本誌の編集部に参加してまもないのですが、「キュレーターズノート」の原稿を読むたびに「学芸員」や「キュレーター」という職能の広さに驚かされます。例えば、ひとつの展覧会をかたちにするだけでも、膨大なインプットにはじまり、作品借用や輸送、設営をめぐる細かな調整や無数の事務作業まで、途方もない試行錯誤を経て、ようやく空間ができあがります。

今号から執筆を担当いただくアーティゾン美術館の内海潤也さんは、東京都写真美術館でのインターン時代、展覧会の「物理的条件に立脚しつつ、考えを展開しなくてはいけないのだと痛感」したと振り返ります。そして「思想や理論も、空間、予算、時間、安全性、輸送、保全、そして多くの人の労働を通って、初めて展覧会のかたち」になる、と言います。

つまりキュレーターの仕事は、空間に作品を立ち上げる物理的な仕事であり、非常に身体的な側面があるのです。同じく「キュレーターズノート」の著者である、福岡市美術館の忠あゆみさんもまた、自身の3歳の子どもが、展示された絵を「しかくい『え』はきらい」と話したことに端を発して、展覧会と身体について思いを巡らせました。

忠さんは最後に「子どもが『きらい』と言っていたのは、絵画ではなく自分の身体が入り込めない鑑賞の形式だった」と結んでいます。鑑賞するときに、そこに直接的な身体の接触はありません。しかし、誰かがつくった作品を、見知らぬ誰かに届ける仕事の根底には、そこにない「誰かの身体」を想像しながら空間を編む技術があるのだと、両氏の言葉から受け取りました。(s)