小吹隆文/福住廉 |
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11/13-11/17 |
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愛の力学 青木万樹子展
11/13〜25 CUBIC GALLERY[大阪] |
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会場に2点出品された家族の肖像がとても目を引く。何枚かの写真を合成して描いたそうだ。家族をテーマにすると即ち家庭崩壊、人間不信などの単語が付随する昨今だが、青木の作品を見ているとそれらネガティブなアプローチが陳腐に思えてくる。極めてパーソナルな動機から自己の現在位置を見つめ直すために描かれた作品。それゆえ見る者にとっても自身を見つめる鏡となる。作者と自分、二つの波紋が響き合って、豊かな絵画体験がそこに生まれた。
[11月13日(月) 小吹隆文] |
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高須英輔 ー階段レリーフを中心としたー
11/13〜25 ギャラリー風[大阪] |
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幾何学的抽象絵画を思わせるレリーフの小品など約90点を出品。さまざまな色や模様の木材を組み合わせた作品は、階段状の部分以外ほとんど手が加えられておらず、一見非常にシンプル。なのにいつまでも見飽きないのはひとえに作家のセンスゆえだろう。15センチ四方の極小空間で展開される豊かなバリエーションに、優れた変奏曲を聞いた時のような感動を憶えた。
[11月13日(月) 小吹隆文] |
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山本作兵衛作品展
10/31〜11/26 Space & Café ポレポレ坐[東京] |
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ポレポレ東中野で公開されたドキュメンタリー映画『炭鉱に生きる』(監督:萩原吉弘)にあわせて開催された展覧会。テレビ番組のような映画の出来はともかく、フィ
ルムで言及されていた絵を直後に鑑賞できる機会はそうはないし、作兵衛翁の炭鉱画30点あまりを一挙に見られるのはたいへん貴重だった。
[11月14日(火) 福住廉] |
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第38回日本美術展覧会
11/2〜11/24 東京都美術館[東京] |
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いわずと知れた日展。日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書といった制度的ジャンルに分けられた、およそ3000点あまりの作品が狭い会場を埋め尽くし、そのあいだを老若男女の来場者が群れをなしてひっきりなしに行き来する。毎年のように繰り返されているこうした光景が、この国の美術のリアルな一断面である。 たしかに、この旧態依然とした制度を批判することはたやすい。モチーフや技法の極端な偏向、序列化された縦割り制度、文化行政との癒着などなど、肯定する要素がほとんど見当たらないほどだ。なかでも、東京オリンピックのユニフォームと見まがう、ほとんど化石のような制服をいまだに着用させられている若いスタッフの姿を見ると、心が痛んでやまない。 だが、では日展的な美術が否定されるとしても、それにたいして現代美術系のアートが肯定されるかといえば、そうとも言い切れない。なぜなら、後者が信じているほど前者と後者のちがいは明確ではないように思われるからだ。それは、端的に作品を評価する基準を見れば、よくわかる。
日展の場合、まず応募作品のなかから入選作品が選ばれ、それと無鑑査作品が会場で展示されるが、そのなかから内閣総理大臣賞および文部科学大臣賞、さらには日展会員賞、特選といった序列化された賞がそれぞれのジャンルごとに与えられる。この審査を行なうのが日展内部の審査員で、会期中にあわせて発行される目録には、その審査員らによる審査所感と受賞理由が公表されている。これを細かく見ていくと、審査基準というには程遠い、断片的な言葉の羅列が開陳されているが、とはいえある一定の傾向を見出すこともできなくはない。たとえば、どのジャンルにも共通して見られるのは、「生命の輝き」「生命の躍動感」「旺盛な生命力」といった生命主義的な言説である。また「格調の高い」「詩情あふれる」「高い精神性」といった硬い言葉が続くかと思えば、「素朴な表現」「ほのぼのとした豊かな表現性」「おおらかさにあふれた」といった軟らかい言葉も見られる。挙句の果てに「心の鼓動と現代の風」「スケールの大きな人間性」といった言葉を目の当たりにすると、もはやその言葉で何を意味しようとしているのかさえおぼつかない。どうやら日展に固有の審査基準を明文化するかたちで抽出することは難しそうだ。
しかし、翻って現代美術の審査基準が明瞭であるかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。「精神性が高い」という陳腐な言葉は今でも平気で使われているが、それが実質的に何を意味しているのか、ほんとうのところは誰にも説明できない。このことは、審査基準にとどまらず、批評の言語の貧しさにも通底している。名目上、印象批評は乗り越えられたことになっているとはいえ、それは作家へのオマージュやもっとひどい場合はポエティックなファン批評に姿を変えて生き延びている。あるいは理論好きの連中は自分の勉強自慢を随所で披露したがるが、多くの場合それは論旨の本筋とは関係ないことで、一行で言えることを一頁かけて言うくらいに、まどろっこしい。さらに、最近では「グッときた」「ヤバイ」といった、全面的に感性に依存した言葉によってアートがとらえられはじめている。言葉の貧困という面で言えば、日展と現代美術とはまったく変わることはなく、いずれの場合も同じ貧しさを抱えた構造に依拠しているのである。
もちろん、一方でその貧しさは芸術という非言語的な表現領域の特性に起因していると言われる。もともと言葉で表現されているわけではないのだから、それを言葉に翻訳すればある程度類型化されるのは致し方ないというわけだ。だが他方で、それは言語をないがしろにしてきたこれまでのツケがたまりたまったことに端を発しているとも言えるのではないだろうか。言葉の可能性を限界ギリギリまで突き詰めることなく、安易に非言語的な表現に走ってしまうことで、もともと持ちえていた言語表現の基準が否応なく引き下げられてしまう。それは安っぽい言葉を量産することのみならず、結果として芸術的な感性や感覚をも貧しくしてしまいかねない。ヒトは言葉でものを考え、そうして言語で世界を構築しているのだから、言葉の貧困は芸術の窮状に直結している。アーティストだろうと詩人だろうと、まずは徹底的に言葉の訓練をみずからに課すべきである。「日本的なるもの」を正面から乗り越えるには、おそらくここが出発点となるはずだ。
[11月14日(火) 福住廉] |
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碓井ゆい展 playing in a quiet room
11/11〜12/2 studio J[大阪] |
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学校の音楽室にある大作曲家の肖像画やハーモニカ、タンバリンなどの楽器が布地や木切れと合体し、廃墟から剥ぎ取ってきたかのような造形物として展示されている。なのに荒んだ印象は一切ない。逆に一種の懐かしさ、そして温かさが滲んでくるのだ。いつの間にか忘れていた幼年時代の記憶がポッと灯ったような愛おしさが、ここにはある。同時に、長年使われた道具に魂が宿る付喪神が現代アートに憑依したような、不思議な感触も得られるのだった。
[11月17日(金) 小吹隆文] |
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