小吹隆文/福住廉 |
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町田夏生 展─《乙女》の衝動─
3/4〜22 YOD Gallery[大阪] |
目が花柄になった少女たちが、ピンク色を基調とした装飾的空間の中で無表情にたたずんでいる──。こう書くと夢見る乙女チックワールド一色だが、その隙間から垣間見える残酷性にこそ、町田夏生が表現したい核心があるのだろう(残酷さも乙女の本質と言われればそれまでだが)。ただし、乙女というテーマ自体は既に多くの作家に取り上げられており、類型化しやすいのが実情。彼女がそれをどう乗り越えていくのかが今後の見どころである。演出的意味もあって出品された壁一面を覆う大作にその鍵があると私は感じたのだが……。
[3月5日(水) 小吹隆文] |
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藤原陽子 個展 いろもたぬ原形のむれ
3/3〜8 番画廊[大阪] |
棺を意識して作られたボードの上に白い粉の様な物体と小オブジェ(ガラス、金属、石、枯れた花など)が配置され、それらが画廊の床に整然と並べられている。私は作品から死の匂いを強く感じ取ったが、会場に用意されたテキストを読むと、逆に生を意識した作品と解釈することもできる。どちらにせよ、ピンと張り詰めた空気は尋常ではない。久々に「静謐」という言葉がぴったり来る作品に出合った。
[3月5日(水) 小吹隆文] |
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田中幹 展
3/4〜15 乙画廊[大阪] |
一見ミニマル絵画とも心象的な風景画とも見える田中幹の作品。じつは無数の0(ゼロ)のスタンプの集積からなる一種の点描画である。デコボコができるまで盛り上がった表面の絵具を見ていると、マテリアルとしての存在感と膨大な作業の痕跡に圧倒される。無とも無限大とも取れるゼロという数字から想像が膨らんでいくのも新鮮だ。
[3月5日(水) 小吹隆文] |
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わたしいまめまいしたわ──現代美術にみる自己と他者
1/18〜3/9 東京国立近代美術館[東京] |
国立美術館の所蔵作品を啓蒙のために再文脈化した展覧会。このように無味無臭の常設展を手を変え品を変え味付けしようとする展覧会が昨今目につくが、そのうちのほとんどは失敗に終わっている。この展覧会も、まずタイトルを回文とするセンスからして寒々しいし、パネルの解説文も大衆におもねる態度が見え見えで、なんだかゾッとする。エリート主義が中途半端にポピュリズムに迎合しようとすると、たいていの場合、このような惨憺たる結果に終わってしまう。むしろいっそのこと思い切って出発点を教育普及に絞り込み、そこから全体の展示構成を考えれば、もう少しまともな展覧会に仕上がっていたのではないかと思えてならない。美術館における学芸と普及のパワーバランスは再考される時代になっているのではないだろうか。
[3月5日(水) 福住廉] |
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サラ・ジー展
2/8〜5/11 メゾンエルメス8階フォーラム[東京] |
日常用品を集積して空間を再構成するサラ・ジーの展覧会。ネジや座布団、エアーポンプなどを緻密に集合させることによって、明快な秩序に貫かれた整然とした世界を作りだした。それは空中に張り巡らされた直線のワイヤーが無数の大量生産品を統合する象徴として機能していたせいかもしれないし、会場のガラスキューブがそれらを背後から規定するグリッドのように見えたせいかもしれない。ちょうど同じ時期に開催されていた「MOTアニュアル2008 解きほぐすとき」(東京都現代美術館)に出品していた金氏徹平も同じように集積と再構成による作品を見せていたが、金氏のそれがアナーキーな運動性に依拠していたのにたいし、サラ・ジーのそれはあくまでも一点に集約していく、きわめて西欧近代的な世界観にもとづいていた。
[3月5日(水) 福住廉] |
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船、山にのぼる
3/15 映画美学校[東京] |
PHスタジオによるアートプロジェクト「船をつくる話」を記録したドキュメンタリー映画。ダム建設に伴い水没する地域の共同体がそろって移住する中、その土地の森林を船のかたちにした上で湛水実験の水位上昇を利用して引越しさせようするプロジェクト。地域社会に入り込み、その土地の人間やコミュニティの力に助けられながら船を移動させていく様子は、ただただ、感動的だ。現代美術がグローバリズムに雪崩を打ってゆく昨今、これほどローカリズムの醍醐味を訴えかける映像はほかにない。コマーシャルギャラリーやコレクターの顔色ばかり伺っている浮き足立った輩こそ見るべき映画である。
[3月5日(水) 福住廉] |
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