アート・アーカイブ探求

ウジェーヌ・ドラクロワ《アルジェの女たち》──煌めく古代「高橋明也」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2022年05月15日号

※《アルジェの女たち》の画像は2022年5月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。


豪奢と静謐と甘美

ツツジが咲き誇っていた。街路樹のツツジが花を重ねて町を彩り、目を奪われた。ピンクや白、紫がかった赤など、過酷な環境にも耐え、空気を清浄にする効果もあるという。近づくと甘い香りがしてきた。毒成分を含む品種があるので注意が必要だが、華やかさと甘い香りに初夏の訪れを感じることができる。

エキゾチックな水キセルの香りが漂ってきそうなウジェーヌ・ドラクロワの代表作《アルジェの女たち》(ルーヴル美術館蔵)を見てみたい。西洋でも東洋でもない中近東、北アフリカにあるアルジェリアの室内を描いている。旅したことのない未知の世界だが、薄暗い空間に豊潤な女たちが佇み、上質な衣服や指輪、ネックレス、模様の入った壁や装飾額の付いた鏡など、アクセサリーやインテリアが宝石のように煌(きら)めく。色彩の色と、光の色に満たされ、豪奢と静謐と甘美とが混在し、画面中央にあるトンネルのような暗闇に引き込まれる。光と影のはざまにドラクロワは何を描いたのだろう。《アルジェの女たち》の見方を東京都美術館の館長、高橋明也氏(以下、高橋氏)に伺いたいと思った。

高橋氏はフランス近代美術史を専門とし、かつて国立西洋美術館在籍時には『ドラクロワ 色彩の饗宴』(二玄社、1999)の編訳や、展覧会「ドラクロワとフランス・ロマン主義」(国立西洋美術館、1989)の企画を担当されてきた。東京・上野の東京都美術館へ向かった。


高橋明也氏[提供:高橋明也]



パリへ12歳の航海

1926年に開館した日本で最初の公立美術館である東京都美術館では、特別展「スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」(2022.4.22~7.3)が開催されていた。まん延防止等重点措置の期間(3.7~21)が終わったこともあってか、平日だったが美術館は賑わっていた。展覧会の初日でもあったその日、高橋氏は多忙ななか、ドラクロワについて時間をつくってくれた。

1953年東京都に生まれた高橋氏は、東京オリンピックの翌年(1965)の小学6年生のときにパリへ行くことになった。早稲田大学で教鞭を執り、フランス文学を研究していた父が交換教授でパリ大学へ1年間行くことになり、母共々同行したのだ。フランス象徴派の詩人ランボー(1854-91)を研究していた父の希望により、横浜からマルセイユまで、島崎藤村(1872-1943)や藤田嗣治(1886-1968)ら文化人の利用した定期航路をたどり、ランボーゆかりの地アラビア半島の南西端イエメンのアデンや、アフリカ北東部ジブチのジブチ市といった紅海周辺の都市に寄港。片道40日、往復80日間の船旅だったという。言ってみれば、オリエンタリズムの逆方向の体験だろうか。

当時のパリには日本人学校がなく、現地校にも入学時期が合わず入れなかった。高橋氏は、子供は入学不可だった外国人向けのフランス語学校アリアンス・フランセーズに特別に入れてもらい、母と共に通ったそうだ。また、週に一度ある入場無料の日にルーヴル美術館へ行き、滞在していたホテルにほど近かったサン=シュルピス教会には毎日のようにドラクロワの大壁画《天使とヤコブの闘い》と《神殿を追われるヘリオドロス》(共に1856-61年作、751×485cm)を見に行った。「大きさも色彩もすべてに感動したことをいまもよく覚えている」と高橋氏。その教会から300メートルほどのところには、中庭のある閑静な佇まいのドラクロワのアトリエ(現国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館)があった。この体験が美術の世界に入る動機のひとつとなった。

高橋氏は一時、映画や芝居をやりたいと思っていたが、最終的に1972年東京藝術大学の美術学部芸術学科へ入学、1980年同大学大学院美術研究科修士課程を修了した。卒論はドラクロワの《天使とヤコブの闘い》、修論はマネについて書いた。

1980年に国立西洋美術館へ就職し、1984年から文部省在外研究員として渡仏、2年間パリのオルセー美術館開館準備室で客員研究員を務め、2006年国立西洋美術館の学芸課長を退職した。その後は、街の真ん中につくる新しい美術館、東京・丸ノ内の三菱一号館美術館の初代館長に就任し、コレクションの収集から展覧会の企画、広報まで幅広く活動を行なった。定年を迎えて退任後、2021年10月からは東京都美術館の館長を務めている。

《アルジェの女たち》を高橋氏が最初に見たのは12歳のときだった。パリにいた頃ルーヴル美術館へ毎週のように行っていたときで、《アルジェの女たち》をはっきり記憶しているという。高橋氏は「ドラクロワ独特の甘美なムードがあって、女性がいかにも無垢で可愛い」と思ったそうだ。


受け継がれたロマン主義

フェルディナン=ヴィクトール=ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年フランスのパリ近郊シャラントン=サン=モーリスに生まれた。父シャルル・ドラクロワは政府高官で外務大臣やオランダ大使も務めたことがあった。母ヴィクトワール・ウーベンはルイ15世の宮廷家具師の娘だった。兄2人と姉1人の4人兄弟の末っ子だが、実父は高名な政治家タレーラン公爵(1754-1838)という説もある。

1805年7歳のとき父が死去してしまう。翌年に母とパリへ引っ越し、ドラクロワは国立中等学校リセ・アンペリアル(現リセ・ルイ=ル=グラン)の寄宿生となる。16歳のときに母が亡くなり、一家は破産の窮地に追い詰められた。ドラクロワはリセを卒業後、画家として身を立てることを決意して1815年、17歳のとき叔父で画家のアンリ・リーズネルの勧めで新古典主義★1の画家ピエール=ナルシス・ゲラン(1774-1833)のアトリエに入門した。翌年には国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学し、ルーヴル美術館へも通い色彩豊かなヴェネチア派のティツィアーノ(1488/90-1576)やヴェロネーゼ(1528-88)、バロックのルーベンス(1577-1640)など、巨匠の作品を模写する。もっとも影響を受けたのはルーベンスだった。アカデミックな伝統的様式に憧れながらも、一方では内なる声に導かれて描く必要性を感じていた。

19世紀初頭、ヨーロッパを席巻していたロマン主義★2のなか、ドラクロワは、ゲランのアトリエで敬愛する兄弟子だったテオドール・ジェリコー(1791-1824)のロマン主義絵画《メデューズ号の筏》のモデルを引き受け、またその作品に感動して1822年に《ダンテの小舟》を描きサロンにデビューする。奔放な描法に賛否両論あったが、新古典派の巨匠ダヴィッド(1748-1825)の弟子であったアントワーヌ=ジャン・グロ(1771-1835)から称賛され、国家買い上げとなり、24歳のドラクロワはたちまち有名になった。しかし、2年後ジェリコーが落馬事故で亡くなり、ドラクロワがロマン主義の後継者として見なされるようになっていく。

目の前の自然を深い感覚で捉えるコンスタブル(1776-1837)やボニントン(1802-28)、壮大な構図の中に色彩を駆使したターナー(1775-1851)などの風景画家、レノルズ(1723-92)やローレンス(1769-1830)などの肖像画家に関心を寄せていたドラクロワは、1825年イギリスへ行き、多くの美術館を訪ね、シェイクスピアの演劇にも感銘を受けた。イタリアの詩人ダンテの『神曲』やイギリスの詩人バイロンの戯曲などの文学のほか、ギリシア独立戦争やフランス七月革命など社会の出来事を主題に制作を行なうようになった。1831年サロンに出品した大作《民衆を導く自由の女神》は好評を博し、国家買い上げとなってレジオン・ドヌール5等勲章を受章した。


★1──18世紀中頃から19世紀初頭までのヨーロッパ美術。古典古代(ギリシア・ローマ)の美術を規範とした運動。絵画では、水平性と垂直性、明快で理知的な構図、静動の明確な対比などが特徴である。
https://artscape.jp/artword/index.php/新古典主義(ネオ・クラシシズム)
★2──19世紀初めにヨーロッパに展開された文学上・芸術上の思潮。ブルジョワの俗物性の支配する社会に反抗し、異郷や過去にユートピアを求め、個性・空想・形式の自由を強調。多様なロマン主義があり、一概に定義できないが、ひとつにはギリシア・ローマの古典古代に対する反発であって、革新すべてがロマン主義という言い方もできる。
https://artscape.jp/artword/index.php/ロマン主義


近代美術の先駆者

ドラクロワにとって34歳の1832年は大きな転機であった。フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアへ随行することになった。19世紀ヨーロッパ列強は領土拡大のため、地中海沿岸へ進出。フランスは1830年の七月革命の直前、6月にフランス軍をアルジェリアの首都アルジェに上陸させ占領、アルジェリアを植民地とした。フランスはアルジェリアの西隣モロッコと友好関係を樹立する必要性が生じていたのだ。モロッコの太守と外交関係を結ぶためにシャルル・ド・モルネイ伯爵率いる使節団を派遣した。

18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方世界への関心が高まっていた。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め「オリエンタリズム(ヨーロッパ人が中近東の風俗や事物に憧れと好奇心を抱く異国趣味)」という流行が起こり、ドラクロワも中近東や北アフリカのイスラム文化圏に憧れていた。地中海の強烈な光と鮮やかな色彩にドラクロワは歓喜し、アラブ人たちの古代から変わらない地中海民族に共通する習俗や生活の特色を発見し、休む間も惜しんで目の前の風景や人物をスケッチ帳に写し取った。新古典主義的な古代に対する反証とも言える、生きた古代を描き出した。

帰国後ドラクロワの画面は明るく多彩になり、《アルジェの女たち》をはじめ優れた作品が生まれた。そして、フランス政府や教会からの依頼によって装飾壁画を制作。ブルボン宮の「国王の間」、リュクサンブール宮図書室、ルーヴル宮「アポロンの間」、パリ市庁舎「平和の間」、サン=シュルピス教会聖天使礼拝堂など、少ない助手を使い時間をかけてほとんど独力で仕上げた。

高橋氏は「あまり指摘されないが、いわゆる色彩系の画家と言われる人たちの作品は一般的に画集図版あるいはデータ画像などの際に色を出すのが難しく、線描が強調される人々に比べて不利な状態にある。皆さんも画集などで『色彩画家』などと説明されている割には薄汚れて暗い画面に首を傾げたこともあるのではないか。とりわけ19世紀頃に描かれた油彩画の場合、黒はほとんどつぶれてしまう。ドラクロワの時代は、ビチュームという石油系・化学系の絵具を使い始めた頃で、経年変化がひどく、溶けて変色し、割れてしまうことも多い。画集などの印刷物を見てもそうした汚さばかりがしばしば強調され、残念な場合が多い。実際の作品を見るときには、良い状態を保っている部分もそこここにあるので、それらからうまく補って考えていくしかない」と言う。

1855年57歳になったドラクロワは、ライバルと言われた画家アングルと並んでパリ万博美術展の特別室が与えられ、レジオン=ドヌール3等勲章を受章。1857年には念願の美術アカデミー会員にも選出された。また、批評家としての執筆活動も後半生の大きな部分を占めた。喉頭炎が悪化し、生涯独身で30年間仕えてきた家政婦ジェニー・ル・ギユーに看取られ、1863年8月13日自宅で亡くなった。9,000点を超す作品が残った。サン=ジェルマン=デ=プレ教会で葬儀が行なわれ、ペール・ラシェーズの墓地に埋葬された。享年65歳。新古典主義に対して、個性的表現を重んじるロマン主義を確立した近代美術の先駆者であり、絵画作品においても思想においても豊かな足跡を残した巨大な存在であった。

【アルジェの女たちの見方】

(1)タイトル

アルジェの女たち(あるじぇのおんなたち)。英題:Women of Algiers in their apartment

(2)モチーフ

ハーレム★3、女たち、衣装、アクセサリー、サンダル、絨毯、クッション、カーテン、タイル壁、家具、鏡、水キセル、火鉢、炭挟み、瓶、グラス。

(3)制作年

1834年。ドラクロワ36歳。同様の構図とタイトルで1849年にも《アルジェの女たち》(フランス・モンペリエ、ファーブル美術館蔵)を描いていた。

(4)画材

キャンバス、油彩。

(5)サイズ

縦180×横229㎝。

(6)構図

見降ろした視点から、手前に左側の女、次に右手の黒人、片膝を立てる女、中央のあぐらを組む女へと奥へ向かい、最奥部は濃い陰影でよく見えないが家具がある。各要素が密接に関係した有機的な構造の絵画であり、画面左上から光線が対角線上に入り、3人の女を通り、身体をひねった黒人でUターンし、鏡で返って画面中央の闇へと螺旋状に視線を導く。座る3人と立つ黒人の対比は、美と醜でありながら静と動を感じさせ、ハーレムの女たちの隷属的な地位を暗揄的に描いている。

(7)色彩

赤、橙、黄、緑、茶、白、黒、青、紫など多色。全体に調和した落ち着いた色調のなかに繊細さと華やかさを加え、キラキラする光の輝きを表出している。

(8)技法

1832年6月のアルジェリアでのデッサンや水彩スケッチを基に構成している。ドラクロワは補色★4の理論を用い、立膝をした女の短袴(たんこ)の模様や黒人のターバンの模様、横たわる女が肘を置くクッションの模様などを流動的なタッチで描いた★5。中心部に暗闇を置き、女たちに柔らかな陽射しを当て、アクセサリーや棚に置かれたグラスなど各所に光に反射する描き込みをし、明暗の効果を上げている。

(9)サイン

画面右下に黒で「Eug.Delacroix. F.1834」と署名。

(10)鑑賞のポイント

イスラム教徒の邸宅の奥にあり、夫や子、親族以外は男子禁制のプライバシーが厳格に守られる居室であるハーレムを見てみたいと念願していたドラクロワは、モロッコの旅の帰路、アルジェに立ち寄ったとき、偶然の機会からハーレムに立ち入ることができた。アルジェの港湾技師ポワレルが、ある船主のハーレムへ案内してくれた。ドラクロワは「何と美しいことだろう。まるでホメロスの時代(紀元前8世紀頃)のようだ」と叫んだという。アラビア風の華やかな抽象模様のタイルに飾られた静かな部屋の中に、昼下がりの光が差し込んでいる。エキゾチックな衣装に身を包み、美しいアクセサリーを着けた魅惑的な3人の女たちは、オダリスク(イスラムの君主のハーレムに仕える女奴隷)である。瑞々しい肌に艶やかな黒髪、ふくよかな身体。左側の女は、片方のサンダルを投げ出し、遠くを見る眼差しでクッションにもたれている。透けた服を着た中央の女は、やや奥まったところで隣の女を見ながら足に手を当てあぐらを組む。隣の女は、豊かな黒髪に花を飾り伏し目の横顔を見せ、片膝を立てて水キセルの管を手に持っている。水キセルを吸うための火種を入れた火鉢や、無造作に脱ぎ捨てられたサンダルが私的な居室であることを感じさせる。右端の黒人は小間使いで、部屋の整理を終えて立ち去ろうとしている。東方的世界の豊かな絹の手触りと、濃密な花の香りに満たされた豪奢と逸楽と倦怠が描き出され、西洋では失われた古代世界の面影を偲ばせる。形体の秩序と抑制された情熱の古典主義と、東洋的な霊感と色彩の豊かさのロマン主義とが均衡した総合を示している。ルノワールやピカソにインスピレーションを与えたことでも名高く、近代絵画の出発点となったドラクロワの代表作である。


★3──イスラム教徒の邸宅の奥にある婦人の居室。近親以外は男子禁制。「禁じられた場所」の意。Harem。ハレムとも。
★4──赤と青緑など、混ぜ合わせると絵画では黒または灰色になる二色。この色を並置すると互いに強め合い、鮮やかで輝きを帯びた色彩効果を示す。
★5──新印象主義の理論家だったポール・シニャック(1863-1935)は、1899年に刊行された『ドラクロワから新印象主義まで』のなかで、印象派の色彩分割の手法が《アルジェの女たち》にすでに用いられていることを説いている。印象派の明るい色彩は、遡ればドラクロワに行き着く。


根底にあるリアリズム

《アルジェの女たち》に魅了されたルノワール(1841-1919)は「世界一美しい絵だ」と感嘆し、セザンヌ(1839-1906)は「まるで一杯のワインが喉を通るように目の中に入り、たちまち私たちを酔わせる」と絶賛。ピカソ(1881-1973)は15作品の連作《アルジェの女たち》を描いた。

美術評論家の高階秀爾氏は《アルジェの女たち》を「密室にとじこめられたバラの花束のような濃艶な官能の香りが溢れている」(高階秀爾『名画を見る眼』p.137)と書いており、神戸大学国際文化学部教授の吉田典子氏は「フランスによる植民地の支配と、男性による女性の支配とのあいだには容易に平行関係がうち立てられ、植民地=アルジェリアは女性と同一化される」(吉田典子「ドラクロワ『アルジェの女たち』における美学と政治学」、『表現文化研究』第3巻第1号、p.56)と、ジェンダーにも触れる支配するものと支配されるものとの関係性を指摘している。

高橋氏は「絵画に倫理性や理想像が求められていたドラクロワの時代、サロンへ出品された本作はオリエントの官能性を主題としたことに賛否両論が湧き起こったが、とりわけ月刊誌『La Revue des Deux-Mondes(両世界評論)』で『純粋造型性』に言及した文芸評論家ギュスターヴ・プランシュ(1808-57)の『私の意見では、この油絵は、ドラクロワが今までにかち得た最も輝かしい勝利である……これは絵画であり、それ以上の何ものでもない』という一文が興味深い」と述べた。さらに「3人の女性はギリシア・ローマからの三美神の姿を連想させる。細部が美しく、特に中央の女性の陽光と影の間には質感を感じさせる色彩がくっきり出ている。室内の装飾、小道具はエキゾチック。当時すでにオリエンタリズムはあったが、このように大きい画面で東方趣味を押し出していく画家は多くはなかった。また設定はハーレムだが、淫靡というより上品にまとめており、古典主義にもつながる整然とした画面構成も感じさせ、そのあたりがとてもドラクロワらしい。ドラクロワは表現の幅が広くかつ深く、その根底にはリアリズムがある」と高橋氏は語った。



高橋明也(たかはし・あきや)

東京都美術館館長。1953年東京都生まれ。1977年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業、1980年同大学大学院美術研究科西洋美術史専攻修士課程修了。同年国立西洋美術館研究員、1984-86年文部省在外研究員としてパリ・オルセー美術館開館準備室客員研究員、1988年国立西洋美術館主任研究官、2005年同学芸課長、2006-20年三菱一号館美術館初代館長、2021年より現職。専門:フランス近代美術史。主な賞歴:フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受章(2010)。主な担当展覧会:「ドラクロワとフランス・ロマン主義」(国立西洋美術館、1989)、「1874年──パリ『第一回印象派展』とその時代」(国立西洋美術館、1994)「オルセー美術館展」(日本側監修、東京都美術館/国立西洋美術館ほか、1996、1999、2006-07)、「世紀の祭典/万国博覧会の美術」(東京国立博物館他、2004-05)、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展:光と闇の世界」(国立西洋美術館、2005)、「コロー:光と追憶の変奏曲」(国立西洋美術館、2008)、「マネとモダン・パリ」(三菱一号館美術館、2010)。主な編著訳書:『平凡社版世界の名画9 マネ』(平凡社、1984)、『ロートレック全版画』(共訳、岩波書店、1990)、『ドラクロワ 色彩の饗宴』(編訳、二玄社、1999)、『ゴーガン:野生の幻影を追い求めた芸術家の魂』(六耀社、2001)、『ロマン主義』(翻訳、岩波書店、2004)、『モネと画家たちの旅:フランス風景画紀行』(監修、西村書店、2010)、『美術館の舞台裏:魅せる展覧会を作るには』(筑摩書房、2015)、『新生オルセー美術館』(新潮社、2017)など。

ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)

フランスの画家。1798-1863年。パリ近郊のシャラントン=サン=モーリスに生まれる。父シャルルは政府高官、母ヴィクトワールは宮廷家具師の娘。兄2人、姉1人の4人兄弟。7歳で父が死去、9歳で次男が戦死、16歳で母が死去。一家は破産に追い込まれた。1815年新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランのアトリエに入門。1816年国立美術学校に入学。1822年《ダンテの小舟》をサロンに初出品し、センセーションを巻き起こした。1824年《キオス島の虐殺》をサロンに出品し、罵声を浴びるも国家買い上げとなる。1825年風景画家コンスタブルに傾倒、イギリスに滞在。1831年《民衆を導く自由の女神》をサロンに出品。レジオン・ドヌール5等勲章受章。1832年フランス政府外交使節団の記録係として北アフリカを巡る。1834年《アルジェの女たち》をサロンに出品。1838年国王ルイ・フィリップからブルボン宮図書室の装飾、ヴェルサイユ宮のための《十字軍のコンスタンティノポリス占領》の依頼を受ける。1850年ルーヴル宮アポロの間の天井画を制作。1855年第1回パリ万国博覧会に出品。レジオン・ドヌール3等勲章受章。美術アカデミー会員に8度目の立候補で当選。1859年サロンに最後となる8点を出品。1861年サン=シュルピス教会の壁画完成。1863年8月13日パリで死去。享年65歳。主な作品:《アルジェの女たち》《ダンテの小舟》《キオス島の虐殺》《サルダナパールの死》《民衆を導く自由の女神》《天使とヤコブの闘い》《神殿を追われるヘリオドロス》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:アルジェの女たち。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:ウジェーヌ・ドラクロワ《アルジェの女たち》1834年、キャンバス・油彩、縦180×横229cm、ルーヴル美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:ルーヴル美術館、RMN(フランス国立美術館連合)、Thierry Le Mage、AMF(アジャンス・デ・ミュゼ・フランセ)、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式230.5MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:コレクション番号=RMN02002555(Jpeg形式239.9MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ルーヴル美術館、RMN、Thierry Le Mage、AMF、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

《アルジェの女たち》の画像を、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。数日後、作品画像のURLが記載されたDNPACのメールから画像をダウンロードして入手(Jpeg形式239.9MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像の掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。作品を所蔵するルーヴル美術館のWebサイトや書籍の図版を参考に、Photoshopによって色味を調整し、額縁に沿って切り抜いた(Jpeg形式230.5MB、300dpi、8bit、RGB)。2021年4月から10月にわたり絵の修復が行なわれたと所蔵館のWebサイトに記録が出ていたが、修復の際に作品の画像が更新されたかは確認できなかった。画像には絵肌のひび割れが見られた。現状を知ることのできる最新の画像をデジタルアーカイブしておくことが望ましいと思う。 セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。



参考文献

・高階秀爾「名画の秘密 ユージェーヌ・ドラクロワ『アルジェの女たち』」(『美術手帖』No.109、美術出版社、1961、pp.120-125)
・吉川逸治「ドラクロワ 近代美術への天才たち・11」(『芸術新潮』No.155、新潮社、1962.11、pp.36-43)
・坂崎坦『ドラクロワ』(朝日新聞社、1967)
・トム・プリドー著、坂崎坦日本語監修『ドラクロワ:1798-1863』(タイムライフインターナショナル、1969)
・ウジェーヌ・ドラクロワ著、中井あい訳『ドラクロワの日記:1822-1850』(二見書房、1969)
・高階秀爾『名画を見る眼』(岩波書店、1969)
・アルベルト・マルチニ・富永惣一監修、高階秀爾解説『ファブリ世界名画集22』(平凡社、1969)
・Maurice Sérullaz著、高畠正明訳『DELACROIX』(美術出版社、1973)
・坂崎乙郎編集解説、堀田善衛特別寄稿、永澤峻図版解説『グランド世界美術 第17巻 ゴヤとドラクロワ』(講談社、1974)
・嘉門安雄・中山公男監修、馬杉宗夫著『ファブリ研秀 世界美術全集8』(研秀出版、1976)
・高階秀爾編著『25人の画家 現代世界美術全集 第2巻 ドラクロワ』(講談社、1981)
・Kurt Badt著、佃堅輔訳『ドラクロワの芸術』(岩崎美術社、1984)
・高橋明也「フランス・ロマン主義考」(『季刊みづゑ 秋』No.944、美術出版社、1987.9、pp.36-41)
・図録『ドラクロワとフランス・ロマン主義』(東京新聞、1989)
・高橋明也「〔今月の展覧会〕ドラクロワとフランス・ロマン主義 展覧会の構成について」(『三彩』No.504、三彩社、1989.9、pp.62-65)
・阿部良雄責任編集、田渕安一・稲賀繁美・高橋明也著『アサヒグラフ別冊 西洋編16 美術特集 ドラクロワ』(朝日新聞社、1991)
・中山公男監修『週刊グレート・アーティスト 第90号 ウジェーヌ・ドラクロワ』(同朋舎出版、1991.11)
・嘉門安雄監修、Cogolno Luisa・石原宏・河上真理著『絵画の発見4 アングル/ドラクロワ』(学習研究社、1992)
・高階秀爾「ドラクロワ」(『世界美術大全集 第20巻 ロマン主義』、小学館、1993、pp.117-140)
・松本清張・大島清次・高階秀爾『新装カンヴァス版 世界の名画3 アングルとドラクロワ:新古典派とロマン派』(中央公論社、1994)
・ウジェーヌ・ドラクロワ著、高橋明也編訳『ドラクロワ 色彩の饗宴』(二玄社、1999)
・岡部昌幸『すぐわかる画家別西洋絵画の見かた 改訂版』(東京美術、2002)
・吉田典子「ドラクロワ『アルジェの女たち』における美学と政治学」(『表現文化研究』第3巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2003.11、pp.51-70)
・デーヴィッド・ブレイニー・ブラウン著、高橋明也訳『岩波 世界の美術 ロマン主義』(岩波書店、2004)
・武内旬子「アルジェの女たちはどこにいるのか──アシア・ジェバール『アルジェの女たち』を読む」(『神戸外大論叢』No.326、神戸市外国語大学研究会、2004.10、pp.81-104)
・NHK『迷宮美術館』制作チーム『NHK『迷宮美術館』巨匠の言葉』(三笠書房、2009)
・三浦篤『まなざしのレッスン2 西洋近現代絵画』(東京大学出版会、2015)
・Webサイト:西嶋亜美「ドラクロワの『日記』における絵画と文学の位置付け──主題、表現形態、制作過程の三つの観点から」『藝術研究』No.28、広島芸術学会、2015.7、pp.31-45(『広島大学学術情報リポジトリ』)2022.5.5閲覧(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00044306
・Webサイト:「Women of Algiers in their apartment」(『The Metropolitan Museum of Art』)2022.5.5閲覧(https://www.metmuseum.org/art/collection/search/702474
・Webサイト:『Musée national Eugène-Delacroix』2022.5.5閲覧(http://www.musee-delacroix.fr/fr/
・Webサイト:「Restoration The conservation treatment of Women of Algiers in their Apartment」(『LOUVRE』2022.1.13)2022.5.5閲覧(https://www.louvre.fr/en/what-s-on/life-at-the-museum/the-conservation-treatment-of-women-of-algiers-in-their-apartment
・Webサイト:「Femmes d'Alger dans leur appartement」(『LOUVRE』)2022.5.5閲覧(https://collections.louvre.fr/ark:/53355/cl010065869



掲載画家出身地マップ
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2022年5月

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