アート・アーカイブ探求
アスガー・ヨルン《グリーン・バレエ》──いまここに生きる「小田茂一」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年05月15日号
※《グリーン・バレエ》の画像は2023年5月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
世界一幸せな国の画家
WHO(世界保健機構)は5月5日、日本の子供の日の祝日に新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を終了すると発表した。日本ではゴールデンウイーク明けの5月8日から感染症法上の位置付けが2類から毎年のように流行するインフルエンザと同じ5類に変更された。マスクや手指消毒も個人の主体性に委ねられた。社会が動き始め、外国からの観光客も一気に増えて、3年半ぶりに人の賑わいを目にする昨今、世界の日常が戻りつつあり嬉しい。ロシアとウクライナの戦争が終息することを願うばかりだ。
毎年国連が「世界幸福デー」の3月20日に発表する『世界幸福度報告書』で第1位になり、イギリスのレスター大学が作成した『世界幸福地図』でも人生満足指数で第1位に輝いたのがデンマークだそうだ。身体的・精神的・社会的に良好なウェルビーイング状態にあり、世界でもっとも幸せな国と言えるだろう。デンマークといえばアンデルセン童話や北欧家具、インテリアなど生活を豊かにする品々を思い出す。デンマークにはどんな画家がいるのだろうか。
デンマークの芸術家としてアスガー・ヨルンという名前が『流用アート論』(青弓社、2011)にあった。調べてみるとファッションデザイナーでパンク・バンドのセックス・ピストルズの生みの親マルコム・マクラーレン(1946-2010)にも影響を与えたとある。ヴィジュアルで意味を伝達する「ヴィジュアル・ランゲージ」を用いて社会の倫理を問い続けたアスガー・ヨルン。ヨルンの代表作のひとつ《グリーン・バレエ》(米国、グッゲンハイム美術館蔵)を見てみたいと思った。
『流用アート論』の著者である小田茂一氏(以下、小田氏)に《グリーン・バレエ》の見方を伺った。小田氏は、長年NHKでテレビ番組を制作し、退職後は愛知淑徳大学教授となり、映像制作や西洋美術史、ヴィジュアルメディアなどの教鞭を執ってこられた。東京・品川の喫茶店でお会いすることができた。
《松浦屏風》から《前衛はあきらめない》へ
小田氏は1949年石川県能美(のみ)市に生まれた。九谷焼で有名なところで、元メジャーリーガー松井秀喜選手の出身地でもある。子供の頃から絵や書道が好きな小田氏は、現在も制作を続け、個展を開催するほどである。高校生まで地元で過ごし、その後上京して1972年に東京大学に入学した。日本美術史家の山根有三(1919-2001)教授に学び、卒業論文は国宝《婦女遊楽図屏風(松浦屏風)》(大和文華館蔵)について書いた。
1976年大学を卒業後、創作の現場に立ちたいとの思いから就職先はマスコミを選んだという。NHKの制作局に入局し、教育・教養系番組のディレクター、プロデューサーとして、「NHKスペシャル 立花隆のシベリア鎮魂歌 抑留画家・香月泰男」や「白を育む日々 人間国宝・三輪休雪の世界」などに携わった。東京で採用され、1980年まで広島で勤務し、その後は東京を基点に松江と山口を往復した。2005年から広島大学の社会人大学院へも通い、2006年にNHKを早期定年退職。同年愛知淑徳大学へ就職し、現代社会学部現代社会学科メディアプロデュースの教授となった。翌年、広島大学の社会科学研究科博士課程前期マネジメント専攻を修了。2020年まで教員生活を送り、退職後は書家・画家として活動している。
愛知淑徳大学では、ドキュメンタリー制作実習や放送論といった映像制作の授業を行なっていたが、ビジュアルメディア論も担当するようになり、西洋美術史を用いてルネサンスから現代までのメディア論講義を行なっていた。その講義のうちの「現代アート論」が一冊の本『流用アート論』となった。
小田氏がヨルンを知ったのは講義の調べものをしているときだという。《前衛はあきらめない》(1962、ポンピドゥー・センター蔵)を見て面白いと思い、その後《前衛はあきらめない》と《グリーン・バレエ》(1960)の境目に、ヨルンの作風が切り替わっていることに興味をもった。小田氏は「授業では少女に髭を付けた《前衛はあきらめない》を、コンセプチュアルアートの文脈で取り上げた。モナリザに髭を描いたマルセル・デュシャン(1887-1968)やルネ・マグリット(1898-1967)らがやっているダダやシュルレアリスムの影響をヨルンが受けているところを読み取った。《グリーン・バレエ》は、インターネットで見ただけでも、ヨルンの代表作のひとつであることは十分に伝わってきた」と述べた。
カフカ作品の翻訳
アスガー・ヨルン、本名アスガー・オルフ・ヨーゲンセンは、1914年6人兄弟の2番目の長男としてデンマーク王国のヴァイロム(Vejrum)で生まれた。両親はともに教師だった。父親のラース・ピーター・ヨーゲンセンは、キリスト教原理主義者で、ヨルンが12歳のときに交通事故で亡くなってしまう。クリスチャンの母マレンは、首都コペンハーゲンから西へ約250Kmのシルケボーへ引っ越し、子供たちを育てた。15歳のときヨルンは結核と診断されたが回復し、高校生時代に絵を描き始める。教師養成学校に入学し、デンマーク共産党に入党。1933年19歳、肖像画を描いて画壇デビューを果たした。
ヨルンは、シュルリアリスムの影響を受け、バウハウスの元教師であったワシリー・カンディンスキー(1866-1944)の抽象的構成に惹かれて1936年オートバイでパリへ行く。カンディンスキーを訪ねたが、学生は採用しないと断られ、ポップ・アートの先駆者と呼ばれるフェルナン・レジェ(1881-1955)の現代美術アカデミーに入学する。1937年パリ万国博覧会があり、レジェと交流のあった建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)のパビリオン建築に装飾壁画を描き、冬期はコペンハーゲンのデンマーク王立芸術アカデミーで学んだ。
チェコの小説家フランツ・カフカ(1883-1924)に関心をもち、人間存在の意味や社会の不条理を描いたカフカの作品集をデンマーク語に翻訳して出版。1939年幼なじみのキルステン・リンボーグと結婚し、3人の子供をもうける。第二次世界大戦中(1939-45)はデンマークに残り、カンディンスキー、パウル・クレー(1879-1940)、ジョアン・ミロ(1893-1983)らの作風を反映した絵画を描き、前衛雑誌『Helhesten(ヘルヘステン:地獄の馬)』を発行し、絵画や詩のほか、写真、映画、入れ墨、大衆芸術、芸術教育、考古学などの話題を取り上げ、自身も文章を掲載した。1945年公式に名前をアスガー・ヨルンに変更。その年ノルウェーに渡り、エドヴァルド・ムンク(1863-1944)の回顧展を見て感動し、翌年は南フランスのパブロ・ピカソ(1881-1973)を訪ねた。
前衛芸術集団「CoBrA(コブラ)」設立
1946年都市プロジェクト《ニューバビロン》で知られるオランダの芸術家コンスタント・ニーヴェンホイス(1920-2005)にパリで出会う。そして1948年最初の個展をパリのギャラリー・ブルトーで開催する。その年コンスタントや、原色を用いるオランダの芸術家カレル・アペル(1921-2006)、原始的な作風のベルギーの芸術家ギヨーム・コルネイユ(1922-2010)らが中心となって、Copenhagen・Brussels・Amsterdamと出身国の首都の頭文字を取った前衛芸術集団「CoBrA(コブラ)」を設立する。
CoBrAのスローガンは「快楽に賛同、反形式主義」で合理性を批判した。描く行為そのものの自発性と、物質固有の表現力を認めるマテリアリスムを基底に、粗い筆致や強烈な配色に重点を置いた表現で、大抵の場合ある定かならぬ動物の存在を明らかにするような形態を表わし、人類の始まりや幼児期など、起源を追求する一種の抽象プリミティヴィズムであり、ジャン・デュビュッフェ(1901-85)との類似性がみられる。また同名の機関紙を発行して組織的に活動した。
1950年、CoBrAを共につくったコンスタントの妻マティ・ファン・ドムセラーと恋に落ち、2人の子供を得、1951年にコブラは解散。その後ヨルンは再び15歳のとき罹患した結核に倒れ、スイスのローザンヌ近郊の山荘で家族と6カ月間を過ごす。
現代美術と大衆芸術の一致
1953年陶芸を始める。翌年イタリアのジェノヴァに近い海岸沿いの町アルビソーラへ旅行し、夏はアルビソーラ、冬はパリで過ごす。「イマジニスト・バウハウスの国際運動(MIBI: Mouvement International pour un Bauhaus Imaginiste)」と呼ばれるコブラを継承する活動を陶芸によって開始。フランスの著述家ギー・ドゥボール(1931-94)と出会い、1957年にはドゥボールらと社会革命的前衛集団「シチュアシオニスト・インターナショナル(SI: Situationist International)」を創設、2人でアーティストブック『Fin de Copenhague』(1957)と『Mémoires』(1959)を制作した。解放された自由をつくるため、文化革命や社会改革を目指して状況の構築を行なった。パリを中心に学生・労働者・市民による反政府行動の五月革命(1968)に影響を与えたと言われる。
1958年のブリュッセル万国博覧会に《息子への手紙》(1956-57)を出品し、国際的に知られるようになる。1960年には《グリーン・バレエ》を描いた。1961年から1965年にかけては「Skandinavisk institut for sammenlignende vandalisme(SISV)」を設立し、初期のスカンジナビア(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)美術の研究やアーカイブに取り組む。1962年ニューヨークで最初の個展をルフェーブル・ギャラリーで開く。
ヨルンの活動は、絵画、素描、版画、挿絵、コラージュ、陶芸、彫刻、タペストリー、壁画、そして出版を伴う社会運動も含まれていた。1964年にはバーゼルやアムステルダムなどの国際美術展に参加。第4回グッゲンハイム国際美術展では賞の賞金を断るハプニングがあった。1966年から油絵に専念し、《Pixeleret have》や《The Minstrels of Meigle》などを描き始める。また頻繁に旅行し、キューバ、イギリス、スコットランド、アメリカ、アジアを訪れ、1969年パリ郊外のコロンブに家を購入。1973年5月1日、肺がんのためデンマークのオーフスで死去。享年59歳。ヨルンの希望を受けて、スウェーデンのゴットラン島グレトリンボ墓地に埋葬された。
社会思想史を専門とする和光大学の上野俊哉教授は「ヨルンは労働より遊戯を、物質との遊びから得られる生の無意識の能動的享楽を肯定し、物質との目的のないコミュニケーションにアート(芸術と技術)の原理を置いている」(上野俊哉『10+1』No.3、p.59)という。理念を表現するだけに留まらず、創造のための解体まで踏み込んだヨルンは、万人の感覚に共通する現実的な形態を求めて、現代美術と大衆芸術を一致させてきた。
【グリーン・バレエの見方】
(1)タイトル
グリーン・バレエ(ぐりーん・ばれえ)。英題:Green Ballet
(2)モチーフ
森の中で踊る動物たち。
(3)制作年
1960年。ヨルン46歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
145×200cm。
(6)構図
画面の右下に重点が置かれ、空間は左上へ開放されている。
(7)色彩
「光の三原色」である鮮やかな赤・緑・青紫に、青、黄、オレンジ、ピンク、紫、茶、白、黒など多色。
(8)技法
油彩画。即興的でユーモラスな筆遣いとドリッピング、厚い絵具が、画家の描くエネルギーを伝える。第二次世界大戦のもたらした破壊的なイメージに促されて、不定形な形を鮮烈な色彩と激しく走る線によって描く。
(9)サイン
画面右下に黒で「JORN」と署名。
(10)鑑賞のポイント
抽象的な絵画の中に具象的な形や北欧の神話的な要素が込められている。明るい謎めいた画面からは、錯乱と不安の印象が散発する。うねうねと曲がりくねった線は、生の高揚を伝えながらも恐怖と幻覚といった険悪な空気も感じさせる。ヨルンはデンマークの哲学者キルケゴール(1813-55)やフランスのサルトル(1905-80)の実存主義と東洋思想の影響を受けたといわれる。第二次大戦後の1945年から1950年代のヨーロッパでは、抽象表現主義を問い、その回答として非定型のアート「アンフォルメル」が話題となっていた。その特徴は、いまここに生きているという自発的なジェスチャーと作品の物理的特性の強調にあり、本作品にもそれを見ることができる。一見粗野で単純のようだが、明と暗、疎と密、厚さと薄さなどを組み合わせて複雑な構成であり、「森の中で行なうバレエダンス」といったありえない状況をイメージさせるタイトルも多義的である。ヨルン自身は抽象画ではなく、具象画を目指しているが、思想と時代の流れのなかで発現したヨルンのひとつの到達点であり、代表作でもある。
motionでemotionを描く
ヨルンの画風は《グリーン・バレエ》を境に変わっていった。「1960年以前ヨルンは、ベルギーの画家ジェームズ・アンソール(1860-1949)からの影響のもとに顔の集積画を描いていたが、以降の作品にはコラージュ的手法が施されるようになる」と小田氏は言う。愛知県小牧市にあるメナード美術館にはそのアンソールの作品《仮面の中の自画像 》(1899)と《オルガンへ向かうアンソール》(1933)があり、画面はほとんど顔で埋まっている。
小田氏は、《グリーン・バレエ》にも顔の集積の痕跡が見られると指摘する。「画面は円環の動きのイメージを表わし、画面右上には鳥のような形態があり、森の中の物語として描かれている。色彩は、アンリ・マティス(1869-1954)、キース・ヴァン・ドンゲン(1877-1968)の色遣いや筆触から学んでおり、ここでは光の三原色(赤・緑・青紫)を使い、緑に対する補色の赤をアクセントにしている。緑をベースに、森の中で鳥が飛んで踊っているというイメージ。表現主義的で形のない人間の苦悩を表わす象徴主義的でもある。動きを意識したタイトルのバレエは、エドガー・ドガ(1834-1917)のバレリーナ作品《花束を持って挨拶する踊り子》(1878、オルセー美術館蔵)と動勢と画面構成が共通している。バレエというテーマで描こうとしたときに、パステルで描かれたドガの絵の中の動きが念頭にあったのだと思う。ポール・ヴァレリーは『ドガ ダンス デッサン』(岩波書店、2021)のなかで『ドガには身振りへの奇妙な感受性があった』(p.114)、そしてドガの言葉として『〈デッサン〉とはかたち(フォルム)ではない。それはかたち(フォルム)の見方なのだ』(pp.177-178)と紹介している。《花束を持って挨拶する踊り子》に見られる身振りの表現を意識したことで、ヨルンはバレエを主題とした《グリーン・バレエ》を描いたのではないか。ドガは、踊り子の動きの一瞬をデッサンや写真を合成して具象画を描いたが、ヨルンは決まりのポーズではなく、運動の流れの形を揺らぎとして描出した。つまり静止画としての決定的瞬間を描くのではなく、動きのなかの任意の瞬時をイメージ化した。ヨルンは動き(motion)を描きながら、併せて心の動き・情念(emotion)を表わした。既存のオリジナル作品を流用し、隠されていたイメージを受け止め可視化することで、その多義的なメッセージを鑑賞者と共有しようと、身体表現としてのバレエに思いを託し、躍動感と生命感溢れる《グリーン・バレエ》を描いた。ヨルンのなかの顔のある群像の集大成であり、完成形だと思う」と小田氏は語った。
小田茂一(おだ・しげかず)
アスガー・ヨルン(Asger Jorn)
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参考文献
2023年5月