アーティストの方々は、自分の作品や展覧会のレビューを読んで、どう感じているでしょうか。嬉しく思われることばかりではなく、自分でも考えていなかったような解釈に驚いたり、ときには反発を感じられることもあるかもしれません。近年、「レビュー」や「キュレーターズノート」で取り上げたアーティストの方々に正面から問いかけてみることにしました。[artscape編集部]

執筆者

河野愛(アーティスト)
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(舞台作家)
近藤銀河(アーティスト、美術史家)
八木幣二郎(アートディレクター、グラフィックデザイナー)
三浦直之(ロロ主宰/劇作家/演出家)
原田裕規(アーティスト)

 

河野愛からの応答

元となった記事:
高嶋慈|なつやすみの美術館14 河野愛「こともの、と」(2024年08月22日)


展覧会準備中のスタジオにて

展覧会タイトルにある「こともの」について、高嶋さんが書かれた「美しいが得体の知れない吹き出物」という、両義性を孕んだ言葉にあらためてハッとさせられました。同時に展覧会の準備中、和歌山県立近代美術館に収蔵された1万5千点のコレクションから、工藤哲巳と松谷武判の作品を展示するかどうかを非常に悩んだことを思い返しました。そもそも「吹き出物」という言葉が持つ身体感覚を、この両作家と自分の作品を並べることで、展覧会に持ち込めないかと考えていたからです。最終的に両作家の作品は展示しなかったのですが、高嶋さんの「美しいが得体の知れない吹き出物」によって、内側から何かが溢れ出しそうな感覚や時間をもっともっと生々しく想起させる展示が作れていたのかもしれないと、今、振り返っています。美術館の近現代の膨大なコレクションと作家が生きた時間との交わりを心から楽しみ、それらが制作において良き思考の集中と循環を及ぼしたことは言うまでもありません。

育児は、人が(ある程度)そつなく生きること、その日々が(ある程度)エンドレスで続く前提を突きつけられることだと感じます。特に乳児期の育児は、突如生活に加わった乳児という異物/異者を生かすために、繰り返す毎日を異物/異者を凝視することに費やされ、その時間には強い緊張が伴いました。その緊張のなかではじめた乳児の肌と真珠を撮影する試みは、美術作家としてこの異物/異者とどのように距離を保つか悩み、見つけ出した方法であるようにも思います。

乳児の肌と真珠は《100の母子と巡ることもの》として、リレーショナルな試みへ発展しました。日本、海外を問わず、乳児を育てる母親72人と郵便やメールで長期にわたりやり取りをした時間は、母の子への親密な凝視を理解し拡張するために重要なプロセスでした。メールに添付されて返信される写真を開くたびに、高嶋さんが書いてくださったように、タイポロジー的でありながらも、個別の強烈な凝視が存在し、手応えを得ていきました。今後も異物/異者との関わりが私の制作の起点になっていくのだろうと感じています。

かわの・あい
1980年滋賀県生まれ。大阪府在住。2007年京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。染織やテキスタイルを制作におけるルーツとし、陶やガラス、布、骨董、写真、映像などを複合的に用いながら、場所や人の記憶や時間、価値の変化をテーマに制作している。「なつやすみの美術館14 河野愛『こともの、と』」(和歌山県立近代美術館、2024)、大阪関西国際芸術祭(2022)、紀南アートウィーク(2021)、「Soft Territory かかわりのあわい滋賀県立美術館(2021)など。
https://aikawano.com

 

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクからの応答

元となった記事:
スペースノットブランク『原風景』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年03月15日号)
スペースノットブランク『ウエア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年04月01日号)
スペースノットブランク『光の中のアリス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)
生き生きと、長持ちさせる方法を巡って──『ダンスダンスレボリューションズ』と上演の軽さ|谷竜一​(京都芸術センター):キュレーターズノート(2023年10月15日号)

『原風景』のために高松市でアーティスト・イン・レジデンスを行なった際に高松競輪場で撮影した写真。高松の自転車屋さん田町クラウズにTyrellの折りたたみ自転車をお貸しいただきました[筆者撮影]

私たちは、人が編み、人が平す世界を生きている。

そこで大切なのは、「感じる」ことである。「感じる」こと抜きに人は風景を眺めることはおろか、日々を形成することだってままならない。だからこそ、その「感じる」世界を言葉にして書き留めることは、芸術のために限らない、最も尊く消失してはならない人の行ないの最後の砦で在り続けてほしいと切に願う。

「私たち」はいま現在、舞台を作る芸術家として活動している。舞台には上演という時間と空間が設定されることがよくあり、そこに「私たち」以外の誰かが、その風景を見に訪れ、眺め、感じる。私たちは思い出すことができる。それを言葉にして書き留める。その言葉をまた別の誰かが読む。それを誰もが読める環境に置くことは必須ではないものの、そのための場所があることは素晴らしい。私たちは思い出すことができる。

『原風景』は大変で必死な日々だった。49日間の高松でのアーティスト・イン・レジデンス。しかしたくさんの人々と出会い、それ自体を舞台として披露できたことは、過程と結果のどちらもがかけがえのない経験のひとつとなった。

現在は過去の集積の上にあり、あるいは現在のなかに過去は折りたたまれている。

[引用元:スペースノットブランク『原風景』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年03月15日号)]

『ウエア』について思い出すと、それはまさに現代のパンデミックの直前、いや、いま思えばすでにその渦中にあったのだと気づく。上演に付随する時間と空間の外に位置する記憶が強く点滅する。そして上演のその瞬間から現在まで引き延ばされる時間の距離に想いを馳せる。さて、いまはどうなのだろう。それもまた未来にわかることでしかない。

「虚構」はやがて決壊し「現実」に流れ込む。

[引用元:スペースノットブランク『ウエア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年04月01日号)]

『光の中のアリス』は、KIPPUという京都芸術センターとロームシアター京都が協働して行なう創造支援プログラムで上演した。現代のパンデミックに存在した波と波の狭間、そこに強く強く強く光を差し込まんと意気込んで力みと脱力を繰り返した末の身体の気怠さが記憶に残る。そして2024年、4年越しに再び上演を果たすことができた舞台でもある。そのギャップは私たちのなかに永遠に保存されているが、光が強まるほど、その背後にある底知れない深い影に愕然とせざるを得ない。

それは、「おもひで」への後退的な自閉からの、「日本」という自閉空間からの、そして「物語」という虚構からの、不可能なまでの「脱出」への希求である。

[引用元:スペースノットブランク『光の中のアリス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)]

『ダンスダンスレボリューションズ』には希望しかない。プロセスは実験に満ち溢れ、成果は軽量かつ重厚なドラマとパフォーマンスのネオサイトスペシフィックを確立した。ちょうど1年後の2024年9月に再び上演を行なったことは記憶に新しい。

思考のループ、行動のサイクルは止まらないが、時折はいったんそれを上演の場において眺めてみよう。

[引用元:生き生きと、長持ちさせる方法を巡って──『ダンスダンスレボリューションズ』と上演の軽さ|谷竜一​(京都芸術センター):キュレーターズノート(2023年10月15日号)]

目まぐるしく、いま現在の眼前の情報ばかり追いかけてしまう只中、ふとしたきっかけで過去と現在の集積を思い出すことができる。隠れていたものが現われてくる。「私たち」の風景の数々が鮮明に思い出せるなんて、ましてやそこにいない誰かが見たこともない風景を見ることができるなんて、得した気分である。

編む地平 光が影を 照らし出す
重ね層成る 新たな砦

おのあやか なかざわあきら すぺーすのっとぶらんく
二人組の舞台作家・小野彩加と中澤陽が舞台芸術作品の創作を行なうコレクティブとして2012年に設立。舞台芸術の既成概念と、独自に研究開発する新しい仕組み(メカニズム)を統合して用いることで、現代に於ける舞台芸術の在り方を探究し、多様な価値創造を試み続けている。固有の環境、関係から生じるコミュニケーションを創造の根源として、クリエーションメンバーとの継続的な協働と、異なるアーティストとのコラボレーションのどちらにも積極的に取り組んでいる。Dance Base Yokohama レジデンスアーティスト(2023〜24年度)。
https://spacenotblank.com

 

近藤銀河からの応答

元となった記事:
山﨑健太|近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』(2024年09月27日)
高嶋慈|近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』(2024年07月30日)


筆者による著作をイメージしたアートワーク。人々が集いゲームをしている様子[提供:近藤銀河]

こんにちは、レビューを掲載していただいた『フェミニスト、ゲームやってる』の著者の近藤銀河です。artscapeさんには高嶋慈さんと山﨑健太さんによる二つもの評を載せてもらっていました。どちらの評もフェミニズム、クィア、そしてゲーム、三つの分野を横断する本の意図と構成を冷静かつ的確に汲み取ったもので、ありがたかったです。

さてこの文章は批評本の批評の批評ということになるわけですが、それらの評はけっして静的なものではない、と私は考えます。本について高嶋さんはこんな風に書いています。「本書は『ゲーム批評』であると同時に、読者をクィアな『実践』に向けて開いていくもの」と。

そのとおりです。まさにそのために私はこの本を書いたのでした。「実践」。それは何に対する実践でしょうか? 私は差別的で規範的なこの世界に対して否を示し、そうではないあり方を示していくことだと思っています。

高嶋さんはまたこうも読み取ってくれます。「規範的でないとされる生/性を生きる人々にとって、日常生活自体がすでに『無理ゲー』である。」と。山﨑さんも、本で語られているゲームにおけるルールと、日常で直面する差別的な規範の類似に着目しています。そうした評自体も実践につながるものでしょう。

また興味深いのは、お二人ともあまりゲームをなされないとしている点です。本を作るときに考えた読者層のひとつが「フェミニズムやクィアに関心があるがあまりゲームを知らない人たち」でした。その点でそんなお二人に読んでいただけたことがとても嬉しかったです。

高嶋さん山﨑さん共に生の人間によるパフォーマンスに関わる方ですが、そんなお二人だからでしょうか、本をひとつの流れとして読んでくださっているのは驚きであり嬉しかったことです。

高嶋さんは本自体をダンジョンにたとえ、「読書経験自体、ある意味『ゲーム』的だった。」とします。山﨑さんは「個人的には歴史研究とクィア批評の視点が交錯するところにゲームの可能性が浮かび上がる『80-90年代を描くゲーム、やってみた』から『歴史を想像するゲーム、やってみた』への流れを特に面白く読んだ。」と語り、個人的なゲームから歴史へ向かう本全体の流れを評価し「掬い出された過去は新たな現在を築くための礎となる。本書の最後に記されているのはそんな希望とゲームを通じた連帯への誘いである。」と締めます。

冒頭に書いたとおり、ここでは批評自体実践にひらかれているものです。この評が、規範とルールに満ちた世界になにかのプレイをやり返すきっかけをあたえ、また新しい物語にひらかれていくことを願います。

こんどう・ぎんが
1992年生まれ。アーティスト、美術史家、パンセクシュアル。中学の頃にME/CFSという病気を発症、以降車いすで生活。主に現代から見てレズビアン的と見える西洋美術を研究するかたわら、ゲームエンジンやCGを用いてセクシュアリティをテーマにした作品を発表する。ライターとして雑誌「現代思想」「SFマガジン」「文藝」などへ寄稿多数。共著に『『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く』(河出書房新社、2021)、『われらはすでに共にある─反トランス差別ブックレット』(現代書館、2023)、『SF作家はこう考える』(社会評論社、2024)など。単著に『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社、2024)。

 

八木幣二郎からの応答

元となった記事:
青山新|八木幣二郎「NOHIN: The Innovative Printing Company 新しい印刷技術で超色域社会を支えるノーヒンです」(2024年08月05日)


「NOHIN: The Innovative Printing Company 新しい印刷技術で超色域社会を支えるノーヒンです」展外観[撮影:竹久直樹]


濃尾食品ロゴ[提供:八木幣二郎]

NOHIN: The Innovative Printing Company 代表謝辞

 

「青山新|八木幣二郎「NOHIN: The Innovative Printing Company 新しい印刷技術で超色域社会を支えるノーヒンです」についての未来のアーカイブからお届けします。

 

ここは「NOHIN」の展示があったかもしれない並行世界の一地点。
それ自体がこの世界における重要な記憶となっています。「並行世界」とその内容が、いかに真実味を伴い、見た者の心に何をもたらしたか。その回答が、すべての時空での物語に潜む鍵となるのです。

 

八木幣二郎氏が率いる「ノーヒン」のフードプリンティング技術。超色域社会を支える企業として、ここに描かれるその姿。それは架空の未来像でありながら、現代を反射する鏡でもありました。この展示は、八木氏のクリエイティブな実績を総覧する場でありながら、「実績」という枠組み自体を問い直す試みだったのかもしれません。あるいは、存在そのものがあなたのレビューを通してのみ構築された別次元のグラフィックデザインだったのか。

 

そして、「並行世界」の一言に込められた視点。それは「真実」と「虚構」の境界線をゆるやかに撹拌し、観察者を新たな次元に誘います。「本稿のみを読んだ者はそれを真実と信じるほかない」とありますが、それこそが、この展示とレビューの根幹にある問いではないでしょうか。「現実とは何か」「記録が未来において史実となる過程とは」。
この世界において、展示が実在したかどうかは、もはや重要ではないのかもしれません。重要なのは、あなたがその語り口で作り上げたもうひとつの「ノーヒン」という存在。そして、それを読む者がいかなる解釈をして次元を拡張していくか。あなたのレビュー自体がまた、ひとつの展示品としてアーカイブされる運命にあります。

 

もしこの文章が、未来の時空で観察者の手に届くならば、そこから再び新たな物語が紡がれることでしょう。その始まりに、私たちがこうして邂逅したことを記録しつつ。

NOHINと共に。光のその先へ。ノーヒンは、あなたのもとに未来をお届けします。

 

NOHIN社一同

やぎ・へいじろう
1999年、東京都生まれ。グラフィックデザインを軸にデザインが本来持っていたはずのグラフィカルな要素を未来からの視線で発掘している。ポスター、ビジュアルなどのグラフィックデザインをはじめ、CDやブックデザインなども手掛けている。 主な展覧会に、個展に「誤植」(The 5th Floor、2022)、「Dynamesh」(T-House New Balance、2022)、「NOHIN : The Innovative Printing Company」(Ginza Graphic Gallery、2024)。グループ展に「power/point」(アキバタマビ 21、2022)がある。

三浦直之からの応答

元となった記事:
山﨑健太|ロロ 劇と短歌『飽きてから』(2024年09月19日)
ロロ『オムニバス・ストーリー・プロジェクト(カタログ版)』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年11月15日号)
ロロ『BGM』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
ほか

ロロ 劇と短歌『飽きてから』より[撮影:阿部章仁]

自分の作品について書かれた批評を読むのは、肯定であれ否定であれいつも嬉しい。いや、もちろん否定的な批評を読むのは凹むし、ときには自身の無自覚な暴力性に気づかされて自己嫌悪に陥ったりもする(というか、優れた批評っていうのは肯定か否定かみたいに単純に割り切れるものじゃない)。

ぼくはいつも、戯曲にしろ演出にしろ意図に満ちたものにしたいと思ってる。批評は、意図からこぼれた作品の無意識を掬い上げて言葉にする。それは、ぼくにぼくの知らなかった作品のポテンシャルを気づかせてくれる。さらに、それぞれの作品をつなげてみることで、個々の作品だけじゃなく、ロロの総体としてポテンシャルに気づく契機になる。

例えば、山﨑健太さんの『BGM』と『飽きてから』に関する文章。『BGM』の再演での戯曲の変更点について書かれるなかで、「変わってしまった」という言葉が出てくる。初演当時と再演とのあいだで変わってしまった社会や私たちのこと。僕自身、再演は常に「変わってしまった」こととどう向き合うかが重要だと考えてきたから、この言葉がとても嬉しかった。『飽きてから』の評では「共有しないもの」について書かれている。ぼくは、「変わってしまった」と「共有しないもの」という二つの言葉に連関をみる。私たちは変わってしまう。変わってしまう私たちは、どうしても共有できない事柄が増えていく。『飽きてから』は、それでも消えるわけじゃない親しみについての物語だったのかもしれないと気づく。まったく別々のモチベで書かれた『BGM』と『飽きてから』だけれど、この二つの評を通してみると、『BGM』の延長線上としての『飽きてから』をみつけられる。

同じく山﨑さんの『オムニバス・ストーリーズ・プロジェクト』(以下、OSP)についての批評には「人はほかの人の人生のごく一部しか知ることができず、しかしそれらはときに思いもよらぬかたちで関わり影響を与え合っている」と書かれている。これも『飽きてから』の「共有しないもの」と通じ合う。だけど、『OSP』と『飽きてから』では、共有できない主体がちがう。『OSP』では共有できない主体は登場人物をみつめる観客たちだったが、一方『飽きてから』における共有できない主体は、登場人物自身だ。そういえば『BGM』の再演でも、まず「変わってしまった」のは、作り手自身や社会の私たちだった。そして、『飽きてから』では、変わっていく暮らしを生きる登場人物たちが描かれた。まず作品世界の外で生まれたものが、作品世界の内側へと流れ込んでいく。ロロの活動は、いつもこのプロセスとともにあるのかもしれない。

ぼくは、物語のなかで好んで出会いの瞬間を書く。それまで関わりのなかったなにかとなにかが出会うことで生まれる新しい世界にずっと関心がある。批評も、それまで関係ないとおもっていた物語同士を、あるいは文化や社会を、衝突させることで新しい可能性が開かれていく。だからぼくは、批評を読むのが好き。

みうら・なおゆき
ロロ主宰/劇作家/演出家。10月29日生まれ宮城県出身。2009年、日本大学藝術学部演劇学科劇作コース在学中に、処女作『家族のこと、その他たくさんのこと』が王子小劇場「筆に覚えあり戯曲募集」に史上初入選。同年、主宰としてロロを立ち上げ、全作品の脚本・演出を担当する。自身の摂取してきた様々なカルチャーへの純粋な思いをパッチワークのように紡ぎ合わせ、さまざまな「出会い」の瞬間を物語化している。2015年より、高校生に捧げる「いつ高シリーズ」を始動。高校演劇のルールにのっとった60分の連作群像劇を上演し、戯曲の無料公開、高校生以下観劇・戯曲使用無料など、高校演劇の活性化を目指す。そのほか脚本提供、歌詞提供、ワークショップ講師など、演劇の枠にとらわれず幅広く活動中。2016年『ハンサムな大悟』第60回岸田國士戯曲賞最終候補作品ノミネート。
http://loloweb.jp/


原田裕規からの応答

元となった記事:
原田裕規「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年08月01日号)

日本ハワイ移民資料館への導線と内観。多くの来場者がこの場所を写真に収めていた[撮影:松見拓也]

この企画は、普段レビューを「書かれっぱなし」のアーティストが、書かれたレビューに対して「リプライ」する試みであるとのこと。ぼくは普段、レビューを書くことも書かれることもあるけれど、GoogleマップやAmazonのレビューとは違って、美術メディアに掲載される展覧会レビューはある特殊な役割を担っていると思っている。
一般的にイメージされる「レビュー」は、ある作品や展覧会が「良かった」「悪かった」などと(ときには舌鋒鋭く)言葉にするものだと思う。そのときに、書かれた側が「納得いかない」と思うことがあれば、それに応答したくなる気持ちも湧くだろう、という意図がこの企画の根底にはあるはず。だけどぼく自身は、今までそのように感じたことは一度もない。

なぜなら、展覧会のレビューは(表向きにはそう見えなくても)アーティストとともに展覧会を創造する営みであるから。アーティストにとって、命をかけてつくった展覧会が誰からも見られず、誰からも批判されず、無視されることがもっとも怖い。展覧会は「すべての人」に開かれたメディアであるため(展覧会には、どんな階級、ジェンダー、思想の人でも訪れることができる)、まさしく「見られるための存在」であり、人に見られることによって初めて世界に存在することになる。だから無視されるということは、それが社会的に「なかったこと」になるのと等しい。せっかく懸命に料理をつくっても、誰からも食べられることがなければ、その料理の存在理由がなくなるのとおおむね同じことだと思う。

料理が「つくる人」と「食べる人」の共同作業によって社会的な存在になるのと同じように、展覧会も「つくる人」と「観る人」の共同作業によって初めて社会的な存在になる。そして展覧会のレビューは、「観る人」の声を世界に残るかたちで具現化したものだ。だからこそ、その声がどんな内容であれ、その存在を否定することは「観る人」の存在を否定することにつながる。「つくる人」であるアーティストは、基本的にいつだって「観る人」の存在に助けられている(そして「観る人」もそれと同様に)。

……ちょっと抽象的過ぎるので具体的に書きます。

ぼくはこれまで、artscapeに3本の展覧会レビューを掲載してもらいました。そのなかのひとつ、2023年に高嶋慈さんが書いてくれた「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(日本ハワイ移民資料館)のレビューについて。ぼくは展覧会をつくるとき、意識的に「表層」と「深層」を用意するようにしています。ここでいう「表層」とは、あまり美術に詳しくない人であっても、その展覧会がどのようなものであるのか、一応の結論を持ち帰れるようにするというもの。
それに対して「深層」は、美術に詳しい人であっても退屈しないように、たとえば「表層」の逆をいくようなメッセージを仕込んだり、複数のレイヤーが重なり合うことで見えてくる意味を空間の中に折り込ませるというもの。高嶋さんにはこれまで2本のレビューを書いていただきましたが、基本となる「表層」はしっかり押さえながらも、誰よりも鮮やかに(そして過不足なく)「深層」を描写してくれる、まさに職人のような書き手だと思います。
そんな「職人タイプ」の高嶋さんが、ぼくのレビューのなかではおそらく一度だけ、職人らしからぬ「アドリブ」を見せた場面がありました。日本ハワイ移民資料館の個展レビューにおける、下記の箇所がそうです。

日本ハワイ移民資料館は、モノや文字資料は溢れているが、(シアターコーナーの映像の一部をのぞき)日系移民自身の語る声の展示はない。そうした「肉声の不在」を補完する役割ももつ本展は、「原田裕規というアーティストの個展」ではあるが、常設化がふさわしいと思われる意義をもっていた。

このレビューが掲載された時点では未確定で、情報公開もされていませんでしたが、このとき展示された4点の作品は、その後同館に収蔵されることが決まり、さらには館内での常設展示も始まりました。このレビューが書かれておよそ1年後のことです。まるでその状況を予見するような内容だったと、ぼくの周囲で話題になりました。
日本ハワイ移民資料館は、その名の通り「資料館」であるので、現代美術はおろか美術作品すら普段は扱わない施設です。そんな場所に、いかにも現代美術然としたぼくの映像作品が収蔵されるということは、なかなか想像しづらいこと。しかし高嶋さんのレビューをはじめとする来場者の声には、それを望むものが少なからずあり、そうした声に後押しされるかたちで収蔵と常設化が決まりました(注:本原稿を執筆している2024年12月時点では、広島市現代美術館で開催中の個展「原田裕規:ホーム・ポート」(会期:2024年11月30日~2025年2月9日)に同館の作品が貸出・出品されているため、常設展示は一時休止しています)。

先ほど、展覧会のレビューは「つくる人」と「観る人」がともに価値を創造する営みであると書きました。その意味でいえば、高嶋さんの書いてくれたこのレビューほど、象徴的に「価値を創造」した例は少ないかもしれない。もちろん、このレビュー1本によって収蔵と常設化が決まったわけではないけれど、作品をつくった作家、会場になった資料館、そして展覧会を訪れる鑑賞者(=レビュアー)の三者が見ている景色がぴったり一致したからこそ、この幸福な状況が実現したのだと思いました(逆にいえば、作家、会場、観客のいずれか一者でも異なる方角を向いてしまったら、展覧会にとっては不幸な状態が生まれることになるかもしれません)。

だから普段はあまり伝える機会がないけれど、高嶋さんをはじめとするレビュアーの方々には「価値を一緒に生み出す仲間」として、感謝というよりもむしろ、一緒に戦場を駆け抜ける戦友であるとか、アトリエを共有している仲間であるとか、そういう仲間意識をもっています。広い意味でのコラボレーターであるかもしれない。
むしろ残念に思っていることがあるとすると、普段あまり感謝の言葉を伝える場所がないということになるのかな。だから、展覧会を見てくれる人、そして「見たこと」を声にして発してくれる人、本当にありがとう。これからも命を削って作品をつくっていくので、これからも作品を見続けてくれると嬉しいです。

はらだ・ゆうき
1989年、山口県生まれ。アーティスト。とるにたらない視覚文化をモチーフに作品を制作している。主な個展に「原田裕規:ホーム・ポート」(広島市現代美術館)、「公開制作vol.4 原田裕規 ドリームスケープ」(長野県立美術館)、「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(日本ハワイ移民資料館、2023)、「アペルト14 原田裕規 Waiting for」(金沢21世紀美術館、2021)など。2023年にTERRADA ART AWARD 2023でファイナリストに選出、神谷幸江賞受賞。
https://www.haradayuki.com/

 

過去の特集

8人のアーティストの移住と時間割(2024年03月25日):阿部航太/黒田大スケ/佐々木友輔/大道寺梨乃/高尾俊介/野村恵子/蓮沼昌宏/村上慧
アーティストに教わる 簡単おいしい「アトリエ飯」(2022年12月15日号):風間サチコ/国松希根太/新井卓/土谷享/会田誠/高嶺格/手塚愛子
5人のアーティストの他生物との暮らし(2021年12月15日号):今井俊介/AKI INOMATA/三原聡一郎/山本愛子/志村信裕
2020年、アーティストたちの距離・時間・接触(2020年12月15日号):久門剛史/高谷史郎/額田大志/市原佐都子/笹岡啓子
2017年に印象に残った読みモノはなんですか?(2017年12月15日号):青野文昭/岩崎貴宏/志賀理江子/砂連尾理/野口里佳/藤野高志
12人の移動するアーティスト(2017年01月15日号):ミヤギフトシ/山内祥太/下道基行/赤岩やえ/榊原充大/毛利悠子/篠田千明/鈴木昭男/松原慈/山川冬樹/荒神明香/田村友一郎