トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
4. 戦争画
暮沢──話は変わりますが、今、森美術館で『会田誠展:天才でごめんなさい』★53が開催中で、「戦争画RETURNS」が出ています。一方で藤田嗣治★54には16点の戦争画があります。椹木野衣さん★55や蔵屋美香さん★56らによる『戦争と美術1937‐1945』(国書刊行会、2007年)は、現時点では戦争画研究の決定版だと思いますが、そのあたりで何かありますか。
沢山──artscapeのレビューにも書きましたが、会田誠さんの基本的な方法論は、複数の様式や世俗的な対象を結合・折衷して畳み込み、一枚の絵画平面上で出会わせるという手法です。ただ、そこにはクールなシミュレーショニズムには回収され得ない自意識の発露がある。女子高生という主題に固執するとか。たとえば「あぜ道」という作品は東山魁夷の「道」と女子高生、つまり通俗的な日本画と1990年代に顕著に社会学的なトピックになった対象を結合するような方法で制作されている。ある意味ではメタレベルの視点に立って、美術史的な対象と、その外部にあるアニメ、マンガ、女子高生、あるいはエログロな主題などを等価に扱い、ポストヒストリカルな編集作業を行なうといった感じです。つまり、美術とその外部とが無理矢理に出会わされている。会田さんにとって「戦争画」という主題は、その意味で「あぜ道」などで行なっている作業と通底する問題を孕んでいることがわかる。たとえば、藤田嗣治らの戦争画において争点となってきたのは、戦争画を単なる歴史的ドキュメントとして見るか、芸術作品として見るかということでしょう。この視点の分裂が戦争画というフレームを揺るがすひとつのポイントになってきた。であれば、会田さんの戦争画はまさに会田さん自身のやりたいことに対して自己言及的に機能するものだと思われるのですね。会田さんはある意味では戦争画のような論争、つまり複数の視点の統合不可能性を仕掛けたいという目論見があるのではないか。美術史内や、美術業界内で閉じた絵画をつくるのではなく、これまで絵画を絵画足らしめてきた認識論的なトートロジーこそを攻撃し、その視点の揺らぎをこそ確保する。その意味で方法論的に戦争画が参照されてきたのだと思います。あと、散々言われていることですが、これだけ日本が右傾化した現在では「戦争画RETURNS」は違って見えます。かつては天皇を象徴的に日本画の様式で描くこと自体、すでに類型化したキッチュ、記号だったわけですが、今は奇妙に現実的な切迫感を持って見えてしまう。
成相──特に価値低位の記号。そのときどきにそうした記号、いってしまえばダサいとか気持ち悪いとかふざけているといった類型を、照れ隠しのように利用することで美術というジャンルの社会的な「ダサさ」へと視線を倒逆させる、というのが会田さんの手法だと思います。その記号が流動的であるために、一定期間を経て脱色されたときに、沢山さんが今言ったような事態が起こる。
暮沢──彼が「戦争画RETURNSなんかを手掛けていたのは1990年代ですよね。当時は「左傾化が気に入らなかったから始めた」「よくいるソフト左翼だった父親への反発が根底にある」という趣旨のことを言っていましたが、こういう物謂いには当然反発もあって容易には収拾しないので、その意味では沢山さんのいう統合不可能性が1つのテーマとなっていると言える。彼自身はその問題に一応の決着をつけたんだろうけど、現在は当時とは大きく時勢が変わっているから、仮に今同じテーマに取り組んだら当時とは全く違う視点が出てくるかもしれませんし、それを見てみたい気もします。
足立──戦争画という問題については、日本の戦争画だけを見ていると袋小路に陥ると思います。2年前にソウルの国立現代美術館徳壽宮分館で『アジアのリアリズム』展★57という、アジア10カ国の近代油彩画を集めた展覧会が開かれました(これは、『アジアのキュビスム』展(東京国立近代美術館他、2005年)の続編として企画された重要な展覧会なのですが、日本には巡回しなかった)。この展覧会の中で重要な部分のひとつに、日本・中国・韓国・フィリピン、ベトナムなど、アジア各国の戦争画がたくさん並べられたコーナーがありました。戦争画は、日本では戦前のこと、遠い昔のこととして当たり前のように思われています。しかし、例えばベトナムの戦争画は1970年代のベトナム戦争の最中に描かれていたわけです。これは発見だった。戦争画を過去と結びつけることは、決して当然のことではない。要するに、戦争が起きている地域では、今現在でも、常に戦争画なり、戦争の表象が作られ続けているわけです。そう考えてみると、イラクと戦争していた時のアメリカで描かれた絵画も戦争画に見えなくもない。また、もっと話を広げれば、アメリカとソ連が冷戦状態にあった時の美術、たとえばポップ・アートはソ連の教条的な文化に対するカウンターとしてある意味で国策として称揚された部分もあったと思います。つまり冷戦美術も戦争美術の一形態ではないか。そうすると、戦争画というものを一時期に特定して考える日本のものの考え方がむしろ特殊なのかもしれないと思いました。
沢山──やはり日本における美術受容の問題点が、戦争画問題に露呈しているのだと思います。つまり戦争画がなぜあれほど日本の美術史上を揺るがす大スキャンダルになってしまったのかということですね。否応なく社会的なトピック、国家的な状況に組み込まれた戦争画が、それまで信じられてきた美術の自律的展開という神話を破壊したことに起因するのであればちょっと悲しいですよね。ただ、先ほど足立さんが言われたポップ・アートしかり、社会学的なトピックや、資本主義的問題、政治的・国家的な問題と現代美術が無関係に展開してきたなどということはあり得ないわけです。広義に解釈すれば、未来派はもとより、フランツ・マルク★58が動物たちの闘争の情景を描いたり、戦地でカモフラージュの柄をデザインしたり、ウォーホル★59もカモフラージュを使っていますが、そのように考えると、ほとんど近現代美術の歴史は戦争美術の歴史にも見えてくる。最近では、レオン・ゴラブ★60なんかがその典型でしょう。実際に河本真理さんがそれに近い視点をもって研究をされていますよね。
足立──そういう意味で戦争画はドラマチックな時代ではありますね。また、これも日本の問題ですが芸術は自律的であるという神話があるからですね。
暮沢──逆に、自律的だからこそ芸術は国家にサーヴァントとして奉仕してしまった。結果として手のひら返しにあってしまったがゆえに、戦争画を語ることが困難になってしまったと。
沢山──一方で松本竣介がヒロイックな神話的芸術家の対象になっていく可能性があって、それはちょっとどうなんだろうと思う。竣介は「生きてゐる画家」という文章を1941年に発表して、時局に対抗したことで有名ですが、竣介が孤高の芸術家としての象徴性を帯びていき、そのようにして画家が善悪の二項対立的な図式のなかに当てはめられていくとすれば、いやだなと思います。
暮沢──福沢一郎にもその可能性がありますね。二項対立はやはりわかりやすい。
足立──ただ、日本美術ではそういった善悪の二項対立を設定しても、すぐに大きな例外にぶつかります。松本竣介だって戦争画を描いていたし、藤田嗣治が戦争画で一番おもしろいものを描いていたことは有名ですし。
成相──戦後と言えば必ず挙がるのが鶴岡政男★61の「重い手」と北脇昇★62の「クオ・ヴァディス」ですが、1950年代までは時代を反映した美術作品によって時代を語ることができるのに対して、1960年代以降の美術は社会と遊離していく、という定型化した話題があります。砂川闘争の絵はあるけど安保闘争の絵はない、とか。でもそれは逆に言えば50年代の作品を時代に固定しすぎていることでもあります。特に北脇や鶴岡は戦後を描いた作家というイメージが先行すると抜け落ちる部分があまりに大きい。対して今言われたように60年代以降の作家を冷戦下の状況と照らし合わせて考えることは今後に生かせる観点ですね。
暮沢──旧バージョンで「裏返しの戦争画」と書いた記憶がありますが、河原温★63の「浴室」などもどう再検討されるか気になりますね。彼は1960年代後半にニューヨークへ渡って「日付絵画」を始めてから、日本とは関係ありませんと装い続けていますが、それ以前の作品まで無関係にできるわけではないので。
足立──そういう意味でも美術史研究が同時代の社会的な問題に関わりうると思います。たとえば松本竣介の扱いがヒロイックなものへと変わってきたり、世の中が変な方向になる時に敢えて彼の戦争画に言及するとか(笑)
沢山──松本竣介★64はまだしも靉光★65なんかはよりヒロイックに見られますね。
足立──展覧会というもの自体、ヒロイックなものですよね。逆にいえば、ヒロイックでないと展覧会にはなりにくいのかもしれない。
暮沢──そういう意味で言うと、無言館★66とかいわさきちひろ美術館の役割は結構重要かもしれない。戦争美術館というと、近代美術館に「永久貸与」されている狭義の戦争画(作戦記録画)とか靖国神社の遊就館が真っ先に挙げられるけど、それ以外にも、戦争の記憶を表象する美術館の役割が一層展開されていかないといけない。