)やボニントン(1802-28)、壮大な構図の中に色彩を駆使したターナー(1775-1851)などの風景画家、レノルズ(1723-92)やローレンス(1769-1830)などの肖像画家に関心を寄せていたドラクロワは、1825年イギリスへ行き、多くの美術館を訪ね、シェイクスピアの演劇にも感銘を受けた。イタリアの詩人ダンテの『神曲』やイギリスの詩人バイロンの戯曲などの文学のほか、ギリシア独立戦争やフランス七月革命など社会の出来事を主題に制作を行なうようになった。1831年サロンに出品した大作《民衆を導く自由の女神》は好評を博し、国家買い上げとなってレジオン・ドヌール5等勲章を受章した。
近代美術の先駆者
ドラクロワにとって34歳の1832年は大きな転機であった。フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアへ随行することになった。19世紀ヨーロッパ列強は領土拡大のため、地中海沿岸へ進出。フランスは1830年の七月革命の直前、6月にフランス軍をアルジェリアの首都アルジェに上陸させ占領、アルジェリアを植民地とした。フランスはアルジェリアの西隣モロッコと友好関係を樹立する必要性が生じていたのだ。モロッコの太守と外交関係を結ぶためにシャルル・ド・モルネイ伯爵率いる使節団を派遣した。
18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方世界への関心が高まっていた。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め「オリエンタリズム(ヨーロッパ人が中近東の風俗や事物に憧れと好奇心を抱く異国趣味)」という流行が起こり、ドラクロワも中近東や北アフリカのイスラム文化圏に憧れていた。地中海の強烈な光と鮮やかな色彩にドラクロワは歓喜し、アラブ人たちの古代から変わらない地中海民族に共通する習俗や生活の特色を発見し、休む間も惜しんで目の前の風景や人物をスケッチ帳に写し取った。新古典主義的な古代に対する反証とも言える、生きた古代を描き出した。
帰国後ドラクロワの画面は明るく多彩になり、《アルジェの女たち》をはじめ優れた作品が生まれた。そして、フランス政府や教会からの依頼によって装飾壁画を制作。ブルボン宮の「国王の間」、リュクサンブール宮図書室、ルーヴル宮「アポロンの間」、パリ市庁舎「平和の間」、サン=シュルピス教会聖天使礼拝堂など、少ない助手を使い時間をかけてほとんど独力で仕上げた。
高橋氏は「あまり指摘されないが、いわゆる色彩系の画家と言われる人たちの作品は一般的に画集図版あるいはデータ画像などの際に色を出すのが難しく、線描が強調される人々に比べて不利な状態にある。皆さんも画集などで『色彩画家』などと説明されている割には薄汚れて暗い画面に首を傾げたこともあるのではないか。とりわけ19世紀頃に描かれた油彩画の場合、黒はほとんどつぶれてしまう。ドラクロワの時代は、ビチュームという石油系・化学系の絵具を使い始めた頃で、経年変化がひどく、溶けて変色し、割れてしまうことも多い。画集などの印刷物を見てもそうした汚さばかりがしばしば強調され、残念な場合が多い。実際の作品を見るときには、良い状態を保っている部分もそこここにあるので、それらからうまく補って考えていくしかない」と言う。
1855年57歳になったドラクロワは、ライバルと言われた画家アングルと並んでパリ万博美術展の特別室が与えられ、レジオン=ドヌール3等勲章を受章。1857年には念願の美術アカデミー会員にも選出された。また、批評家としての執筆活動も後半生の大きな部分を占めた。喉頭炎が悪化し、生涯独身で30年間仕えてきた家政婦ジェニー・ル・ギユーに看取られ、1863年8月13日自宅で亡くなった。9,000点を超す作品が残った。サン=ジェルマン=デ=プレ教会で葬儀が行なわれ、ペール・ラシェーズの墓地に埋葬された。享年65歳。新古典主義に対して、個性的表現を重んじるロマン主義を確立した近代美術の先駆者であり、絵画作品においても思想においても豊かな足跡を残した巨大な存在であった。
【アルジェの女たちの見方】
(1)タイトル
アルジェの女たち(あるじぇのおんなたち)。英題:Women of Algiers in their apartment
(2)モチーフ
ハーレム
、女たち、衣装、アクセサリー、サンダル、絨毯、クッション、カーテン、タイル壁、家具、鏡、水キセル、火鉢、炭挟み、瓶、グラス。(3)制作年
1834年。ドラクロワ36歳。同様の構図とタイトルで1849年にも《アルジェの女たち》(フランス・モンペリエ、ファーブル美術館蔵)を描いていた。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦180×横229㎝。
(6)構図
見降ろした視点から、手前に左側の女、次に右手の黒人、片膝を立てる女、中央のあぐらを組む女へと奥へ向かい、最奥部は濃い陰影でよく見えないが家具がある。各要素が密接に関係した有機的な構造の絵画であり、画面左上から光線が対角線上に入り、3人の女を通り、身体をひねった黒人でUターンし、鏡で返って画面中央の闇へと螺旋状に視線を導く。座る3人と立つ黒人の対比は、美と醜でありながら静と動を感じさせ、ハーレムの女たちの隷属的な地位を暗揄的に描いている。
(7)色彩
赤、橙、黄、緑、茶、白、黒、青、紫など多色。全体に調和した落ち着いた色調のなかに繊細さと華やかさを加え、キラキラする光の輝きを表出している。
(8)技法
1832年6月のアルジェリアでのデッサンや水彩スケッチを基に構成している。ドラクロワは補色
の理論を用い、立膝をした女の短袴(たんこ)の模様や黒人のターバンの模様、横たわる女が肘を置くクッションの模様などを流動的なタッチで描いた 。中心部に暗闇を置き、女たちに柔らかな陽射しを当て、アクセサリーや棚に置かれたグラスなど各所に光に反射する描き込みをし、明暗の効果を上げている。(9)サイン
画面右下に黒で「Eug.Delacroix. F.1834」と署名。
(10)鑑賞のポイント
イスラム教徒の邸宅の奥にあり、夫や子、親族以外は男子禁制のプライバシーが厳格に守られる居室であるハーレムを見てみたいと念願していたドラクロワは、モロッコの旅の帰路、アルジェに立ち寄ったとき、偶然の機会からハーレムに立ち入ることができた。アルジェの港湾技師ポワレルが、ある船主のハーレムへ案内してくれた。ドラクロワは「何と美しいことだろう。まるでホメロスの時代(紀元前8世紀頃)のようだ」と叫んだという。アラビア風の華やかな抽象模様のタイルに飾られた静かな部屋の中に、昼下がりの光が差し込んでいる。エキゾチックな衣装に身を包み、美しいアクセサリーを着けた魅惑的な3人の女たちは、オダリスク(イスラムの君主のハーレムに仕える女奴隷)である。瑞々しい肌に艶やかな黒髪、ふくよかな身体。左側の女は、片方のサンダルを投げ出し、遠くを見る眼差しでクッションにもたれている。透けた服を着た中央の女は、やや奥まったところで隣の女を見ながら足に手を当てあぐらを組む。隣の女は、豊かな黒髪に花を飾り伏し目の横顔を見せ、片膝を立てて水キセルの管を手に持っている。水キセルを吸うための火種を入れた火鉢や、無造作に脱ぎ捨てられたサンダルが私的な居室であることを感じさせる。右端の黒人は小間使いで、部屋の整理を終えて立ち去ろうとしている。東方的世界の豊かな絹の手触りと、濃密な花の香りに満たされた豪奢と逸楽と倦怠が描き出され、西洋では失われた古代世界の面影を偲ばせる。形体の秩序と抑制された情熱の古典主義と、東洋的な霊感と色彩の豊かさのロマン主義とが均衡した総合を示している。ルノワールやピカソにインスピレーションを与えたことでも名高く、近代絵画の出発点となったドラクロワの代表作である。
根底にあるリアリズム
《アルジェの女たち》に魅了されたルノワール(1841-1919)は「世界一美しい絵だ」と感嘆し、セザンヌ(1839-1906)は「まるで一杯のワインが喉を通るように目の中に入り、たちまち私たちを酔わせる」と絶賛。ピカソ(1881-1973)は15作品の連作《アルジェの女たち》を描いた。
美術評論家の高階秀爾氏は《アルジェの女たち》を「密室にとじこめられたバラの花束のような濃艶な官能の香りが溢れている」(高階秀爾『名画を見る眼』p.137)と書いており、神戸大学国際文化学部教授の吉田典子氏は「フランスによる植民地の支配と、男性による女性の支配とのあいだには容易に平行関係がうち立てられ、植民地=アルジェリアは女性と同一化される」(吉田典子「ドラクロワ『アルジェの女たち』における美学と政治学」、『表現文化研究』第3巻第1号、p.56)と、ジェンダーにも触れる支配するものと支配されるものとの関係性を指摘している。
高橋氏は「絵画に倫理性や理想像が求められていたドラクロワの時代、サロンへ出品された本作はオリエントの官能性を主題としたことに賛否両論が湧き起こったが、とりわけ月刊誌『La Revue des Deux-Mondes(両世界評論)』で『純粋造型性』に言及した文芸評論家ギュスターヴ・プランシュ(1808-57)の『私の意見では、この油絵は、ドラクロワが今までにかち得た最も輝かしい勝利である……これは絵画であり、それ以上の何ものでもない』という一文が興味深い」と述べた。さらに「3人の女性はギリシア・ローマからの三美神の姿を連想させる。細部が美しく、特に中央の女性の陽光と影の間には質感を感じさせる色彩がくっきり出ている。室内の装飾、小道具はエキゾチック。当時すでにオリエンタリズムはあったが、このように大きい画面で東方趣味を押し出していく画家は多くはなかった。また設定はハーレムだが、淫靡というより上品にまとめており、古典主義にもつながる整然とした画面構成も感じさせ、そのあたりがとてもドラクロワらしい。ドラクロワは表現の幅が広くかつ深く、その根底にはリアリズムがある」と高橋氏は語った。
高橋明也(たかはし・あきや)
ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)
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【画像製作レポート】
参考文献
2022年5月