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志賀理江子 螺旋海岸

2012年12月01日号

会期:2012/11/07~2013/01/14

せんだいメディアテーク[宮城県]

「北釜」を歩いた。
仙台駅から仙台空港駅まで鉄道で30分弱。駅のロータリーから延びる道に沿って海に向かう。ひしゃげた欄干の橋を渡ると、目前に現われたのはだだっ広い平原。神社と一軒の民家以外、何もなかった。乾いた雑草と、せわしなく往来するダンプカーの光景からすると、まるで荒涼とした埋立地のような印象だが、いたるところに残された剥き出しの基礎が、この街を壊滅させたすさまじい破壊力を物語っている。平原のなかにポツンと立つ一軒の民家は、奇跡的に破壊から免れたのだろうかと思って近寄ってみると、健在なのは2階だけで、1階は大半の壁が打ち破られ、数本の大黒柱が辛うじて2階を支えていた。
軽い丘を超えた松林のなかに志賀理江子のアトリエ跡があった。海風にあおられて陸のほうを向いた松林や硬い砂浜の上に転がった松ぼっくり。薄い雲の隙間から夕陽が差し込んでくる。護岸工事のために奮闘しているショベルカーの駆動音が聞こえなければ、とても現実とは思えないほど、荒涼とした光景である。まるで志賀理江子の写真そのものではないか。
そのとき、ふと気がついた。そうか、志賀理江子の写真は幻想的で非現実的な構成写真だと思っていたが、その構成と演出は、虚構の世界を構築するというより、むしろ現実社会のなかの幻想性を極端に強調したものだったのだ。此方と彼方を明瞭に区別しているわけではなく、此方が内蔵する彼方を引き出していたのだ。彼女の写真に描かれる死の世界が恐ろしいのは、それがいずれ訪れる死の光景を予見させるからというより、それが私たちの内側にすでに広がっていることを目の当たりにさせるからだ。そして何よりも恐ろしいのは、そのような写真をつくり出す志賀理江子の眼差しである。いったい、どんな世界を見ているというのだろう。そこに戦慄を覚えながらも、その視線が生み出す新たなイメージに、よりいっそうの期待を抱かずには入られない。

2012/11/16(金)(福住廉)

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