藤川哲: 2009年4月アーカイブ

3ヶ月間の担当も今日で終わりです。こうした機会を頂いたことにあらためて感謝しています。

神奈川県立博物館、福岡市美術館、山口情報芸術センター、秋吉台国際芸術村の方々には写真の撮影や手配のほか、さまざまなかたちでご協力を頂きました。本当に有り難うございます。

また、ウェブサイトの編集担当の方には、いつも画像のリサイズで助けて頂きました。お陰さまで希望通りの表示が実現しました。有り難うございます。

執筆を担当していて一番嬉しかったのは、やはり「ブログ読んでます」と声をかけて頂いたり、メールでコメントを頂戴したことです。読者に励まされる、ということを強く実感しました。そうしたきっかけで沸き起こる熱い気持ちは、言葉で言い尽くせないくらいです。


最後に、山口のことをもう少しだけ紹介します。毎朝、自転車で大学まで通っていますが、その途中で川を渡ります。市の中心部を流れる椹野川です。この川は豊かな自然の息づく清流で、もう少ししたら、鮎漁が解禁になったり、支流では蛍が飛び交うのが見られます。

普段は、鯉やフナが泳いでいます。春先の夕暮れどきに、稚魚が一斉に川面から跳ね上がる景色は、山口へ来て初めて目にしました。

私は長崎の割と街中で育ったので、カワセミやキジを見たのも初めてでした。いずれも通勤途中に見つけて、ハッと息を飲む思いをしました。カワセミの体の青色は、光を発しているようにさえ見えます。

大学構内でもさまざまな野鳥を目にすることができます。

山口で好きな風景は、鏡のようにぴんと水の張った水田が一面に広がる初夏の景色と、あぜ道沿いに燃えるように紅く咲いた彼岸花が列を成している初秋の光景です。

国際美術展について資料を集めたり、海外から滞在制作のために招聘された美術家たちと交流し、最先端の情報芸術にも触れる機会もあって、それでいて豊かな自然に囲まれている、とこう書くとあまりにいいことずくめに過ぎて、かえってうまく伝わらないかも知れませんが、私は、自分でひとつの理想的な環境を生きている、と日々実感しています。

最初に書いた通り、私たちひとりひとりが生きている場所が「独楽の落つるところ」であり、世界の中心だと思いませんか?

ここまで読んでくださった皆さまにもう一度感謝の気持ちを込めて、ご多幸をお祈りしつつ筆を置きます。


またどこかでお会いしましょう。


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椹野川(正面に見えているのは井出ヶ原橋) 2009年4月30日8時12分(晴れ)

2007年はヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展(6/10〜 )、アート・バーゼル(6/13〜 )、ドクメンタ(6/16〜 )、ミュンスター彫刻プロイエクテ(6/17〜 )が連続的に開幕した年でした。

この開幕の順に沿ってイタリアからスイス、ドイツへと北上して行った美術関係者の多くは、だんだんと天候が崩れ、緯度も高くなって肌寒い思いをしたと聞きます。私は、かつてバーゼルの宿を確保するのにかなり苦労した記憶からアート・フェアを割愛し、ドクメンタの開幕に合わせてヨーロッパ入りしてカッセルからミュンスター、ヴェネツィアへと移動する旅程を組みました。現地では、ほとんど同じ旅程で移動していた関西の美術関係者の一団と出会い、一緒に夕食を楽しんだりもしました。

同じ2007年の9月、日本では新たに2つのビエンナーレが開始されました。北九州国際ビエンナーレ(9/28〜10/31)と神戸ビエンナーレ(10/6〜11/25)です。また、現代日本彫刻展の名称で1960年代から続いてきた宇部市主催の野外彫刻展も07年から国際化してUBEビエンナーレを名乗るようになりました(9/29〜11/11)。さらにほぼ同じ時期、BIWAKOビエンナーレも開催されていたので(9/30〜11/18)、この2007年秋は日本でもビエンナーレの集中が見られた年だったと言えます。

もうすぐ発売される芸術批評誌『リア』に「ビエンナーレ化現象と国際美術展史料館」という一文を寄稿しています。ちょうどこの回想を投稿し始めたころに書いた小文です。国際美術展が増える中、展覧会本体の充実と並行して、開催ごとに入手される資料を蓄積して有効活用する体制も整えるべきだ、という意見を述べています。

4月に入って昨年度入手した資料を整理していたら、『マニフェスタ・ジャーナル』第6号が「アーカイヴ特集」でした。ラファル・B・ニーモエウスキ(Rafal B. Niemojewski)さんの論文もまた、ビエンナーレ化現象を総括し、史料館の活動に着目する論文で、親近感を持つと同時に、彼我の間にある言語の壁と時間のずれを意識させられました。ニーモエウスキさんの論文は、2005年冬号の掲載でしたが、同ジャーナルは予算不足のためにしばらく刊行休止になっており、昨年冬になってようやく4-6号の合併号を送ってきたのでした。

同誌の執筆者紹介によれば、ニーモエウスキさんはロンドン王立美術学校で、国際美術展の増加現象について博士論文を準備中とのことでした。多分、もう仕上がっているのではないかと想像します。

ニーモエウスキさんに限らず、アメリカやヨーロッパ、そして日本の大学でも国際美術展を主題とした論文が少しずつ書かれるようになってきているようです。

国際美術展の図録に掲載されている論文の中には、企画者や研究者、作家によって書かれた興味深い内容のものが非常に多く含まれています。特に地球規模化や多文化主義と現代美術の関係を論じた文章に示唆に富むものが見られます。

国際美術展の図録は、美術大学の図書館や美術館の図書室などで閲覧できると思います。より多くの人びとに関心を持ってもらえるよう願っています。

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ドミニク・ゴンザレス=フォレスター《ミュンスターの小説》(過去のミュンスター彫刻プロイエクテ出品作品の模型) 2007年6月19日12時15分(晴れ)

今年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展は77カ国が参加予定です(同展公式サイトより)。

この数は、国連加盟国が現在192、オリンピックへの参加国・地域の数が200強ですから、その1/3程度です。

ヴェネツィア・ビエンナーレは、現在開催されているものの中では最大の参加国数を誇りますが、それでも数の上では参加しない国の数の方が2倍近くある、ということはいつも心にとどめておきたいと思っています。この差は肯定的にも否定的にも考えることができます。

ところで、最近ヴェネツィア・ビエンナーレが開催される年とされない年では、はっきりとした違いが見られるようになりました。私は、同展が開催される奇数年を「表の年」、開催されない偶数年を「裏の年」と表現することにしています。今年は表の年であり、去年や2006年が裏の年です。

1980年代から国際美術展の開催は非欧米圏へと拡大し、90年代、2000年代を通して現在まで、欧米圏・非欧米圏を問わず増え続けています。そして、新設される国際美術展がビエンナーレ(2年ごと)である場合、その多くはヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展が開催されない裏の年に開催される傾向が見られます。また、表の年に開催される場合でも、同展が開幕する6月ではなく、9月から11月の開幕とし、競合を避けているように思われます。ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーを見ても、トリエンナーレも含めた2008年の開催数が32あったのに対し、今年2009年の開催数は約半数の17です。

つまり、国際美術展を見て回ろうとしたとき、裏の年は数が集中しているので、予算や日程の面で調整や熟考が必要になります。

そうした状況を踏まえて、複数の国際美術展の主催者が連携し、開幕日をそれぞれ少しずつずらすことで、関係者が一度のツアーで回れるような工夫が見られるようになってきました。

私の知る限り、そうした調整の最初の試みは、2006年のシンガポール、上海、光州の各ビエンナーレ間での取り組みだったと思います。そして、この時点では特に名称はありませんでした。

しかし同年秋には「トレ・ビエン」という名称のもと、イスタンブール、リヨン、アテネの3つのビエンが協力体制を打ち出しました。さらに、2007年には、ヴェネツィア、ドクメンタ、ミュンスターが重なる10年に1度の機会をとらえて、アート・バーゼルを加えた4都市を結ぶ「グランド・ツアー」が組織され、翌2008年には、シドニー、光州、上海、シンガポール、横浜の5つの国際美術展が連携する「アート・コンパス」、台北、広州、上海が連携した「三館互動」が誕生しました。

2006年には、日本でもA.I.T.とJALの共同企画で「3大ビエンナーレ・ツアー」の募集がありました。私もこのツアーに参加しましたが、A.I.T.の教育プログラムの受講生や、学芸員、新聞記者、美術評論家など職種や世代の異なるさまざまな方々と交流できて、とても貴重な体験となりました。

このツアーは2008年には同種のものが実現しなかったことを考えると、今後定着するかどうかまだ判断の難しいところですが、複数の国際美術展を比較することが、現代美術に対する新しい洞察へとつながる時代が到来している、ということは言えると思います。


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シンガポール・ビエンナーレ開幕式での草間彌生「ファッション・パレード」(パダン広場特設ステージ) 2006年9月1日21時27分(晴れ)

2005年から2007年にかけての3年間は、文部科学省の科学研究費補助金を得て、シンガポールや上海、台北、ブリスベン、サンパウロなど、これまで出掛ける機会のなかった国際美術展も含めて集中的に見て回ることができました。

研究課題名は「国際美術展における脱欧米中心主義の興隆の経緯についての研究」と、やや長いのですが、文化のグローバリゼーションについて均質化や画一化でない側面を見ていこう、という姿勢を「脱欧米中心主義の興隆」という言葉に表したつもりです。

グローバリゼーションをもじったものか、「ビエンナリゼーション」という言葉があります。国際美術展について豊富な情報を提供しているドイツのサイト「ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァース(Universes in Universe)」の編集者ゲルハルト・ハウプトが2000年頃に使い始めた言葉だと言われています。

『アートネクサス(ArtNexus)』という雑誌の現物は見たことがないのですが(コロンビアのボゴタで刊行されている雑誌のようです。武蔵野美術大学に英語版が所蔵されています)、ネット検索で国際美術展についての批評記事を見つけました。カルロス・ヒメネス(Carlos Jiménez)によるその記事は「ベルリン・ビエンナーレ―アンチ・ビエンナリゼーションの見本?(The Berlin Biennale a mode for anti-biennalization?)」と題されており、2004年7-9月号の掲載で、「ハウプトが数年前に使い始めた言葉だ」と指摘しています。そこから逆算して、私は2000年頃だろうと推測しているのですが(ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーも一番古い情報は2001年のものです)、この件については、いつか実際に本人に確認してみたいとも思っています。

私自身がハウプトのサイトでビエンナリゼーションという言葉を見つけたのは2004年2月16日より少し前です。ある論文の註にサイトを閲覧した日付を入れているので、そのことが確認できるのですが、否定的な文脈で語られていた、という印象以上のものを残していません。ビエンナーレ・カレンダーのページに添えられた数行ほどの短いコメントの中にあった言葉だったと記憶します。また、当時はビエンナーレ・カレンダーの表題の位置に「キャラヴァン」という単語が掲げてありました。キュレーターと美術家たちを隊商に見立て、同じ顔ぶれが世界中を旅している印象を喚起することをねらったものだと思います。このキャラヴァンの表示も2006年頃までは残っていましたが、今は過去の分も含めて削除されています。

結局、ハウプトがビエンナリゼーション―「ビエンナーレ化現象」と訳したいと思います―という批評を国際美術展をとりまく状況に投げかけた時点、確かに90年代を通して同質化の危機はあったと言えるかも知れませんが、むしろこうした否定的な側面は2000年代の実践の中で解消されていった、と考えることができると思います。

2005年の横浜トリエンナーレが「場にかかわる」ということを重視して個性化を図ったのと同じ問題意識が、他の多くの国際美術展でも共有され、実践されているように感じます。

日本国内だけを見ても、2009年の現在、横浜以外にも福岡や越後妻有、2010年に始まる「あいち」を含めて4つの大きなトリエンナーレがあり、ほかにも神戸や北九州、BIWAKOやUBEなどのビエンナーレがありますが、それぞれ実に個性的です。

2005年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の印象も2003年と一転してすこぶる良く、このとき初めて―文献上評判の悪い―日本館の人造大理石の床を目にしましたが、石内都さんの展示とよく映え合っていて、とても美しく感じました。

どんな状況にも創造的に対峙する、という取り組み姿勢が大切な気がします。

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ヴェネツィア・ビエンナーレ第51回国際美術展 日本館の展示風景=石内都「マザーズ 2000-2005 未来の刻印」 コミッショナーは現・東京都写真美術館の笠原美智子さん 2005年6月15日13時09分(外は晴れ)

※4月25日から6月14日まで、群馬県立近代美術館で「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」が開催されます。石内さんは群馬県桐生市のお生まれです。


2004年に研究助成が得られことが決まって、先ず行ったのはマニフェスタ5の記者登録でした。プレス・プレヴューとも呼ばれる内覧会・開会式に参加するためです。記者登録は、ほとんどの国際美術展で、公式サイトから行えます。「Press accreditation(記者認定)」をクリックし、申込フォームに必要事項を入力。後日電子メールで送付されてくる書式を返送します。

かつて、国際美術展の展覧会場での撮影は大らかなものだったと記憶します。記者登録の必要性を感じたのは、2003年の第7回リヨン・ビエンナーレで会期中の撮影許可が下りなかった経験からです。会場撮影は内覧会の日のみに限定する、という方針です。一方、同じ調査旅行で回ったヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展では、そうしたことはありませんでした。

リヨン・ビエンナーレの事務局は、代わりに記者資料として作品画像の入ったCD-Rをくれました。しかし、日本に帰って中を見てみると、出品作家の過去の作品が中心で、展示されていた作品とは異なる写真が随分ありました。設営美術を中心とする現代美術展において、開幕と同時に発売される展覧会図録には、実際に会場で見ることのできた作品ではなく、図録刊行に間に合わせられた過去の作品写真が用いられるのが一般的です。リヨンの記者用CDは、図録に掲載されている図版とほぼ同一でした。

しかしながら、第7回リヨン・ビエンナーレでは2種類の図録が刊行されることになっていました。「アヴァン(事前)」と「アプレ(事後)」と題され、「アプレ」の方に会場写真が収録されています。展覧会終了後や会期中に、こうした記録集が刊行される例はいくつかあります。リヨンの第7回展のほか、ドクメンタ11、横浜トリエンナーレの第2回展(2005)年と第3回展(2008年)が、私の知っている例です。国際美術展の全体数に比して、ごく少数と言えます。

そうした中で、国際美術展の開催に合わせて、ふんだんに作品図版を掲載して特集号を組んでいるドイツの美術雑誌『クンストフォルム(Kunstforum)』や日本の『美術手帖』は貴重な情報源です。しかし、こうした雑誌でさえ、すべての出品作品を網羅してはいないのです。自分で撮影できなかった分については、各作家やその扱い画廊、そして展覧会主催者が蓄積しているであろう記録写真が最後の拠り所になります。


2004年のマニフェスタ5はバスク地方の観光都市ドノスティア=サン・セバスティアンで開催されました。内覧会は6月10日に行われ、翌11日午前中に記者会見、夕方には討論会、夜7-8時頃にジェレミー・デラーの企画による開幕パレードが行われました。

このうち、記者会見では「スペイン人作家がバスク出身のイニャキ・バルトロメ、アシエル・メンディサバル、D.A.E.の2人と1組、およびガリシア州出身でロンドン在住のアンヘラ・デ・ラ・クルスだけだったのには、政治的配慮があるのか」という質問に企画者の1人マッシミリアーノ・ジオーニが「国籍はまったく顧慮していない」とかわし、その直後に「王に死を(¡MUERTE AL REY!)」と書いたボードを掲げた女性が立ち上がり、液体の入ったペットボトルを主催者席に投げつけようとした男性が取り押さえられる、という顛末を目撃しました。

この2004年6月、バスク地方へ列車で乗り入れるための基点としてマドリードに滞在したのですが、同地のプラド美術館では、三脚を使わずフラッシュを焚かなければ作品の撮影ができましたが、2006年10月からは展示室内の写真撮影が禁止となりました。

デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、フィルムの残量を気にせず、持ち運びにも気にならない機器を使って大変気軽に写真撮影を楽しめるようになってきた一方で、撮影禁止区域の設定や許可制度の徹底もまた広がりつつあるように思います。


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マニフェスタ5記者会見での一幕 2004年6月11日11時58分(外は曇り)


2002年4月に山口大学へ着任して以降は、毎年、何らかの国際美術展を見に出掛けています。

研究テーマを国際美術展に絞ろうと考えたのは2003年秋頃です。2002年にドクメンタ11とマニフェスタ4、そしてカールスルーエのZKMで開催されていた「イコノクラッシュ(Iconoclash: 造語、Icon 偶像+clash 衝突)」展を見るためにドイツへ出掛けた時点では、デジタルカメラはまだビクターのGC-S1(98年3月発売)を使っていました。

当時のデジタルカメラの性能が格段に向上していることを認識できたのは、再び国際美術展のスライドレクチャーのおかげです。高価な電気製品は基本的に長く大切に使い続ける、という信条ですが、A.I.T.の主催で2002年7月に開催された「第11回ドクメンタを考える」(東京、スパイラル)で見た作品画像と、自分のカメラで撮影した画像の鮮明度の違いは悲しくなるほどに大きく、質素倹約の思想の一部を切り崩してでもデジタルカメラを買い換えねばならない、という気にさせられました。

それでもおそらく控え目と言えるニコンのCOOLPIX 3100を携えて出掛けた2003年の第50回ヴェネツィア・ビエンナーレを見終わった直後、私は、もうヴェネツィアに来るのはやめよう、と考えました。

第50回展の総合監督を務めたフランチェスコ・ボナーミは、「観客の専制」という副題を与えていましたが、アルセナーレの展示から受けた印象は、むしろ逆で、観客や出品作家をないがしろにし、展覧会の企画者の名前ばかりが飾り立てられているように思われました。同展の国際企画展部門は、複数の展覧会から構成されるオムニバス形式となっており、各会場の入口には、展覧会のタイトルとその展覧会を企画したキュレーターの名前が大きく表示されていました。言っていることとやっていることが違う。これではまるで「キュレーターの専制」だ、と腹立たしい気分になったのです。ボナーミには、「キュレーションのさまざまな方法論を比べる」という意図があったようです(『美術手帖』2003年9月号、42頁)。

そしてこの義憤に似た感情から、私は国際美術展を本格的に研究するための助成金申請書を書き始めました。

「国際美術展とグローバリゼーション―展覧会企画者の理論と実践」として財団法人花王芸術・科学財団の2004年度の芸術文化助成に応募し、幸いにも40万円の研究助成を得ることができました。

同研究課題につけた英語の副題が「Curator's Discourse and Audience's Experience(企画者の言説と鑑賞者の体験)」です。研究に取り組んだ1年のうちに、グローバリゼーションに関する基礎的な文献を読み、国際美術展図録の収集を拡充し、マニフェスタ5と光州ビエンナーレという欧州とアジアの国際美術展を比較しつつ、ビエンナーレ化現象(Biennalization)について考察することができました(マニフェスタと光州ビエンナーレは、ともに2004年に第5回展を迎え、それぞれ約10年の歴史を持っていました)。

また、あれこれ考察していく過程で、当初の怒りの矛先は、結局、展覧会企画者の意図というものは、展覧会の中にうまく実現できる場合もあれば、できない場合もある。思いが先走ることはむしろ多いのかも知れない、というごく当たり前の事実に思いが至って、随分と収まりました。「結果的な言行不一致」という理解です。

ところで、最近大阪でヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展のイスラエル館で見た作品と再会しました。ミシェル・ロブナーの《Order》と《More》で、出品されているのは新しく再編集されたものです。この作品のほかにも第48回展の日本館に出品された宮島達男の《MEGA DEATH》が展示されている「インシデンタル・アフェアーズ―うつろいゆく日常性の美学」(サントリーミュージアム[天保山]、5/11まで。企画・構成:大島賛都)は、国内の所蔵品をうまく活用しつつ、現代作家17名の質の高い作品を会場にバランス良く配した、とても好感度の高い企画でした。

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カステッロ公園の並木道(画面左の椅子を乗せた木の切り株はクリストフ・シュリンゲンズィーフ《恐怖の教会》の部分。砂利道の中ほど右側の大きなパスポートはサンディ・ヒラル&アレサンドロ・ペティ《国境なき国家》) 2003年9月18日11時17分(晴れ)


前回紹介した通り、2001年の第49回展にゼーマンは伊・英・独・仏の併記で「人類の舞台:プラテア・デル・ウマニタ/プラトー・オブ・ヒューマンカインド/プラトー・デア・メンシュハイト/プラトー・ド・ルマニテ(Platea dell'Umanità / Plateau of Humankind / Plateau der Menschheit / Plateau de l'humanité)」というタイトルを与えました。

もしこれに漢字やアラビア文字などアルファベット以外の表記も加わっていれば、より一層国際性や地球時代性を表現できたかも知れませんし、かえって「鼻につく」という批判を浴びたかも知れません。

スイス人のゼーマンは複数の欧州語に通じていました。伊英独仏の4言語に限ったのは、自らの守備範囲に自覚的な態度だと思えます。前回も引いたインタヴューで「アフリカ現代美術の動向を展覧会に反映できているか」という質問に、「アフリカについては、まだ一度も訪ねたことがないから作家を選出するのは難しい。ジュネーヴの現代美術館で見たキンゲレーズなどには関心を持っている」と答えていたくだりが思い出されます(『アートプレス』1999年6月号)。こうしたやりとりから類推されるゼーマン像は、自分の拠って立つところを的確に分析した上で行動の指針を決めていく人物です。

2001年の「人類のプラトー」という表題は、私にとって悩ましいものでした。先に耳に入っていた『千のプラトー』が意識にまとわりついていたためです。調べてみれば、「『人類のプラトー』はドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』が霊感源の一つだ、とゼーマンが冗談交じりに語った」という証言もありました(『アートフォーラム』2001年5月号、ダニエル・バーンバウムによる記事)。

ゼーマン自身は同展の図録の中で「この概念は多くの概念を内包している。それはプラトー(plateau)であり、基礎(basis)であり、土台(foundation)であり、プラットフォーム(platform)である」と述べていました(xviii頁)。さっぱり正体がつかめない、といった印象を持ったものです。

「人類の舞台」という訳は、『美術手帖』2001年9月号の小倉正史さんの記事に倣っています。ドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」の邦訳からは「台地」という訳語も導かれるため、当初私は「人類の台地」の方が適切とも考えていたのですが、ある朝、ふとゼーマンが展覧会を「舞台」になぞらえるのには相応の理由がある、と腑に落ちました。

ゼーマンの生涯に関する記事の多くは、彼がベルンのクンストハレの館長に就任し、1969年に「態度が形になるとき」展を企画した辺りから書き起こして、同展の前衛性が問題となって、組織から独立した展覧会企画者の先駆けとなる、という流れでまとめられることが多いため、私自身、意識の表面に引っ張り出すのに時間がかかったように思えるのですが、ゼーマンは彼の経歴を演劇から始めた人でした。

詳しくは、同じスイス人でもあるハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタヴューに書かれていますが、ゼーマンは18歳の頃、友人の役者2人と音楽家1人と一緒にキャバレーを始め、そこで人間関係に嫌気がさして、1955年頃から結局一人芝居を始めた、と語っています(『アートフォーラム』1996年11月号)。

ゼーマンの言葉の中でも特に印象的だったのが「構想から釘まで(From Vision to Nail)」(前出の『アートフォーラム』、112頁)です。思い描いた仕事を実現するために釘を打つことも含めて全部独力でやる取り組みの姿勢として解釈されます。インディペンデント・キュレーターという肩書きと、一人芝居をやっていた経歴は、うまく符合しているようにも思われます。

語の多義性を活かすために「人類のプラトー」と敢えてカタカナ表記することも考えられるのですが、「人類の舞台」とした方が、私は命名者の人生―温もり―が感じられてより良い、と思えるのです。

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リアルト橋から大運河を望む 2005年6月15日20時26分(晴れ)

ブロガー

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