トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
5. 境界領域の展覧会
暮沢──他に旧バーションとの違いとして、狭義での美術にカテゴライズされない境界領域の展覧会が増えたと思います。たとえばアトリエ・ワン★67やSANAA、石上純也★68といった建築系の展覧会です。特に石上純也はほとんどアートと区別がつかないような展覧会が構成されています。あとはアニメやマンガです。これにはメディア芸術祭の流れもあります。1998年に東京都現代美術館で開かれた『マンガの時代展──手塚治虫からエヴァンゲリオンまで』★69では、アニメとマンガの区別がまともにされていないレベルでしたが、最近では作家にフォーカスしたり、かなり細かく分類されてきています。そのあたりもこの10年で大きく変わったポイントだと思いますがどうでしょうか。
成相──確かに建築展は増えていますが、美術館における展覧会という形式に相容れない面も多いと思います。何より実物を展示できないし、切り出して見せるのが難しく、建築の体験を見せようとすればするほど、石上さんのように美術展と見分けがつかない状況になる。それがいいのか悪いのか、またその区別が必要かどうかはさておいて、自ずと主題の抽象性が高くなったり原理に集約したものを見せていくために、見る側がそれを建築に引き戻そうとするときにハイレベルな作業が伴う気がします。
暮沢──模型や図面やCAD、せいぜい実物大のモックアップまでしか展示できないということですね。そのあたりの限界はありますが石上純也は越境的で、あそこまでいくとジャンルの区別自体を問うているところがあります。
成相──模型はあくまで模型ですから、「出品作」とするには二次的なわけです。模型や図面を想定すれば奇異に映るとしても、美術館において建築を考えさせるという意味では石上さんのようなアプローチはむしろ素直なやり方ではあるだろうと思います。
足立──建築模型はものとしての魅力が弱いと思います。もちろん、概念や事実として見た時に、美術作品と同じような重要性があるとは思います。まあ、建築展で模型を精巧につくったり、映像を使ってスペクタクルを充実させていったり、アート作品をつくってしまうのも、それはそれでありだと思いますが、そんなに関心を持てないですね。
成相──漫画に関して言えば、原画を並べればマンガ展になるわけでもない。圧倒的に「見る」側面が強調される一方で「読む」方はほとんどないがしろにされることになります。原画の希少性とか複製芸術におけるコピーとオリジナルの違い以前に、まず展示という方法と展覧会というメディアが、体験をまったく別物にしてしまうわけです。それがマンガ展の一番の難しさではないでしょうか。
暮沢──絶版で手に入らないものには資料的価値がありますが、それを読むものとして提示するのは展覧会の役割ではありません。マンガ展では美しいものに焦点を当てた原画などを見せることになります。
成相──とはいえ僕がやった「石子順造的世界展」ではつげ義春さん★70の「ねじ式」原画を出品したわけですが…
暮沢──あの展示を見て、マンガが美術史に組み込まれつつあるなと思いました。実際にマンガを研究して大学で博士号を取る人もいます。
成相──それと、アニメやマンガに直接の参照源を持つ美術作品が非常に増えました。これもこの10年ほどの動きのひとつだと思いますが、中原浩大さんや村上隆さんが登場した頃には違和感を伴っていたものが、今では通例とさえいえる状況になっています。
暮沢──旧バージョンをつくった時にネオ・ポップという項目を立て、「反発を呼ぶ」などと書いた記憶がありますが、それから10年経って、今では当たり前の風景になったと思います。
成相──東京都現代美術館のジブリ展をはじめとして、最近話題になったものだと『水木しげる』展★71や『大友克洋』展★72、『ONE PIECE展』★73など、もはやマンガ・アニメ展は泰西名画と並ぶブロックバスター展となっています。建築やデザインの展覧会も多くの集客がありますが、それらは学生が大部分であるのに対して、マンガやアニメはファン層がケタ違いに多い。こうした状況で求められるのが収蔵、常設展示や継続的な研究の場です。建築は国立近現代建築資料館が今度開設され、マンガについては明治大学が「東京国際マンガ図書館」★74を2014年度の完成を目指して準備を進めています。先ごろ米沢嘉博記念図書館が先行してオープンしました。
暮沢──広島市まんが図書館や京都国際マンガミュージアムといったものもありますし、京都精華大学ではマンガ学部ができています。
足立──マンガの歴史は、他の分野に比べれば本当に研究されていないですよね。特に戦前のマンガについては、全然知られていない。そもそもマンガの資料が普通の図書館にはないので、自らコレクターとなるか、コレクターと知り合わなければ研究は不可能です。なのに、大学にはマンガの専攻がいくつもあったりします。しかし、同時代のマンガを理解するためにも、いずれきちんとマンガの歴史を研究できる環境が作られるべきだと思います。
沢山──成相さんがやられた「石子展」も、現在の状況下では、マルチメディア化する展覧会とかマンガとアートの融合という名の下に現代美術の裾野を広げようとしているとか、大衆性を確保しようとしているとかというふうに誤解を受けてしまうかもしれない。「石子展」は美術・マンガ・キッチュという三つのセクションがあって、それぞれが独立しているように見えるけれど、美術からキッチュに至る展示の流れは、実際には石子自身の活動のクロノロジーを形成するものなんですね。つまり現代美術のセクションは初期石子順造として見ることができ、その後に後期石子順造としてのマンガとキッチュのセクションがある。石子は徐々に現代美術の閉鎖性を批判して、現代美術批評から離れていきましたよね。要するに現代美術は閉じた生産体系で自閉していて、そこにはネットワーク的な思考やコミュニケーションの流動性がないと批判する。石子は、文化的な生産で重要なのは自律したオブジェクト=作品よりも流通体系だと考えていて、その参照元として初めてマンガやキッチュが浮上してきます。だから単に石子が対象として現代美術からキッチュに関心を移したのではなく、ひとつの生産体系として文化を見た時に当然現代美術が批判の対象になるということです。1960年代の言説におけるコミュニケーションの重要性は鶴見俊輔★75や吉本隆明★76もさかんに議論していますが、そのような生産体系のなかに改めて文化を位置づけようとした。そのときに現代美術が相対化され、文化的な競合状態、もっと言えば文化的な抗争が起きてきます。それが石子にとっての批評の現場だった。もっと言えばラクラウとムフの概念で「敵対性」というものがありますが、それに近い。そのような意味で、成相さんの石子展は現代美術の敵対性としてマンガやキッチュを併置しているように見えたので感銘を受けたのです。むしろ、昨今の「アートとなんとかの融合」みたいなものとは逆のベクトルなのかな、というのが僕の理解です。各々のジャンルを規定する生産体系や技術体系の違いを定義することが重要であると。
暮沢──メディアアート系の展覧会も増えたと思います。かつては四方幸子さん★77や阿部一直さん★78が「キヤノン・アートラボ」で常設の会場を持たない活動をしていました。もうひとつ1997年に開館したICCがあり、現在まで継続されています。それ以外にも割と増えたと思います。また、東京国立近代美術館では2009年に『ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』★79がありましたが、そこに1960〜70年代の古い作品があって、それに対応するかのようにブラウン管テレビで見せていました。それを見て、メディアアートが歴史化されたような印象を受けました。研究も進んでいて、旧バーションの時にはほとんどなかったメディアアートの教科書みたいなものも今ではかなり出ています。
沢山──1960年代の美術を現在回顧したとき、ナム・ジュン・パイク★80のように、新種のメディアにアートが進出していって、彫刻とヴィデオの融合的な反応が起きた、これはマルチメディアの先取りだという視点は当然あり得ると思いますが、あの『ヴィデオを待ちながら』展ではロザリンド・クラウス★81の論文「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」が直接的な参照元となっていて、展示の冒頭がまさに「鏡と反映」というセクションでした。ヴィト・アコンチ★82などが出品していて──1970年代初頭の映像においては、それまで彫刻やパフォーマンスをやっていたアーティストたちがヴィデオ作品の制作を行なったのですが──ヴィデオと何かを融合したというよりも、実際にはヴィデオというメディウム自体の自己批判・自己定義が行われた。つまり、新しいメディアが出てきたときにそのメディアの吟味がなされたということです。成相さんの石子展にも通じますが、単に融合していきましょうというのではなく、新たな文脈を構築していくときに、元々の文脈や生産体系が持っている自己規定、物理的な条件、流通体系、社会的・資本主義的・政治的な条件を吟味するという動きですね。これはアーティストに限らずアカデミシャンやキュレーターも同じ役割を負っていると思うのですが、最低限の理解の上で化学反応や拡張性を機能させないといけない。翻って文化諸ジャンルはもちろん、教条的なモダニズムの言説がそう主張してきたように単に自律的に展開すればいいわけではない。アートと建築の融合という展覧会も別にいいんですが、単に建築がアートっぽくなったり、逆にアートが建築っぽくなるだけで、結局ディスコミュニケーションに終わってしまう。
暮沢──ただ居合わせるだけでは共犯関係が成立しないということですね。作家の選出はもちろん、作品の配置の仕方いわゆるプレースメントもキュレーターの見識が問われる部分ですが、インタージャンルを謳う展覧会であればとりわけその部分にセンシティヴでないとならないと。
沢山──過激な言葉を使うと、抗争状態を起こすことが重要です。本当の意味でのマルチメディアの可能性は、複数のジャンル間で抗争を引き起こすこと。石子はまさにそういう批評を展開したのかなと思ったわけです。
成相──石子順造展をこんなに話題にしていただけて恐縮です(笑)
暮沢──展覧会はそうやって神話化されていくんです。かつての「人間と物質」展がそうだったようにね(笑)