藤川哲: 2009年3月アーカイブ

1999年は、ハラルド・ゼーマンがヴェネツィア・ビエンナーレ第48回国際美術展の総合監督を務めた年です。

ゼーマンは、2001年の第49回展も続投しました。雑誌『アートプレス』の99年6月号に掲載されたインタヴューで、「今後、監督の任期は4年になった」と述べていますから、最初から続投の予定だったようですが、第50回展以降の総合監督は毎回異なるので、4年任期制はゼーマン一代限りとなったと考えられます。

第48回展を、ゼーマンは「全解放:ダペルトゥット/アペルト・オーヴァー・オール/アペルト・パル・トゥ/アペルト・ユーバー・アル(dAPERTutto / APERTO overAII / APERTO parTOUT / APERTO überALL)」と題しました。伊・英・仏・独の4言語表記は、第49回展「人類の舞台(プラテア・デル・ウマニタ...)」にも引き継がれます。

「展覧会はキュレーターの作品か?」といった議論がありますが、最近講義の関係で読み直した佐々木健一さんの『タイトルの魔力』(中公新書)には、「名づけ」という行為そのものが、ひとつのものの見方の提示である、と書かれていました(121頁)。展覧会の題名が、その全体像をうまく言い表していることもあれば、逆に裏切っていることもあるように思いますが、展覧会に題名を与える立場の人は、少なくともその展覧会の作者的な役割を担っている、と言えるでしょう。展覧会がキュレーターの作品化することの善し悪しを別として、キュレーターが展覧会の「タイトルづけ」を介して、そうした立ち位置にあることを論及していくことには意義があると思います。

ドクメンタ(72年)、リヨン、光州(97年)、シドニー(00年)、セビーリャ(04年)など、ヴェネツィア(80, 99/01年)以外にも数々の国際美術展の企画に携わったゼーマンは、2005年2月18日に71歳で亡くなりました。

2005年6月に開幕した第51回展以降、ヴェネツィア・ビエンナーレの主会場にあるスイス館(ゼーマンはベルン生まれ)の外壁には、「ゼーマン通り」という表示が掲げられています。

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カステッロ公園のスイス館 2005年6月15日12時55分(晴れ)

1995年のヴェネツィア・ビエンナーレでフィルムを51本使った話の続きです。

合計1,757枚という数は、当時1本のフィルムで36枚から38枚撮影できたことを考えれば、200枚近く少ない計算になります。ヴェネツィアの風景など展覧会と直接関係のない写真や撮り損じを除いた数、という意味でもあるのですが、より具体的には、100枚ずつPhoto-CD化したものが17枚、そして18枚目のCDに57枚の画像が記録されていた、ということから導き出した数字です。

当時、ネガやポジから画像データに変換して、CD-Rに焼きつけてくれるサーヴィスがありました。93年にもこのサーヴィスを利用して3枚のPhoto-CDを作成しています。

今回、このブログの記事を書くにあたり、先ずそれらのPhoto-CDから画像を取り出してみましたが、768×512ピクセルというサイズは、すでに実用的な水準からこぼれ落ちてしまった感じを受けました。そこで、他の記事で表示している写真と合わせる意味でも、あらためてフィルムからスキャナで取り直してみたところ、サイズだけでなく、色調やコントラストもより好状態の画像が得られました。この分野での技術が日進月歩で向上してきたことを実感します。
 

1997年は、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展とドクメンタX、ミュンスター彫刻プロイエクテの3つの大型展が重なった最初の年です。ドクメンタは1972年の第5回展以降、5年ごとの開催に安定し、ミュンスターは1977年の第1回展以来決まって10年ごとに開催されたので、2つの大型展はずっと重なっていたのですが、1990年代に入って、ヴェネツィア・ビエンナーレが95年に100周年を迎える関係から、93年に、それまでの偶数年の開催から奇数年の開催へと変更したため、3つの大型国際美術展が連続して開幕する「惑星直列」のような周期性が生まれたのでした。今後もいずれかの国際美術展に開催周期のずれが生じない限り、10年ごとに3つの大型展が重なるヨーロッパ現代美術の一大イベントが続くことになります。2007年にはアート・バーゼルも含めた「グランド・ツアー」という協力体制も生まれており、さらなる展開もあり得るでしょう。

私はこれまで1997年、2002年、2007年の3回のドクメンタを訪れましたが、もう少し長く見続ければ、惑星直列の年(97年、07年)とその裏の年(02年)というように、ドクメンタを2つに分けて、対比的に論じることが可能になる、と考えています。
 

ところで、1997年の私は、最初にお話した群馬県立美術館の学芸員になったばかりでした。公務員の1年目で年休は少なかった反面、業務的には先輩方にご協力頂いて秋口に出掛けることができました。夏季休暇や代休も合わせた9月20日から10月4日までの15日間で、パリ、リヨン、ミュンスター、カッセル、ヴェネツィア、ローマを回る計画を立てたのは、限られた日数内にできるだけ多くの展覧会場を訪れたかったからです。

当時私が所持していたデジタルカメラはQV-10Aでした。カシオから96年3月に発売されたヒット商品で、同年4月から水戸芸術館で開催された「水戸アニュアル'96 プライベートルーム」の取材用に購入したので、ほぼ発売直後に入手したことになります。日常的にはかなり活躍しましたが、内蔵メモリに96枚までしか記録できず、長期出張で大量に撮影する予定なら随時パソコンかFDに転送する必要がありました(しかも相当時間がかかりました)。画像のサイズはわずか320×240ピクセル。レンズも固定焦点で、引きのない会場で大きな作品を撮影するのには向いていませんでした。

限られた滞在時間と、撮影のためにノートブックか専用の読み取り装置を携帯しなければならないという煩わしさを考え合わせて、このときの旅行で「見ることに専念する」と決め、撮影そのものを自分に禁じたことは今でも悔やまれます。写真の必要があれば、プロが撮影したものを利用するべきだ、という妙な職業意識を持ってしまっていたとも言えます。この旅行で唯一撮影したのは―つまりそれでもQV-10A本体は携帯していました―リヨン・ビエンナーレの会場で見たクリス・バーデンの《空飛ぶスチーム・ローラー》でした。軍用の巨大なローラー車がメリーゴーランド風に旋回する様子は、写真に撮らなかったとしても今日まで脳裏に焼きついていたかも知れません。そして、むしろ印象の薄かった作品ほど、撮影しておくことの重要性をのちに痛感することになります。

QV-10Aの次に購入したのがビクターのGC-S1でした。しかし、サイズや解像度の点で、現在、使用に耐えられる画像となると2002年9月に入手したニコンのCOOLPIX 3100で撮影したもの以降になってしまいます。

 
20030917blog.jpgヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展の国別参加部門で金獅子賞を受賞したルクセンブルク館のツェ・スー・メイの映像作品 2003年9月17日16時18分(外は晴れ)

※ちょうど今、「ツェ・スー・メイ」展が水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されています(5月10日まで)。


1993年のヴェネツィア旅行の続きです。

ヴェネツィアへの旅は、海外調査としては3度目で、91年6月のニューヨーク、フィラデルフィア、92年3-4月のヨーロッパ周遊に次ぐものでした。卒論のテーマがマルセル・デュシャンだったので、ニューヨーク近代美術館とフィラデルフィア美術館のデュシャン作品を実見し、修士に進学した年に1カ月近くかけて、ロンドン、ブリュッセル、アムステルダム、パリ、ベルリン、ケルン、ミュンヘン、ウィーン、ミラノ、マドリードの主要美術館と現代美術を扱っている画廊を中心に見て回りました(第2回目に紹介した概論の講義は、このときの旅をもとにしています)。

とにかく見に行くことを主目的としていた最初の旅行では、写真にお金かけるという意識がまるでなく、「写ルンです」を持って行きました。2度目と3度目の旅行には、さすがにズームレンズを付けたペンタックスの一眼レフを持って行きましたが、まだネガフィルムに日付入りで撮っています。ポジフィルムを持って行くようになったのは95年の第46回展です。ヴェネツィア・ビエンナーレ100周年の記念すべき回、ということで、再び出掛けたのでした。このとき、中古で買ったオリンパスのOM-IIに、やはり中古の40mm/f2レンズ(ズームレンズより明るい)を付けて、デイライト用とタングステン用の2種類のポジフィルムを準備し、合計1,757枚の作品写真を撮影しました。

93年のヴェネツィア旅行で使用したフィルムが10本。それに対して95年に使用したフィルムは51本に増えました。

なぜ、そんなにたくさんの作品写真を撮ったのか。前回の記事を書いたあと、ずっと忘れていたことを思い出しました。当時、「ヴァーチャル・ミュージアム」という言葉が注目を集め始めていて、私はほとんど、その考えに熱狂していたのでした。100周年のヴェネツィア・ビエンナーレの展示を再構成できるくらいの写真を撮ろうと、展示室ごとにさまざまな角度から撮り続けていくうち、帰りの荷物が肩に食い込むほどの本数に達していました。

2009年の現在、いくつかの美術館のサイトにヴァーチャル・ギャラリーのメニューがありますが、あれから15年の歳月が流れたことを考えれば、この領域はほとんど進歩していない、という気がします。かつての静止画1枚を表示させるのにもイライラするほど時間がかかった時代から、今や高精細な動画をストレスなく楽しめる時代へと、インターネット上のデータ転送速度は大きく向上しました。他方、3D空間を自在に散策して美術作品をBGM付きで鑑賞したり、よその国からアクセスしている人と同じ作品をめぐってリアルタイムで意見交換したり、というニーズは開拓されず、むしろ美術作品こそヴァーチャルでない本物との対面が必要だ、という考えが広く浸透し、さらにはオーディオガイドの普及によって鑑賞体験は一層個人化したように感じます。

ある種の美術作品は永遠の存在でも、展覧会自体は、会期が終了すれば消滅してしまう時限的な存在です。また設営美術、設置美術―適訳がありませんが要するにインスタレーション―のような形態をとる現代作品の多くが、場の特性(=サイトスペシフィシティ)を作品の要素として含み込んでいるため、発表の機会が違えば、それらはすべて「異なる」作品である、という理解も成り立つ状況が出現しています。

現代美術を考察するための基礎的な作業として、展覧会を再構成できる枚数の写真撮影が必要だ、という考えは私の中で強くなる一方です。

19950618blog.jpg崔在銀の作品で外観を一新した日本館 1995年6月18日13時頃(晴れ)




年度末ということもあって、昨秋訪れたマニフェスタ7の調査報告書を作成しています。並行して、明日〆切の雑誌原稿も書いていますが、これも国際美術展の特集号への寄稿なので、要するに今、頭の中は国際美術展のことでいっぱいです。

国際美術展に関心を持つようになったきっかけは、修論のテーマにニュー・ペインティングを選んだことから、美術雑誌のヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタの記事をコピーしたり、まとめ直したり、といったこともやっていたのですが、より強い動機づけになったのは、1992年9月にワタリウム美術館で開催されたドクメンタIXのスライド・レクチャーでした。

国際美術展のスライド報告会は、現在、頻繁に開催されています。東京に限らず、山口や九州でもそうした機会はありますし、また日本以外でも同じような状況ではないかと思います。スクリーンに大写しにされた写真やヴィデオ映像とともに会場を見た感想が語られる報告会は、雑誌の記事を読むより格段に臨場感があります。

しかし、それだけではありません。そもそも2009年の現在と1992年当時では、現代美術をめぐる国内の環境が大きく違っていました。作品の先鋭さと展覧会の規模、そしてキュレーター、ヤン・フートが展覧会に込めた社会的メッセージなど、さまざまな点でスライド・レクチャーで紹介されたドクメンタIXは、私がそれまでに国内で見ていた現代美術展と大きく異なっていたのです。

当時、「八王子ゼミ」と呼んでいた大学の研究室の合宿があって、毎年1回、2泊3日や1泊2日でセミナーハウスに泊まり込み、学部生から院生までがそれぞれの研究テーマの時代順に発表を行っていました。1993年2月の合宿で、私は「国際展と現代美術」と題して発表しました。

発表を行った時点で、私は国際美術展を実際に見てはいませんでした。発表内容も、国際美術展にどのようなものがあるか、それらが現代美術を考える上でいかに重要な役割を占めているか、といった点が中心でした。

実際に見たのは、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレ第45回国際美術展が最初です。会期終盤の10月3日から10日までの8日間の滞在で、思えば、このとき長期間にわたって水の都ヴェネツィアを散策しながら、世界各国から集まった作家たちによる現代美術展を見て回る、という滞在生活を心底楽しんだのが、いいかたちで今につながったのでしょう。

探しにくい場所で開催されている国別の展示や、会期の短い企画展を見逃すようなことがあっても気にならず、すべての作品の写真を撮ろうとして時間に追われるようなこともなかったのは、学生だったから、の一言に尽きると思います。

昨年11月にYCAMの湯田アートプロジェクトのレセプションのために来山されたMonochrome Circusの坂本公成さんと森裕子さんにご挨拶したとき、同じ93年の第45回展を見ていた、という話で盛り上がりました。遠い昔の記憶だからこそ、人と共有できたときの嬉しさはひとしおです。


雑誌やネットの記事、スライド・レクチャーを通して国際美術展を知っているけれども、あるいはまた国内で開催されている横浜トリエンナーレなどへ出掛けたことはあるけれども、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタへ出掛けたことはまだない、という人は多いと思います。

若い人なら学生のうちに、仕事のある人なら家庭を持つ前に、夫や妻のある方なら子どもを授かる前に―いろんなタイミングがあると思いますが―いずれにしても、滞在日数に少し余裕がもてるタイミングで出掛けられることをお勧めします。


今年のヴェネツィア・ビエンナーレ第53回国際美術展は、6月7日(日)から11月22日(日)までです。

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カステッロ公園の並木道(正面奥にイタリア館、中空に元永定正《水》) 1993年10月3日16時頃(晴れ)


「weavingscapes―紡景」展のオープニングへ行ってきました。同展は、秋吉台国際芸術村で滞在制作を行った3人の美術家たちの成果発表展です(3月7日-17日)。

芸術村の滞在制作事業は、1998年の設立以来、毎年開催されています。今年度は49カ国185組の応募の中から、タイ出身のジャクラワル・ニルサムロン、アメリカ出身のアマンダ・J・ヒル、そして柳本明子さんの3人が選ばれました。

ニルサムロン―本人から聞き取った発音は「ジャッカーワン・ニータムロン」でした―は、《人と重力(Man and Gravity)》(約22分)という神話的な映像作品を完成させました。「人と重力」は、すでにタイ編が完成しており、今回の秋吉台編制作後も撮影を続け、シリーズ化する予定だそうです。会場ではタイ編と秋吉台編の2本を見比べることができます。
タイ編では、ゴミ集めを仕事としている男が、大きなゴミの山をバイクの脇に繋いで荒野を運んでいく様子が、淡々と、ロード・ムービー風に描写されます。
秋吉台編では、自分よりも巨大な鈴を引きずって歩く男が、森の中で女性の話を聞いたり、自分よりも年老いた息子と対話します。自分より年老いた息子という設定は、物質世界ではありえない設定ですが、「精神世界では可能」というのがニータムロンの考えで、カルマ(業)や輪廻転生について考えさせる内容になっています。3人の登場人物は、いずれも地元の人にお願いし、秋吉台の山焼きの光景も効果的に挿入されていました。

ヒルの作品も映像ですが、彼女は、日常生活の音に注目する作家です。山口で出会った人々に「音の日記」をつけてもらい、それらの映像と音を編集して「山口の音の風景」(約20分)を作り出しました。
梅の枝を切る音、商店街を走る自転車の音、湯田温泉の足湯の流れ出る音、そして精米所の籾殻の山が崩れてさらさらと流れ落ちる音など、山口を感じさせつつも、普段気づかない、あるいはまったく知らないような音も含まれていて、しかもそれらが関連性や対照性を織りなすように、とてもうまく編集されていました。
昨年7月にYCAMで大友良英さんとアンサンブルを行った、石井栄一さん(自作の電子楽器を操る中学生)も参加しています。

柳本さんの作品は、透明ビニールを支持体として、パステル色の毛糸や蛍光色の細いビニール・チューブで室内風景を編み上げたものでした。
葦簀(よしず)に編み出された古い日本家屋の廊下の風景は、秋芳町のあちらこちらに置かれ、町の人々の目に触れている様子がヴィデオに記録され、上映されていました。葦簀の作品も、施設の野外劇場の舞台中央にワイヤーを使って自立するように展示されていました。
ギャラリーには、もう1点、こたつのある室内を編み出した作品が宙づりにされていました。
どちらも独特の色彩感覚で、地元の人々のお宅を訪ねて取材した室内風景をもとに構成したもので、好感の持てる作品でした。

総じて、「景色を紡ぐ」という展覧会タイトルが、とてもしっくりくる滞在制作展だったと思います。

オープニングに合わせて、あいちトリエンナーレのキュレーター・拝戸雅彦さんと、山口大学教育学部准教授で、国際美術展などでも活躍している美術家・中野良寿さん、そして3人の滞在美術家を交えたトーク・イベントも行われました。
拝戸さんは、「3人の作品は秋吉台を題材にしているが、その手法は他の地域にも応用可能で、作品のテーマにも国際性、普遍性がある」、「それぞれきちんと作り込んであって、しみじみと見ることができた」と高く評価する一方で、「東京や愛知からわざわざ人が見に来るようになるには、最低10人くらいの規模が欲しい」と建設的な注文をつけました。
中野さんは、「7年前に山口に赴任して以来、芸術村の滞在プログラムに参加したほとんどの作家と交流してきた」と自己紹介の際に語っていました。また、司会進行も務められ、1人1人の経歴や今回の滞在制作の様子について、丁寧に聞き出していました。

トーク・イベントには、14歳の石井さんから72歳のおばあさんまで、取材を受けた人や、出演した人など、さまざまなかたちで滞在制作に関わった約30名の人が集まり、熱心に話を聞いていました。毎年の作家数は少なくとも、交流の実績は着実に積み重なっている、と感じました。

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トーク・イベントの様子(左から、ジャクラワル・ニルサムロン、アマンダ・J・ヒル、柳本明子、中野良寿、拝戸雅彦の各氏) 2009年3月7日15時56分(晴れ)



昨日は、山口情報芸術センター(YCAM)のダンス公演を見ました。珍しいキノコ舞踊団×plaplaxによる「The Rainy Table」です。

珍しいキノコ舞踊団は、伊藤千枝さんが主宰するダンスカンパニーです。1990年の結成で、すでにかなりの活動実績があります。近年は現代美術の世界でも注目を集めており、2006年には金沢21世紀美術館でオーストラリアの美術家との共同制作を行ったほか、07年にはインドネシアで開催された「KITA!!」展に招待されています。

公演は、女性6人で構成されており、独自の世界観や統一感が感じられました。やわらかさやかわいらしさ、そして激しさや力強さを感じる舞踊でしたが、男性の踊り手が登場しないことによって、男女の対比・対照という観点が舞台からごく自然に除外され、ある種、「非日常的な世界」に没入できる、という仕掛けになっているように思いました。

「ある種」と婉曲的に表現したのは、女性の観客にとっては女子校や、幼稚園・小学校の母親同士のつき合いなど、「女性社会」は、かえって日常的で、現実味のある世界なのかも知れない、という思いがよぎるからです。
美術館や劇場などの文化施設も、女性スタッフの割合が高い職場になって久しいように思いますし、私が所属する人文学部も、女子学生の方が圧倒的に多く、研究室の男子学生は毎年1、2名です。女性ばかりの世界は、男性の私にも案外、「身近な」世界だったように思えてきます。

ポストトークで伊藤さんは、「雨と馬とテーブル」というキーワードから出発した、と話されていました。テーブルは「家族や人が集まる場所」で、これまでにもよく登場した題材だそうです。雨は「自分の意思と関係なく外からやってくるさまざまのもの」の象徴で、今回、「傘を差したりしてよけるのではなく、浴びたらどうだろう」という思いが込められている、と言います。馬は「それでも誰かに導いてもらいたい、という思いがあって」という文脈で登場したようですが、公演が完成してみると「結局、私自身かも知れない、という気がしています」とのお話に、共感できるものがありました。

女性がテーブルにつっぷしている場面が、始めと終わりに繰り返され、最後は大音量の雨音の中、テーブルに積み上げられた食べ物やお酒を、6人が猛烈な勢いで飲み、喰らい、大騒ぎする場面で照明が落とされます。

幕間に、映像として大写しにされた馬の首が、男性の声で「人参じゃ、馬力出ない」など、結構笑える独白をする場面がありましたが、この挿入によって、男性は一層実態のない「影」のような存在として意識され、とても効果的だったと思います。


同公演は、YCAMの開館5周年記念事業として、約1カ月間にわたり、山口で滞在制作された新作です。YCAM の紹介で、メディアアートユニットplaplax(近森基・久能鏡子・筧康明)と共同制作を行ったことが、特色の1つとなっています。

踊り手と馬のシルエットが共演する場面は、plaplax設立以前の代表作《KAGE》(1997年)を想起させ、見どころの1つとなっていましたが、私は、舞台後半で、大小さまざまの踊り手の映像と、舞台上の女性たちが複雑に入り混じって乱舞する場面が、最大の見どころになっていたと思います。

「舞台上では直接人間に指示すれば、すぐ直せるけれど、映像との組み合わせでつくる公演では、取り直しと編集作業があって、そこに独特の時間が生まれる」という趣旨の発言が、伊藤さんとplaplaxの双方から出ました。

「メディアと身体」をめぐるYCAM開館以来の挑戦が、また1つ新たな成果を生んだことを実感しました。

同公演は、3月19日(木)から22日(日)までの4日間、世田谷パブリックシアター/シアタートラムでも上演される予定です。

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リハーサル風景 2009年2月27日21時00分 提供:山口情報芸術センター[YCAM] photo:Ryuichi Maruo(写真:丸尾隆一)



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