小林晴夫|放課後の「ゲームブレイカー」──「メディウムとディメンション:Plastic」から
2025年11月、学生主導の運営による東京造形大学内のオルタナティブスペース「CS-Lab 」で開催された、美術評論家の中尾拓哉のキュレーションとアーティストの奥村雄樹のナビゲーションによる展覧会「メディウムとディメンション:Plastic 」。「遊び」をツールに、公募された19種のゲームのルールから「作品」を生成するという本展は、キュレーターと作品の作り手の境界を融かし、制度化された「美術」を解体する切実な思考と試みの場でもあった。blanClass ディレクター・アーティストとしてこれまで数多くのワークショップなど有機的な対話と表現の場を立ち上げてきた小林晴夫氏が、学びの空間における本展の実験がもたらした「展覧会の変容可能性」を紐解く。(artscape編集部)
作品とそうでないものが等価に混在する空間
中尾拓哉のキュレーションによる展覧会、「メディウムとディメンション:Plastic」が2025年11月4日から11月29日まで、CS-Lab(東京造形大学内)にて開催された。
東京造形大学内にある「CS-Lab」外観[撮影:大澤拓実]
この展覧会は、アーティストの奥村雄樹を共同作業者に迎え、「Plastic(造形的なもの、可塑的なもの)」をテーマに、キュレーターやアーティストという立場すら固定せず、公募した「遊び」をツールに、9種の「ことば遊び」と10種の「かたち遊び」をプレイすること自体を展覧会の造形プロセスにしている。
会場入り口のテーブルに、「PLASTIC」の文字がスパイラル状に連なって配置された円形の赤いフライヤー(この円形とスパイラルの文字列はCS-Labの空間の形とそこに展開する作品に呼応している)と、A4サイズのシート「集まった遊びのルールブック」が置かれている。そこには19種類の「遊び」のルールが収められており、これをガイドに作品を見ていくのが本展の手順になっている。
「メディウムとディメンション:Plastic」会場エントランス[撮影:大澤拓実]
19のルールが掲載された「集まった遊びのルールブック」[撮影:大澤拓実]
だだっ広い空間は、いつも通り雑然としていて、CS-Lab所有の備品があちらこちらに置かれているほか、継続中の別のプロジェクトの残骸があったり、休憩所がわりに使う学生たちの食べ残しや飲み残しのゴミがそのまま置かれていたり、誰のものかわからない学生の作品が放置されていたり、初見ではどれが作品で、どれが備品で、どれがゴミかを易々と見分けることはできない。そのうえ、休憩所代わりにここを利用する数人の学生たちが音楽を聴いたり、本を読んだり、眠りこけている。
「メディウムとディメンション:Plastic」展示風景[撮影:大澤拓実]
CS-Labはもともと食堂だった円筒形の建物を再利用した場所であり、既存の枠組みに依存しない「もうひとつの大学」として、学生主導で自律的な運営を模索し続けているオルタナティブなスペース。そもそも特殊な場所性(そう言って差し支えないと思うが)を備えていて、この展覧会が重ね合わされる前に、すでに多層にコンテクストが重なっている場所なのだ。
このように、あらゆるものが等価に混在する環境で、19種類の作品を探し出しながらひとつの展覧会を鑑賞しなければならない。決して「展覧会じゃない」と思ったわけではないが、この展覧会は「展覧会としては破綻している」というのが第一印象だった。
一度は挫けそうになりながらも、気を取り直して、手順通りにやってみることにする。実は私はCS-Labの立ち上げ直後から馴染みがあって、blanClassと共同でゼミを運営していたこともあったので、この展覧会の読み込み方はわからなくても、この場所の読み方は熟知している。作品らしからぬものを除外しながら、作品らしきものを見つけ出しては、テキストに似たものを探し出す作業をひとしきり……。それでも作品だけを炙り出すのが難しくて、ちょっとだけズルをして、CS-Labの管理人(大澤拓実)と「これは作品?」「いいえこれは学生が勝手に置いていったものです」などと会話をしながら見て回った。その後、たまたま展覧会を見に来た知人等と「ああだ、こうだ」と話し合ううち、ようやく頭が動き始めて、「遊び/ゲーム」の痕跡のような、でも「いつもそこにあるものでしかない」ものを読み込む準備ができてきた。
集まった19のルール:「遊び」から生成される言葉とかたち
初めに決まっていたのは、9種の「ことば遊び」と10種の「かたち遊び」の「遊び/ゲーム」を考案することだったらしく、中尾と奥村(うちひとつは山辺冷名義)それぞれが4種ずつ、共同で1種、計9種の「遊び/ゲーム」は二人が考案、残りは公募された。ただし、公募の対象はCS-Labがある東京造形大学の関係者に限られた。募集にあたって、「遊び/ゲーム」を通して、「ことば」の連なりや「かたち」、および「ことば+かたち」が生まれる複数人で遊べる「遊び/ゲーム」であることに加え、「CS-Labで完結する」「CS-Labにあるものだけを使う」など、いくつかの条件が与えられた。選出されたゲームメイカーは、森田浩彰、中桐詩保美、大澤拓実、大川智章、篠田凛、五月女哲平、末永史尚、館美咲希、豊嶋康子、吉田寛人。採用された「遊び/ゲーム」は、10月27日から11月1日の1週間、大学の放課後にCS-Labにてプレイされた。プレイする人たちも公募のときと同様に東京造形大学の関係者に限定して募集され、放課後の「遊び」の結果、生成された「ことば」や「かたち」が空間に「作品」として配置されている。
〈切り絵しりとり〉(奥)と〈第一回東京造形大紙相撲トーナメントCS-Lab場所〉(手前)[撮影:大澤拓実]
最初に目に飛び込んできたのは、
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・〈切り絵しりとり〉 (ゲームメイカー|末永史尚):
言葉を介さずに形でしりとりをする。抽象的な形態に切り取られたボール紙が右斜め上に向かって横につなぎ合わされている。
・〈第一回東京造形大紙相撲トーナメントCS-Lab場所〉 (ゲームメイカー|豊嶋康子):
各自が紙で作った「力士」で紙相撲を行ない、勝敗が決まった瞬間の形を画鋲で土俵(合板)に固定する。
・〈一斗缶蹴り〉 (ゲームメイカー|奥村雄樹):
塗料入りの一斗缶を蹴って遊んだ痕跡。床に倒れた一斗缶の凹みと、流れ出して固まった白い塗料の飛沫を鑑賞する。
の3つの作品だった。
〈第一回東京造形大紙相撲トーナメントCS-Lab場所〉[撮影:大澤拓実]
〈一斗缶蹴り〉[撮影:大澤拓実]
逆に時間が経ってからジワジワと思い出すのは、
・〈雲想十二画〉 (ゲームメイカー|中桐詩保美):
窓から雲を眺めて対話、「雲」を表わす新しい1文字を考案して皮膚に書き、ボンドで固めて剥がして、元の窓に貼って戻す。
・〈選梱私日書包今遊び〉 (ゲームメイカー|篠田凛):
「今日の自分」を象徴する本を選び、その理由とともに語り合い、それらの本を会場にある素材で傷をつけないように丁寧に梱包する。
・〈隣巡り〉 (ゲームメイカー|大川智章):
グループ内で言葉を連鎖させ、その変容の度合いを競い「辞書上の距離」を愉しむ。会場に残されたのは付箋が挟まれた辞書。
の3つの作品だった。どれもひっそりと閉じた趣があるが、それだけに作品の内側に「遊び/ゲーム」の内容を隠し持っている感じがある。
〈雲想十二画〉[撮影:大澤拓実]
〈選梱私日書包今遊び〉[撮影:大澤拓実]
〈隣巡り〉[撮影:大澤拓実]
ほかにどんな「遊び/ゲーム」がプレイされたのかというと……、
●言語やコミュニケーションに焦点を当てた「遊び/ゲーム」 (言葉の変換、アナグラム、他者の意図を解釈するプロセスを楽しむような作品)
・〈優美な生涯〉 (ゲームメイカー|奥村雄樹):
日常の出来事を思い出し言葉に変換して一文にし、文法構造に沿って他者の文章と合成して新しい物語を作る。
・〈オノマト伝言〉 (ゲームメイカー|館美咲希):
抽象的な言葉をオノマトペに変換し、交互に伝達していく伝言ゲーム。
・〈チーム詩〉 (ゲームメイカー|大澤拓実):
参加者全員の名前のひらがなを1文字ずつ書き出し、チーム内で並び替えてひとつの文を作る。
・〈分有し、詠う〉 (ゲームメイカー|五月女哲平):
指名された参加者が録音機を向けられた瞬間に即興で言葉をつなぎ、一篇の詩を共作する。
●身体性や偶然性を利用した「遊び/ゲーム」 (特定の動作や、その場の偶然によって形が生まれるプロセスを重視した作品)
・〈停止原器の輪〉 (ゲームメイカー|中尾拓哉):
各自が「1m」だと思う長さに切った糸をつないで輪にし、同時に落下させてできた形を針金でなぞる。
・〈ひカa のポートレイト〉 (ゲームメイカー|森田浩彰):
相手の印象を造語で表し、養生テープに書き、背中に貼り付けていく。
●物の収集、造形、さらにはこの展示に直接関わる「遊び/ゲーム」 (既存の物品を使い、新しい関係性や価値を見出すような作品)
・〈ファウンド・ファウンド・オブジェ〉 (ゲームメイカー|中尾拓哉):
隣人との「等価交換」を繰り返し、循環してきた物にタイトルやサイズを付与して展示する。
・〈身分証づかみ〉 (ゲームメイカー|吉田寛人):
身分証のコピーを使い、特定条件に当てはまる情報を黒塗りにしていくレース形式の遊び。
・〈キュレイトリアル・ナビゲイショナル・スパイラル〉 (ゲームメイカー|中尾拓哉、奥村雄樹):
小石を投げたり、あみだくじをしたりするプロセスを経て、成果物の設置場所や使用する什器を決定する。
この最後に挙げた「展示に直接関わる」というところは、「遊び/ゲーム」という動的で不安定なプロセスが、「展覧会」という静的で固定された結果へとシームレスに変換させる構造であり、本展の最大の特徴にもなっている。
〈優美な生涯〉[撮影:大澤拓実]
〈停止原器の輪〉[撮影:大澤拓実]
〈ひカa のポートレイト〉[撮影:大澤拓実]
〈身分証づかみ〉[撮影:大澤拓実]
〈キュレイトリアル・ナビゲイショナル・スパイラル〉[撮影:大澤拓実]
「展覧会」を成立させているすべての要素を問う
中尾は、これまでにも「メディウムとディメンション」というタイトルを冠した展覧会を展開していて、この展覧会はその5回目にあたる。会期終了後にヒアリングに応じてくれた中尾によると、それぞれの展覧会はシリーズというわけではなく、企画の経緯も、会場も、テーマも、作家も、キュレーションの方針も異なる独立した展覧会ということだが、一貫して、きわめて制度化され「あって当たり前」すぎてないことのように扱われている「展覧会」(特に現代美術の展覧会)を構成する諸要素を分解して考える姿勢が見て取れる。「展覧会」を「展覧会」たらしめている必要最小限の条件が何かを探りながら、「展覧会」のフレーム自体を問い、成り立たせている諸要素を組み換えたり、脱臼させたり、重ね合わせたりすることで、別次元の「展覧会」を模索してきた。これまでは部分的なアプローチだったが、今回は展覧会を構成する諸要素を包括的に多角度から見直す作業と言えるかもしれない。
まずは、「自律的な展示空間」、作者と企画者と観客という「固定的な役割」「作家のオリジナリティ」「作品の完結性」、作品が過去の歴史と接続される「言説や批評」、それらを支える「記録やアーカイブの形式」、周知のための「広報活動」、もっと実務的な、壁、天井、床、什器、照明、配線、動線、配置、キャプション、ハンドアウト、管理、監視、セキュリティ、それらを支える労働と経済的背景など(もっと挙げられるかもしれないが)、分解した諸要素をすべて抱え込み、「美術」を扱う「展覧会」をゲームとして捉え直す。そして既存のゲームをなぞるようにプレイするのではなく、そのプロセスも「遊び/ゲーム」に置き換えることで「可塑性がある変容可能」な、別次元の「展覧会」を目指している。
これに対して奥村の立ち位置はちょっと違っている。奥村は展示されるのはあくまで「作品」でなければならず、そのプロセスを展示することに抵抗があって、プレイの様子を定点で撮影した動画の展示に対しても難色を示したという。対して中尾は「展覧会」を成立させるすべての要素に関心があり、プロセスにも重心が置かれている。二人の意向を止揚する案として、CS-Labの事務所エリア(かろうじて展示スペースの裏に位置している)にモニターを置くという解決がなされたが、この「作品」や「展覧会」に対する両者の立ち位置の違いは大きい。
事務所エリア側で再生されていた、ゲームのプレイ風景を上から撮影した動画[映像:島本幸作/撮影:大澤拓実]
奥村は作品を「料理」に喩えたうえで、「重要なのは目の前にある謎の料理を鑑賞者がそれぞれにじっくりと味わうこと」だと普段から考えているそうで、そういった視点にも基づいて、今回のプロセスの記録をはじめアウトプットのあり方についてもさまざまなサジェスチョンを行なったそうだ。
会期中に開催されたトークのなかで、奥村はこれまでの自らの作品に共通して見られるコンセプチュアルアートの手法について、ソル・ルウィットのいう「非合理的」な考え方を例に挙げて振り返っていた。結果どうなるかはわからなくとも、合目的的に考えると意味がないような手順を思いつきや仮説に則りやってみて、その結果生まれたものを作品として捉えることが、自分に寄りすぎず「作品をつくる」という束縛から解放されて思わぬ形を生み出す方法だという。
そのうえで、今回の企画で、なぜ「遊び/ゲーム」を作品の制作に取り入れたのかについて、そうしたコンセプチュアルアートの手法を「遊び/ゲーム」で捉え直すことで見える地平が見てみたかったのだそうだ。さらには、通常であればアーティストがひとりで考えて完結する手順を複数人のゲームメイカー(プレイヤーも含めて)で実践し直すことで、その多様な身体の偏りの総体として生まれてくる「作品」がどんなものかに興味があったと語っている。
奥村にとってのコンセプチュアルな手法とは、主体性や恣意性から「作品」を遠ざけるような態度の表われであると同時に、実はそこにも偏ったひとりの「欲望」が住まい、あるいは多様な個人の「表現」が入り込む隙がある──単なる方法論というよりは、そういった「枠組み」のようなものとして機能しているようだ。
企画の最初の段階で、中尾が奥村に期待したのは、これまでの奥村の作品に見られるような、他者の作品や言葉やアイデンティティをオキュパイするように自身と重ね合わせ、再演・再読・翻訳などのフィルターに通すことで作品を成立させる、その奥村独自の方法論を使って、中尾をひとりのアーティストとして扱ってもらい、逆にキュレーションしてもらうことだったという。それは中尾がこれまでの自身のキュレーションを通して再考してきた「展覧会」というフレームを道具にして、自身も何かを作りたい「欲望」に駆られたということなのかもしれない。実際には、奥村のクレジットはキュレーターでもアーティストでもなく、「ナビゲーター」となっている。ナビゲーターとは、「ゲーム/遊び」がプレイされる際、各ゲームメイカーのアイデアに対して、一人ひとりの関心を損なわないように配慮しながら、その「ゲーム/遊び」の結果を、この企画全体にとって望ましい(「予測不可能性」を増す)方向へと導くために、細かいところまでサジェスチョンを加えることが主な役割だったようだ。このナビゲーションも含めて、二人は対等な立場で話し合い、双方の役割自体、その境界線が意図的に曖昧にされた。
要するに「作品」を生成する方法も、その作品を収めるフレームとしての「展覧会」も同じような手順で、同時に生成される仕組みになっている。
脆弱な皮膜の先に現われるもの
実は、この展覧会のことを考えている間ずっとブルース・ナウマンのフィルム作品《Walking in an Exaggerated Manner Around the Perimeter of a Square 》(1967–68)が頭に浮かんで離れないでいる。ナウマンのスタジオで撮影されたこの作品は、建築の構造や絵画の矩形など、本来外枠として現われるような正方形のグリッドが床に描かれていて、その線上に自身のおかしな歩行を律儀に重ね合わせることで、そのガイドラインであり外枠だったはずのグリッドが、それが描かれている閉じたスタジオごと「作品」の内側に巻き取られていくように見える。一方、今回の展覧会では、中尾が標榜する「展覧会」(外枠)と奥村が考える「作品」(中身)が「遊び/ゲーム」によって不可分なものとして同じ線上(こちらはスクエアではなくスパイラルか?)に置かれて定まらず、フラフラと不安定に揺れ続けるように見えて、ナウマンのスタジオワークとどこか似た構造を持っていると感じるのだ。
今回の展覧会では「遊び/ゲーム」はテーマではなく、「展覧会」を生成するための装置なのだけれど、実際にはそれぞれの「遊び/ゲーム」が本気でプレイされ(ここにはコミットできない)、結果として展示された「作品」とは別の次元に生きているみたいに振る舞われている。そのうえ俯瞰してみると、やっぱりこの「展覧会」そのものが、ひとつの「遊び/ゲーム」にもなっていて、パラレルワールドのように複雑なレイヤーを形成している。きっとその不安定で複雑なあり方のせいだろう、外界と隔てて「作品」や「展覧会」を自律させるためのフレームは皮膜のようで、とてつもなく薄い。中尾が最後の感想として漏らしていたが、この展覧会はとても脆弱な「展覧会」だったのかもしれない。
ゲームメイキングとゲームプレイングのメンバー募集の貼り紙[撮影:大澤拓実]
この企画が「展覧会」にもたらした「変容可能性」は、「展覧会」という輪郭線に綻びを生み出した。しかしそこには、「遊び」とも「ゲーム」とも、あるいは「学び」ともつかない未分化な経験の数々が横たわっている。「展覧会」がその自律的な強度を失い、外界の現実と等価に接続されるとき、そこは単なる「見せる場」であることを止め、切実な「思考の場」へと機能し始める。それこそが、私たちが「美術」と呼んできたものの、本来の姿ではないだろうか。
メディウムとディメンション:Plastic
会期:2025年11月4日(火)〜29日(土)
会場:CS-Lab (東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学内)
キュレーション:中尾拓哉
ナビゲーション:奥村雄樹
公式サイト:https://cs-lab.zokei.ac.jp/news/20251104/
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