
2025年で設立30周年を迎えるartscape。過去に更新されてきた記事のバックナンバーは、その大半がアーカイブされ、現在もオンラインから読むことができることは実のところあまり知られていません。このサイトに親しんできたさまざまな世代の学芸員や研究者、アーティストたちが、それぞれにとっての思い出の記事や、いまだからこそ注目したい記事を取り上げ、当時の記憶を振り返りながら綴る連載「それぞれのバックナンバー」。第2回目の執筆者は、artscapeの中核を担うコーナーのひとつ「キュレーターズノート」(2008年以前は「学芸員レポート」)で2009年から約16年間にわたり、身の回りの展覧会などにまつわる思索を仔細に綴ってきてくださった、学芸員の能勢陽子氏。2010年代における大きな出来事であった東日本大震災と、それを契機に問われたアートの存在意義を探っていく営みについて、今一度考えていきます。(artscape編集部)
失われつつある生々しさ
2009年3月から2025年1月まで、16年の長きにわたってartscapeに寄稿させてもらった。いわゆる展覧会のレビューから自身の活動報告まで、特に縛りはなく自由に書かせてもらえる「キュレーターズノート」の存在はありがたかった。東海地方で活動する学芸員としての依頼だったが、地域にかかわらず、そのときに取り上げたいものを自由に書かせてもらっていた。artscape30周年ということで過去のノートを振り返ってみたとき、もっとも印象に残っているのは、展覧会のレビューではなく、2011年12月1日号に掲載した「考えるテーブル『志賀理江子連続レクチャー』」であった。それは、移り住んでいた宮城県名取市北釜で自身も被災した志賀が、せんだいメディアテークで約9カ月間にわたり月に一度のペースで行なっていた全10回のレクチャーシリーズについてのものであった。
考えるテーブル「志賀理江子連続レクチャー」|能勢陽子:キュレーターズノート(2011年12月01日号)
2010年代は、地震と原発事故が、私たちに経済活動と科学技術、都市と地方、共同体やケアの問題に向き合わせた時代であった。震災から14年が経過した2025年の現在、あのときの生々しさは失われつつあり、原発の再稼働の動きも浮上している。当時、アートになにができるのかといった問いや、当事者性に関わる議論が、アーティストや美術関係者の間で盛んに交わされていたが、その後も継続されてきたとは言いがたいだろう。大災厄を前にしたときの衝撃や不安、無力感はとてつもなく大きいが、それは時とともに薄らいでいく。我ながら、なんと軽薄なことかと思う。被災地に何度か足を運んでいたが、「Reborn-Art Festival」のために久しぶりに石巻を訪れたとき、いまは震災遺構になっている小学校と海の間に広がる茫漠とした新地を見て、目眩がするような感覚を覚えた。ずっとそこに住み、変わり続ける光景を日々見続けてきた人々のことが、頭から抜け落ちていたことに気づいた。改めて、浅薄なことだと思った。
[2022年9月、筆者撮影]
移り変わる時間のなかで、写真は
この2011年12月の「キュレーターズノート」には、拙くはあるものの、当時のある切実な思いが反映されているように思う。未曾有の大災害にそう簡単に近づけるものではないが、それでも居ても立ってもいられず頼りにさせてもらったのが、志賀のレクチャーや北釜の公民館での写真の救出活動、その翌年のせんだいメディアテークでの個展「螺旋海岸」(2012年11月〜2013年1月)であった。親しかったからというわけではない。志賀の一連の活動には、ただ作家の営為を観るということを超えた、その地の人々の生に触れさせてくれる、なにかリアルなものがあったからであった。
写真は私たちが生きる、つねに移ろい続ける世界の外側の、静止した時間にある。それは、写真が過去の一瞬を記録する媒体であるという意味ではない。美術作品には、目の前で起きたことに反応して形成されること以上の、時空を超えたなにかがある。それはいわば後から、通常の時間、世界の時間の裂け目に、新たな存在感をまとって浮かび上がってくる。どんな災厄も、それにより傷ついた当事者たちを置き去りにして、時とともに風化していく。忘れられ、また繰り返されることが、人間の長い時間とともにあるかのようである。いま志賀の写真を観ると、あのときの、まるで世界が反転してしまったような感覚、普段目に見えない矛盾が突如として噴出したような衝撃が、鮮明に甦ってくる。そして震災から14年が経過したいま、そこに人間の業や強さや弱さ、そしてやさしさも、また見えてくる。大災害を前に芸術になにができるのかという問いに相変わらず答えは出せないが、芸術はこの移り変わる時間のなかに生きる人間の姿を、ある普遍性とともに観せてくれる。それはなにもかも不確かなこの生のなかで、確かな拠り所を与えてくれるように思うのである。
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関連リンク
志賀理江子レクチャー「考えるテーブル」(せんだいメディアテーク/2011年6月12日〜2012年3月18日、全10回):http://table.smt.jp/?p=4095
志賀理江子「螺旋海岸」(せんだいメディアテーク/2012年11月7日~2013年1月14日):https://www.smt.jp/rasenkaigan/
