会期:2026/05/23~2026/10/18
会場:金沢21世紀美術館[石川県]
公式サイト:https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=65&d=1854

前編より)

前編で予告したように、企画展「路上、お邪魔ですか?」と「コレクション展 歩く、とどまる」はテーマ的にリンクしており、「路上」および「歩行」という行為がはらむ政治性や批評性については、コレクション展の方がむしろ際立っていた。本レビューでは、ジュン・グエン=ハツシバ、村上慧、柳瀬安里、陳劭雄(チェン・シャオション)の4名に焦点を当てて考察する。

ジュン・グエン=ハツシバの《メモリアル・プロジェクト ナ・トラン、ヴェトナム:複雑さへ─勇気ある者、好奇心のある者、そして臆病者のために》は、水中に潜った若い男性たちが三輪自転車タクシー「シクロ」を引っ張って、海底を前進しようとする様子を捉えた美しい映像作品である。光の揺らめく海底で、水圧や水流に翻弄されながら若者たちがシクロを引っ張って進む光景は幻想的であり、「水中世界」は、守るべき交通ルールも敷かれた「道路」すらもないという意味では、限りなく自由に見える。だが、海中で息を吐き出しながら進む彼らの身体は、何度も水面へ浮かび上がって呼吸することを余儀なくされ、水圧や水流に抗いながらのわずかな「前進」はその都度中断される。グエン=ハツシバにとって、シクロは、ヴェトナムの急速な社会変化に翻弄される労働者を象徴するモチーフである。庶民の足だったシクロは、ヴェトナム戦争後、元兵士を含む失業者が生計を立てる手段となったが、1986年の市場経済導入以降は、バイクや車の普及によって衰退していった。映像内で若者たちが水中に吐き出す息は、身体にかかる負荷の大きさに加え、「声を上げようとしても封じ込められている」という事態そのものを可視化する。


ジュン・グエン=ハツシバ 《メモリアル・プロジェクト ナ・トラン、ヴェトナム:複雑さへー勇気ある者、好奇心のある者、そして臆病者のために》(2001) [© JUN NGUYEN-HATSUSHIBA, Courtesy: Mizuma Art Gallery, Tokyo / the artist Commissioned by Yokohama Triennale 2001 写真提供:金沢21世紀美術館]

さらに、タイトルの「ナ・トラン」という地名は、ヴェトナム戦争時に米軍の補給拠点が置かれた軍港であり、戦後、多くの人々が命がけで海に漕ぎ出し、ボートピープルとして国外脱出を試みた場所である。「水圧に抗いながら、呼吸も発話もままならず、海底で困難な歩行を続ける」という行為は、国家や制度によって敷かれたさまざまな境界線の越境を試みる者たちの再演(リエナクトメント)となる。終盤、若者たちは水面へと上昇し、海底に置き去りにされたシクロは、棺のような白い布で覆われる。それは、背負わされた重荷からの解放でもあり、同時に追悼の象徴でもある。

同様に、「自作した発泡スチロール製の家を背負って歩く」という身体的に負荷のかかる行為を2014年から7年間継続したのが、村上慧の「移住を生活する」というプロジェクトである。横になれるサイズのコンパクトな「家」を自作した村上は、日中は「家」を背負って徒歩で移動し、夜は、「家」を置いて寝るための土地を探し、敷地や駐車場に泊めてもらえないかを土地の持ち主と交渉する。その移住の日々は、「家」を置かせてもらった敷地の写真、日記、ドローイング、映像で記録される。家や土地を購入して所有する、あるいは、毎月、家賃や電気代、水道代を支払って、「安定した生活基盤」を得ることと引き換えに、住民税や固定資産税を支払う。村上は、「不動産」自体を土地から動かすことで、家や土地の「所有」の概念とともに、公/私の境界線、「居住地」に基づく社会制度をユーモアを込めて問い直す。


村上慧《移住を生活するin能登》(2020)作家蔵[photo: Keizo KIOKU 写真提供:金沢21世紀美術館]

「歩くこと」は単なる移動ではなく、制度の矛盾や間隙を鋭く突き、批評や抵抗の手段ともなる。このことを、沖縄・高江のヘリパッド建設工事現場のゲート前で、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩く行為によって示すのが、柳瀬安里《光のない。─私の立っているところから》である(詳細は、2017年に発表された個展の拙評を参照されたい)。東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を契機に書かれたイェリネクの戯曲は、「わたし/あなた」「わたし/わたしたち」という人称代名詞が多用され、抽象的なモノローグの形式をとる。だが、このテクストを、建設工事反対デモと機動隊が行き交う現実の路上を通過しながら、あるいは壁として立ち塞がる機動隊員の列や基地のフェンス前で柳瀬が発話するとき、「わたし」「あなた」「わたしたち」という交換可能な空白にはその都度異なる主語が書き込まれ、境界線は何重にも重なり合い、曖昧化されながら不断に書き換えられていく。日本と沖縄、日本とアメリカ、沖縄とアメリカ、柳瀬と機動隊員、柳瀬と鑑賞者……。


柳瀬安里《光のない。-私の立っているところから》(2016-2017)[© YANASE Anri 写真提供:金沢21世紀美術館]

柳瀬は、本作に先立って、2015年夏、国会議事堂周辺の安保反対デモに集った群衆のなかを歩きながら、道路に「白線を引いていく」パフォーマンスを記録した《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》を発表している。「路上に線を引く」シンプルな行為が、困惑の眼差し、疑念や問いただす言葉、「落とし物を探しているのか?」という善意の心配など、人々のさまざまな反応を引き起こし、社会に内在する潜在的な境界線や分断の構造を可視化する。本作の参照源として、フランシス・アリスの《グリーンライン》(2004)が挙げられる。「グリーンライン」とは、1949年、イスラエルの建国をめぐって勃発した第一次中東戦争の休戦協定で定められ、イスラエルとヨルダン川西岸を分離する境界線である。アリスは、緑のペンキを垂らしながら、地図上に引かれた境界線をなぞって歩く行為によって、現実の路上には存在しない、潜在的な分断線を可視化した。「詩的な行為が政治的になることもあれば、政治的な行為が詩的になることもある」とアリスが述べるように、柳瀬の作品もまた、戯曲を朗読するという詩的な行為を、国家の境界線や帝国主義的な暴力が交錯する路上において行なうことで、政治性を帯びたものへと(再)変換させる。

政治的意思表明の場としての路上=デモの無数の画像を墨画で描き、アニメーション化したのが陳劭雄の映像作品《インク・メディア》である。目まぐるしく切り替わるデモの光景は、オキュパイ・ウォール・ストリートなど欧米圏に加え、「アラブの春」に代表される中東圏やアジア圏など世界各地にわたる。地理的範囲の広さと「センセーショナルで視覚的に刺激の強いイメージ」が選ばれていることから、これらの光景は作家自身が目撃したのではなく、メディアによって切り取られたものであることがわかる(インターネット上で収集した画像が元になっている)。


陳劭雄《インク・メディア》(2013)[© Luo Qingmin、Estate of Chen Shaoxiong 写真提供:金沢21世紀美術館]

ここで着目したいのは、「怒りに顔を歪め、全身で抗議する人物」には男性が多く、女性が登場する場合は、ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》に扮するなどトップレスだったり、ビキニ姿など露出が多く、かつ若い白人女性が多い点だ。視聴者の目を瞬間的に引きつける「センセーショナルなイメージ」が選別される際、「若い女性の性的な身体」というジェンダー化されたフィルターがかかっていることは明らかである。露出の高さは「抗議への注目を高める」戦略であると同時に、目的とは無関係に性的に消費される危険性もはらむ。そして、この背後にあるのは、路上に現われる身体とはジェンダーにおいてニュートラルなのではなく、常に「それを眼差す他者の視線」によって、ジェンダー化されているという構造だ。シリーズ後編では、この点を念頭におき、再び「路上、お邪魔ですか?」展に立ち戻りながら、ジェンダーやセクシュアリティと「路上」について考える。

鑑賞日:2026/06/20(土)

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(後編へ)※8/7公開予定