Dialogue Tour 2010
静かな変革の痕跡──「Dialogue Tour 2010」を振り返って
鷲田めるろ(キュレーター)2011年11月01日号
2010年度、1年間をかけて行なわれたDialogue Tourが終了した。全国8カ所でのディスカッションを振り返り、それを通じて明らかになった、参加したスペースに通底するコンセプトや特徴を抽出してみたい。
ツアー開始時に「現代美術2.0宣言」を掲げるにあたり、日本の「現代美術」において、地方で行なわれる参加型アート・プロジェクトが注目を集めているという認識があった。一方、それがいかに市民の参加を謳っていたとしても、疲弊する地方の再活性化のためにアートをも利用したいという行政やまちづくりプランナーなど主催者の思惑が先行し、それに乗じたアーティストの現代美術界における生き残り競争、漠然とアーティストを目指す若手のモラトリアム的な助成金獲得競争の場にもなっているという問題意識があった。行政の思惑に巻き込まれず、助成金に振り回されない、より民主的な方法を模索するなかで、着目したのが、Tourの参加者として選んだ「部室」(土屋誠一)的な極小のアートスペースであった。
各地で行なわれたディスカッションやレビューでは、運営の具体的なノウハウや、目的、活動の位置づけなどが語られた。まずは、私自身の観点から、美術、メディア、パブリック、ミュージアム、キュレーション、マーケットの六つの視点を設けて、参考になった発言を取り上げてみる。
1)美術──生活圏での実践
かじこの三宅航太郎や蛇谷りえが「美術がしたいというよりも、生活を豊かにしたい」と語り、レビュアーの竹久侑も「ポストバブル世代の生活圏内における芸術の実践」と指摘するように、これらの活動が、生活や日常と密接に関わっていることは確かである。「2.0」で示されるように主体のありかを問題とするのではなく、芸術と生活という座標軸を設定したうえで、芸術が生活に接近した事例として近代の芸術史に繋げて考えてはどうかというのが竹久の提案である。社会の変革を目指す活動が生活とかけ離れたものになりがちであることを反省し、日々の生活のなかでの実践を指向するということでもある(須川咲子)。例えば、須川は、「喫茶はなれ」を月曜日に実施することにこだわった。平日働くためのレクリエーション(再・創造)として、日曜日に非日常の場をつくるのではなく、毎日の生活として実践するためである。
2)メディア──告知との意図的なギャップ
生活との一体化を指向する一方で、それをただの生活にとどめるのではなく、生活に近いということ自体が美術に対して批評性を持つようにするためには、美術と共通の枠組みを設定する必要がある。告知を意図的に実態から乖離させ、あたかも美術館の展覧会であるかのように見せること、さらに言えば、美術館のDMをシミュレートすることにより、ギャップを生み出し、いたずらっぽい面白さを生み出す方法も模索される。須川は、来た人が実際の場所とのギャップに驚くほどの「カチッとした」、バイリンガルのウェブサイトをつくる。服部浩之も、作家と自分自身の「テンションを上げる」ため、きちんとした印刷物のチラシをつくることを心がけており、それは告知というよりも、作家とのコミュニケーションの場になっているともいう。さらに「告知」が活動のドキュメントの役割もはたすことも意識している。
3)パブリック──生活圏の開き方
生活圏をパブリックに開いてゆくための独自の方法がさまざまに試される。かじこは、滞在者に対し、「参加費」としてお金を徴収し、契約書を作成することで、知り合い以外の人にも開いていこうとする。お金が人と人のあいだの関係を断ち切るものであることを利用し、宿泊者との距離を調節している。須川は、自宅時代のhanareにおいて、「近所には内緒なんです」と話していたように、地域の隣接性でなく、友達の友達というネットワークに期待している。その点では、ソーシャル・ネットワークの繋がり方に近いが、「自転車で10分程度」という近さは重視している。また、時間でのコントロールを試みるのは服部だ。通常、小さいスペースであっても一定の開場時間を決めて公開するという展覧会の形式に対し、鑑賞は予約制という方式をとる。見に来た人と必ず話ができるのがよいという。また、子育てを活動と重ね合わせる会田大也は、地域の子育てのネットワークと結びつけている点で特徴的である。もちろん、こうした「開き」は「〈面倒くさい〉コミュニケーション」を生み出す。その面倒くささは、一定の共有感を参加者へ与える戦略にもなりうる(辻憲之)。梅香堂では、CAAKについて「作品として落とし込んであるほうが(参加者は)充実感を得られる」という意見もいただいた。「作品」というパッケージ化によって、提供する側と受容する側の一定の隔たりを用意しておくというのも、参加者との距離の取り方のひとつの手法となるだろう。地域を開く方便としての〈アート〉(光岡寿郎)というわけである。
4)ミュージアム──インフォーマルなコミュニケーション
公的な施設で働きつつ、「機械を駆動させる余白としての遊び」(服部)を目指す活動は、公的な施設に対して背を向けたりはしない。例えば、展覧会のオープニングを県立美術館やACAC(国際芸術センター青森)のオープニングにあわせる(服部)というのは、そのひとつの現われである。しかし、一方、小さな活動だからこそ可能なコミュニケーションは求められている。「おもてなしは居酒屋」(中崎透)というリアリティに裏付けられ、美術館の立食パーティではできない宴会が、あぐらをかくことで可能となると考える(服部)。また、同世代の日本人作家と生活を共にし、じっくりと語る機会を与えると考えるのは中崎である。公立のアーティスト・イン・レジデンスの日本人受け入れ枠が少ないことがこの発言の背景にある。さらに、美術館での展覧会に対し、「(作家が)停滞期のときの作品を積極的に発表できるスペース」(中崎)としての役割も見られる。レビュアーの土屋は、こうしたコミュニケーションの前景化を1960年代の美術にも見られた動向として指摘している。
5)キュレーション──外部の企画との緩やかな影響関係
運営者によるキュレーションという側面の強いMidori Art Centerや遊戯室、梅香堂に対し、外部の企画に対する場所貸しに積極的なのがSocial Kitchenとかじこである。しかし、Social Kitchenについて三宅が、「公民館にキュレーションがついているような感じ」と指摘するように、外部からの企画に対して、緩やかに影響し合うことを意図している。かじこは割引のシステムにより、宿泊者による企画の誘発を狙った。一方で、かじこは、複数の部屋があるために、企画に参加したくない人は距離をとることも可能であった。また、前島アートセンターの宮城潤は、公民館の仕事も兼任し、両方を横断的にクリエイティビティを発揮した。
6)マーケット──互恵的な関係への指向
後々田寿徳は売ることを第一に意識して制作する美大生に対する反発を露にするが、協働する作家だけでなく、スペースの運営自体で利益を上げる態度にも共通の特徴が見られる。かじこが宿泊費を取るのも、収益を上げるためではなく、場を開くためである。サービスを提供する側と、「お客様」として消費する側に分かれるような関係でなく、家族や友人のような互恵的な関係を、知らない人とのあいだにも生み出そうという工夫である。このような運営に対する姿勢について、中崎は、「経済を運営の仕組みの中心に据えない事で、ねじれたことができる状況」を作り出すと指摘している。それによって「通常の仕組みがフラッシュバックされる」というように、すべての責任を背負い込まされる生産者とひたすら受動的な消費者とに分かつ市場経済に対する批評となっている。
以上が各論であるが、総じては、「美術」という枠組みを一旦外してとらえたほうが素直ではないだろうかと感じた。つまり、当初掲げたように「現代美術2.0」として、現代美術の枠組みを解体しつつ発展したかたちとしてとらえたり、あるいは、芸術と生活という座標軸をとって「生活に接近した美術」と考えたりするよりも、まずは「市民的活動」として位置づけたほうがとらえやすいのではないか。この別の枠組みを設定することで、「現代美術」の周辺にあること自体は疑いようのないこれらの活動を、より正確にとらえることができるように思う。そして、その全体のベースには、やはり市民が主体となるという〈2.0〉的な発想がある。つまり、これらの活動は、「現代美術2.0」にとどまらず、「政治活動2.0」(=生活者による直接的な活動)でもあり、「経済活動2.0」(=互恵的な贈与を併せ持つ消費活動)とも言えるし、そのような視点をとったほうが明快だと考えるようになった。
生活の対概念としてすぐに思いつくのは「仕事」である。「芸術と生活」というときの「生活」も、仕事以外の部分を指しており、芸術はむしろ仕事の領域にあるように思われる。しかし、ここでは、生活を仕事の対立概念とせず、①収入を得る仕事、②市民的活動、③子育てや介護などを含む家庭内の仕事の三つが全体で〈生活〉であるという視点を設定してみる。そのうえで、Dialogue Tourのスペースの活動を、この〈生活〉全体を舞台とした活動、とくに「市民的活動」として位置づけてみたい。「市民的活動」とは、アーティスト、キュレーター、女性、主婦、子育て中の親、といった職業や社会的背景を持たない、純然たる〈生活〉者としての活動にほかならない。
そして、オーセンティックなウェブサイトや印刷物をあえてつくることや、公的な機関のネットワークを流用するような方法、一方で、自宅の一部を開放したり、子育てのネットワークと重ねたりするような方法は、ともに、ほかの二つの領域、すなわち、収入を得る仕事、および、家庭内の仕事との境界を横断し、オーバーラップさせることと位置づけられる。それにより、市民的活動に充てる時間を確保し、経済的にも無理をせず愉しいと思える範囲で活動することだと言うこともできるだろう。同時にそれは、社会変革のための実践と生活を乖離させないカギにもなる。
このように理解すれば、これらのスペースが実践していることは、美術市場における競争という「仕事」から距離を取り、自分たちの手で愉しいことを生み出し、自分たちの生活に刺激を与えながら、小さいながらもネットワークで繋がった市民的な公共圏をつくることだと言えるだろう。それは、働き方や生活の仕方の見直しもともなう、静かな変革である。
2011年3月、東日本大震災とそれにともなう福島原発の事故が発生した。地方に押し付けた、もろいエネルギー源に支えられた大都市、国の助成金に依存し自立できない地方、家族のケアを外注しながら地域と切り離された職場での競争に忙殺される生活、生産者の顔の見えないグローバルな食物を消費する食事、民意が反映されていると実感できない政治、そういった全体を改めて見直さざるをえなくなった。中央美術界のサーキットと国際的な市場のなかでの競争に明け暮れるアーティストと美術館の展覧会もまた、時代のリアリティとの乖離が大きくなっている。Dialogue Tourに参加したスペースのような活動も美術の枠を一旦離れることで、政治や経済との関係性を再点検することができ、その重要性が見えやすくなるように感じられる。
ただし、2010年、須川は、それまでの生活圏での実践を当然あるべき社会的サービスを実現するまでの過程として意識し、より公的なSocial Kitchenの段階に移行しつつあった。また2011年4月、前島アートセンターは運営上の理由により解散を決定した。これらについての検証は引き続き行なわれることが必要であろう。また、アサダワタル氏による「住み開き」をはじめとして、似たような活動は無数に広がっている。そして、山口にせよ、青森にせよ、こうした活動は各地域の公的機関と市民的活動の長年にわたる継続的な蓄積のうえに成り立っていることを見過ごしてはならない。これらの個別の詳述は、機会を改めたい。
Dialogue Tourは、そのなかで行なわれた対話の内容もさることながら、企画自体によって、地方のアートスペース間の交通量を増やしたことにも意味があった。それが、土屋の提起する「聖地化」とその巡礼、辻の言う「強度を持ったネットワークの形成」に多少なりとも貢献できたことを望むとともに、「MAC交流会」や三宅+蛇谷による「うかぶ」など、継続的な新たな広がりを期待したい。そして、このDialogue Tourが2010年時点における、美術を契機とした市民的活動の一側面を映し出すドキュメントとなっていることを願う。
参考:Dialogue Tourブックリスト
Dialogue Tourでお話しをうかがった方々に今回の活動に深く影響を与えた書籍等を参考文献として推薦していただきました。さらなる理解と実践のために参考にしていただければ幸いです。[artscape編集部]